第6章 引き留め
残り半分は、あっけないほど早く捌けた。
キーラは同じ場所で二度売らない。 売り方も同じにしない。 巻き葉は袋を変え、酒は渡す相手を変え、香油は"欲しがる顔"にだけ見せる。
エイドは槍を下げたまま、距離だけで場を整えた。 ミレイは風を薄く流して匂いを散らし、客を呼び、同時に追い払った。 ノアがいない分、釣り銭の計算はキーラが自分でやった。指の動きが速い。
リュミエルは"いる"のに視線が滑る。 覚えられない光。それが一番の護衛だ。
三日かかるはずの量は、二日も要らなかった。
「……目標金額、到達。金貨十五枚」
二日目の夜、宿に戻ってキーラが言った。声は淡々としているのに、机に置いた金貨の音が勝利を告げていた。仕入れ八枚。粗利七枚。安宿なら一か月泊まれる分が、二日で出た。
「はや」
ミレイが呟く。
「はやいほど油断できないわ」
キーラが言うと、エイドがため息を吐いた。
「この街、物騒すぎるだろ」
「物騒じゃない。明快」
キーラは金貨を袋に戻した。
「上に行くわよ。中層。——明日の朝一で」
ミレイが首を傾げる。
「ノアさん、迎えに行かなくていいの?」
「行くわよ。朝一で」
キーラは短く答えた。
「契約は契約。二日働かせたら、二日で迎えに行く」
エイドが槍を立てかける。
「……マスター、引き止めそうだな」
「引き止めるでしょうね」
キーラは笑わない。
「でも帰すわ」
リュミエルが楽しそうに言った。
「賭ける?」
「何を?」
「マスターが泣くか、怒るか」
ミレイが口の端を上げる。
「泣くに一票」
「怒るに一票」
エイドが続ける。
キーラは肩をすくめた。
「両方よ」
*
酒場に迎えに行ったのは、その翌朝だった。
扉を開けた瞬間、熱気が違った。 煙が濃い。笑い声が多い。杯の音が途切れない。 二日前より明らかに"客"が増えている。
エイドが眉を上げる。
「……なんか、繁盛してない?」
ミレイが小さく言った。
「なんで……?」
「昨日の予感が当たりそうね……」
キーラは無表情で返す。
リュミエルが小声で囁く。
「ほら、見て」
カウンターの内側に、ノアがいた。 エプロンを付け、髪をまとめ、背筋を伸ばして——淡々と杯を並べている。
そして、驚くほど"似合っていた"。
客が声をかける。
「姉ちゃん、次こっち!」
「おい、こっちもだ!」
ノアは顔をしかめもせず、順番を指で示した。
「先にこちらです。次はそちら。割り込みはおやめください」
言い方は丁寧だ。 だが、断言している。逆らえば"恥"になる言い方だ。
客が笑って引き下がる。
「はは、怖ぇなぁ。いいぞ、そういうの」
「怖くありません」
ノアは真顔で言った。
「秩序です」
エイドが小声でミレイに言う。
「……秩序って酒場で言うか」
ミレイも小声で返す。
「ノアさんだから……」
カウンター奥でマスターが、信じられないものを見る顔をしていた。 嬉しいのに、怖い。そんな顔。
キーラがカウンターを軽く叩く。
「迎えに来たわよ」
ノアが振り向いた。 一瞬だけ、目がほどける。
「……お待ちしてました」
「待ってないでしょ。楽しそうに見えるわよ」
キーラは短く言って、ノアの手元を見る。
指先に薄い赤。水仕事で荒れた皮膚。 ノアは隠そうともしない。働いた証拠だからだ。
ミレイが眉をひそめる。
「大丈夫?」
ノアは小さく頷いた。
「はい。……仕事、覚えました」
「覚えなくていい」
エイドが即答する。
「覚えたらまた働かされる」
ノアが少し困った顔をして、口元だけで笑った。
「……なるほど」
その会話の端から、マスターが割り込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
声が裏返っている。
「いや、待って! 帰るって何ですか、帰るって!」
キーラが視線だけ向ける。
「帰るわよ」
「だ、だめです! いや、だめっていうか……ほら!」
マスターは両手を広げた。客でいっぱいで活気のある店内を示す。
「見てくださいよ、この客! 二日前と全然違うでしょう!?」
エイドがぽつりと呟く。
「違うな……」
ミレイも頷く。
「……違う」
ノアは居心地悪そうに視線を落とした。 自分のせいだと分かっている顔だ。
マスターが息を吸って、必死に言った。
「最初の日はね、ちょっと増えたかな、って程度だったんです。でも二日目——昨日ですよ! 口コミで広がったんです! "秩序の酒場"だって!」
「秩序の酒場……」
エイドが小声で繰り返す。
「もう、噂になってるの?」
ミレイが呆れたように言う。
マスターが勢いづく。
「なってます! なってますよ! "喧嘩が許されない酒場"、"順番を守る酒場"、"下層で一番公平な酒場"って!」
ノアが顔を上げた。
「……それは、当たり前のことを——」
「当たり前じゃないんです! 下層では!」
マスターが叫ぶ。
「給金、上げます! 倍! いや、三倍でもいい!」
キーラが即答する。
「いらない」
「いります! いりますよ! 私の生活のために!」
「生活は自分で守れ」
「だから守らせてくださいよ!」
マスターは涙目だった。
「この店、二日前まで"いつ潰されるか"って店だったんです! なのに今、客が笑ってる! 金が回ってる! ——あの子がいるだけで!」
ノアが顔を上げた。
「……私は、ただ……秩序を守ってるだけで……」
「それができないんですよ! この街で!」
マスターが叫ぶ。
エイドが口を挟む。
「いや、でも雇うなら普通に雇えばいいだろ。給金で」
「給金じゃない!」
マスターが今度はエイドを睨む。
「——この子は"看板"なんです!」
ミレイが視線を逸らして、咳払いで誤魔化した。
「看板……」
ノアの耳が赤い。
キーラはため息を吐いた。 そして、懐から紙を一枚出した。二日前、ノアが働く条件を追加したときに、ノアが真面目に書かせた"簡易契約"だ。
「これ」
マスターが覗き込む。
「な、なんですかこれ」
「私たちの目標金額に到達次第、期間満了」
キーラは淡々と言う。
「今日で終わり。延長は——前金十倍とるわよ」
マスターが青ざめた。
「じゅ、十倍!?」
エイドが小声で言う。
「……え、マジで?」
ミレイが横で呟く。
「……キーラ、鬼」
ノアが真顔で言った。
「……十倍は、妥当ですか?」
「妥当じゃない」
キーラが短く返した。
「冗談」
マスターが崩れ落ちそうになる。
「じょ、冗談……」
キーラは肩をすくめた。
「冗談が通じないなら、ベルカンで商売は無理よ」
マスターが顔を上げる。
「通じます! 通じてますよ!」
客の一人が笑った。
「おい嬢ちゃん、マスターを泣かせるなよ! せっかく儲かってんだろ!」
別の客が囃す。
「引き止めてないで、せめて酒を出せ!」
「秩序の女神を返せ!」
「女神はやめろ! 恥ずかしい!」
別の客が怒鳴る。
店内が笑いに戻る。 ノアはその笑いの中で、少しだけ肩の力を抜いた。
キーラがノアの手首を軽く掴む。
「行くわよ」
ノアは頷いた。
「……はい」
マスターが最後の悪あがきみたいに言う。
「また来てください! いや、……時々だけでも!」
キーラは振り返らずに答えた。
「来ない。だから今日から、ちゃんと覚えておきなさい。"いなくても回る店"の回し方を」
マスターが呆然とする。
「……そんなの……」
「できる」
キーラは言い切った。
「できないなら、誰かに買われる。それだけよ」
冷たい言い方なのに、不思議と突き放していない。 ベルカンの優しさは、こういう形をしている。
客の一人が立ち上がって、ノアに向かって手を振った。
「姉ちゃん、また来いよ!」
「秩序の女神、万歳!」
「女神って呼ぶな!」
ノアが慌てて頭を下げる。
「ありがとうございました。……秩序を守ってください」
最後まで真面目だった。
酒場を出ると、朝の下層の空気が冷たかった。 煙の匂いが薄くなり、代わりに潮の匂いが入ってくる。
ノアが小さく言った。
「……私、役に立ちましたか」
エイドが即答する。
「立ちすぎ。困る」
ミレイも頷く。
「立ちすぎ。目立つ」
ノアが困ったように笑う。
キーラは短く言った。
「立った。だから行くのよ」
そして、遠くに見える巨きな影を指した。 中層へ上がるための、大型エレベーター。
滑車と鎖と、木の枠。 人の命を"上"へ運ぶ装置。
エイドがそれを見上げる。
「……あれに乗るのか」
「そう」
キーラが頷いた。
「下層でできることは終わり。次は中層」
ミレイが息を吸う。風が髪を揺らす。
「……上に行けば、空気が変わる」
ノアが静かに付け足した。
「……宿代も、食費も、中層では高くなります。下層の三倍は覚悟しないと」
そして小さく、祈るように。
「変わりますように」
リュミエルが静かに返した。
「変わるわ。——でも、良くなるとは限らない」
キーラは歩き出した。
「良くするの。商売も、旅も」
エイドが小声で言う。
「……ノア、酒場の女神って呼ばれてたな」
「秩序の女神」
ミレイが訂正する。
ノアが顔を赤くした。
「やめてください……」
「いい二つ名じゃない」
リュミエルが楽しそうに言う。
「二つ名はいりません」
ノアが真剣に否定する。
その真剣さが、また笑いを呼んだ。
下層の石畳が背中に遠ざかっていく。 彼らは中層へ向かう。
ベルカンの"上"へ。




