第5章 酒場の主と条件
路地は細くなっていく。
灯りが減っていく。
人の声が遠のき、代わりに酒と煙の匂いが濃くなる。
キーラたちは、荒れくれ者から聞いた場所へ向かっていた。
酒場が三つ並んでいる場所。その真ん中の扉。
エイドが槍を握り直す。
「……本当に行くのか」
「行くわよ」
キーラは迷わず言った。
ミレイが小さく息を吐く。
「さっきの人たち、戻ってきたりしない?」
「戻ってこない」
キーラが断言する。
「親玉に報告が行った時点で、あいつらの仕事は終わり。次は親玉が判断する」
ノアが静かに聞く。
「……相手は、どう判断するでしょうか」
「見極める」
キーラは歩みを止めない。
「使えるか、潰すか。ベルカンはそれだけ」
リュミエルが小さく笑う。
「シンプルね」
「シンプルじゃなきゃ、下層は回らない」
その匂いの先に、扉が三つ並んでいた。
看板はない。
ただ、真ん中の扉の前だけ、男が二人立っている。
どちらも笑っていない。笑う必要がない立場の顔だ。
キーラが近づくと、男の一人が腕を組んだ。
「……何の用だ」
「商売」
キーラが短く答えた。
「親方さんに会いに来た」
男の目が細くなる。
「名前も知らねぇのに会えると思ってんのか」
「会えるわよ」
キーラは金貨を一枚、指の間で滑らせて見せる。
「さっきの連中が報告してるはず。新顔の商人。上等品を持ってる」
男が相棒に視線を飛ばす。
相棒が扉を開け、中へ声を掛ける。
しばらくして、相棒が戻ってきた。
「……通せ、だと」
男が渋々道を空ける。
「変な真似すんなよ」
「変な真似はしない。——あなたたちが、しなければね」
キーラの返しに、男は返事をしなかった。
*
酒場の中は、熱かった。
煙が低い天井に溜まり、油と安酒の匂いが混ざる。
笑い声はある。だが軽くはない。ここでは笑いも"縄張り"だ。
キーラたちが入った瞬間、何本もの視線が刺さった。
エイドは反射で息を浅くする。背中が硬くなる。
——守る。
その言葉を頭の中で転がしかけて、噛み潰した。
繰り返すと動きまで硬くなる。守りは言葉じゃない。立ち位置だ。
奥のカウンターから、酒場のマスターらしい男が出てきた。
布巾を肩に掛け、顔には愛想の仮面。手元は慣れている。
「いらっしゃ——」
言いかけて、止まった。
キーラたちの後ろに、精霊がいる。
槍。箱。——そして、説明できない"光の違和感"。
面倒の種類を嗅ぎ分ける目だ。
「わ、私が話を聞こう——」
マスターが一歩前に出た瞬間、キーラが遮った。
「急いでいるの。用があるのは、あんたじゃない」
「え?」
キーラは奥の席を見た。
「親方よ」
マスターの喉が鳴った。
"間"に立たされた顔になる。ここで間違えると、自分が燃える。
そのとき、奥の席がきしんだ。
椅子が一つ、ゆっくり引かれる音。
誰かが立ち上がる。
酒場の空気が、そっちへ吸われる。
次に聞こえたのは、怒鳴り声じゃない。
低くて、短い声だった。
「新顔、か」
男が姿を現す。
四十代。頬に傷。船長の外套みたいな布が肩に馴染んでいる。
この場で一番怖いのは、手じゃない。"決める"ことができる顔だ。
マスターが慌てて頭を下げる。
「ハーケン親方——」
男は、片眉だけ上げて言った。
「……ザック・ハーケンだ。親方でいい」
その名が落ちた瞬間、酒場の熱が一段落ちた。
ざわめきは戻らない。笑いも戻らない。
ただ、今この場の値段が決まった——それだけで十分だった。
ザック・ハーケンが指を鳴らすと、マスターが渋い顔のまま酒を出した。
安い酒じゃない。匂いが違う。——下層でも、親方の席だけは上の味が来る。
ザックが顎で椅子を示す。
「座れ」
キーラは迷わず座った。
エイドとミレイは立ったまま。ノアは少し後ろ。
リュミエルは、いつも通り"そこにいる"。
キーラは杯に口をつけない。香りだけ嗅いで、置く。
「急いでるって顔してるな」
ザックが面白そうに言う。
「急いでるわ」
キーラは頷いた。
「上に上がりたい。なるべく早く。下層で売り歩いてる時間はない」
「ならさっさと上に行けばいい。金を払ってな」
「上に行くには金と信用が要る。信用を買う金は作った。——今は時間を買いたい」
ザックが鼻で笑う。
「時間を買う? 景気のいい言い方だ」
キーラは箱に指を置く。叩かない。鳴らさない。
音を立てると、値段が立つ。
「だから買って。余り物の上等品、二箱。香油と酒と巻き葉。全部まとめて」
「全部?」
「全部」
ザックの視線が箱からキーラに戻る。
品物を見る目から、背景を嗅ぐ目に変わる。
「……誰が後ろにいる」
一拍置いて、ザックは言った。
「精霊……さては、セレナだな?」
エイドの肩がぴくりと動いた。
ノアの指が膝の上で固くなる。
ミレイは表情を動かさない。動かせば、値札になるからだ。
リュミエルは、黙って笑っている。酒場の灯りの中で、彼女だけは"光の質"が違う。
キーラは間を置かずに答えた。
「そうよ。あんたら因縁がありそうね」
ザックが苦く笑う。
「この街で、あの腐れ水と因縁がないやつを探す方が難しい」
「どうでもいい」
キーラの声は冷たい。
「買うの? 買わないの?」
ザックは杯を傾け、喉を鳴らした。
「買わないね。あのババァの懐に入るくらいならな」
「じゃあ終わり?」
キーラが椅子から腰を浮かせる。
立ち上がり方が早い。だが雑じゃない。"帰る"の形ができている。
「待て」
ザックが手を上げた。止めたのは情じゃない。損だ。
「腐れ水と戦争なんざごめんだ。だが、せいぜい俺にできるのは——お前らの商売を邪魔させない程度だ」
キーラは腰を戻す。戻すのも早い。
「それでいい。名を貸して。邪魔を止めて」
ザックが笑う。
「名は高いぞ」
「売上から二割六分。持っていけばいい」
数字が落ちた瞬間、周りの空気が一段硬くなる。
マスターが眉をひそめた。数字は酒場を汚す。残るからだ。
ザックは歯を見せる。
「話が早い。……だが、それだけじゃ足りねぇ」
キーラは目だけで促す。
ザックが杯を置く。音が短い。
「お前らがセレナの札で動くなら、俺が噛む理由が要る」
キーラは視線を逸らさない。
「理由なら作れる」
「作るな。あるものを出せ」
キーラは笑わない。
「セレナが今、一番欲しがってるもの、知ってる?」
ザックの目が細くなる。
マスターが顔をしかめる。ここから先は"危ない話"になる。
キーラは低く言った。
「教会の神官長」
エイドが眉をひそめた。
ミレイの視線が一瞬だけキーラに刺さる。——それをここで言うのか、という目。
リュミエルは何も言わない。ただ、楽しそうでもない笑みを保っている。
キーラは続ける。
「そいつの行方を追ってる。捕まえたら金貨千枚。生死は問わず。——セレナにとってはそれが本命」
ザックの口角が、ゆっくり上がった。
「ほーう……千枚」
「追えとは言わない。情報だけでいい」
「情報だけで、俺に何が入る」
キーラは即答する。
「恩よ」
ザックが鼻で笑う。
「恩なんざ腹の足しにならねぇ」
「腹の足しになる恩よ」
キーラは言い切った。
「セレナに恩を売れば、この街の"金"に手が届く。あんたの酒場が上等になる。——ここをね」
マスターが顔を引きつらせる。巻き込まれるのが分かっている。
ザックは黙って、酒をもう一口飲んだ。
黙りは計算だ。計算の間を、キーラは崩さない。
やがてザックが言う。
「……いいだろう。神官長の"行方"を当たってやる」
キーラは頷く。余計な礼は言わない。礼は値段になる。
「その神官長の特徴を後で教えろ」
キーラは一拍置いて頷いた。
「分かった」
キーラは箱に視線を落とす。
「で、積み荷は」
ザックが指を二本立てる。
「半分だけ買う」
「それだけ?」
キーラの声が少し尖る。
「確証がねぇからな」
ザックは肩をすくめる。
「千枚の話が本当かも、神官長がこの辺りにいるかも。——だが俺は、噂で全部は買えねぇ」
キーラは一瞬だけ歯を噛む。
"商人の焦り"が顔を出しかけて、すぐ消える。出せば負ける。
「残りは?」
「好きに売れ」
ザックが即答して、続ける。
「ただし、俺のシマで売るなら挨拶しろ。今日は特別だ。次は特別じゃねぇ」
キーラは頷いた。
「分かった。——商売の邪魔はなしよ」
「なしだ」
ザックが杯を掲げる。
「取引成立」
杯の音が、場に落ちた。
紙も判子もない。だがここでは、これで契約が動く。
マスターが箱へ手を伸ばしかけて、止まる。親方の許可を待つ癖が骨に染みている。
ザックが顎で示す。
「持ってけ」
マスターが震える手で箱を受け取り、奥へ運ぶ。
運び方が丁寧なのは、品物が上等だからじゃない。親方の機嫌が怖いからだ。
キーラは一息だけ吐いて、次を言う。
ここで止まると、条件が増える。
「条件がもう一つ、あるんでしょ」
ザックが笑う。
「よく分かってるじゃねぇか」
「分からないふりをすると高くなる」
「賢い女は嫌いじゃねぇ」
ザックの目が冷たくなる。笑いのまま冷たくなる。
「この酒場に、ウエイトレスをよこせ」
エイドの指が槍の柄に食い込む。
ミレイが半歩動きかけて、止まる。動けば"喧嘩"になる。喧嘩になれば吊り上がる。
ノアが息を吸って言った。
「……私がやります」
キーラの手がすぐ伸びた。ノアの肩を掴む。行かせない掴み方だ。
「その提案はするな」
キーラの声が低い。
「"条件"に人質を入れるなら、この取引は無し。今ここで席を立つ」
キーラは立ち上がり、箱に手を置いた。——持って帰る構えだ。
ザックの目が細くなる。試す目だ。折れるかどうかを見る目。
キーラは折れない。
沈黙が落ちる。
沈黙が長いと値段が上がる。キーラは目を逸らさない。
ザックが小さく息を吐いた。
「……言い方が悪かった」
マスターが目を見開く。親方が言い方を直すのは珍しい。
珍しいのは、キーラが折れないからだ。
ザックは短く言い直す。
「働き手が要る。店の手が足りねぇ」
「雇うなら、雇用の形にしなさい」
キーラが即座に返す。
「触らない。酒を無理に飲ませない。変な噂を付けない。破ったら、取引も情報も潰す」
ザックが肩をすくめる。
「いい。俺の店で余計なことをしたら、俺の酒場が舐められる。——それは俺が嫌だ」
ノアが一歩だけ前に出る。怯えじゃない。条件を測る目だ。
「日当。危険手当。——私の身の安全」
ザックが笑う。
「高ぇ」
「高い仕事をします」
ノアの声は揺れない。揺れないのが、ここでは価値になる。
ザックが頷いた。
「いい。マスター、面倒見ろ。余計なことはさせるな。余計なことをしたら——」
言い切らない。言い切らなくても、マスターの顔が青くなる。
「……分かりました」
マスターは頷いた。頷かされている。
キーラがノアの肩を軽く叩く。
「終わったら迎えに来る。絶対に」
ノアがほんの少しだけ笑う。
「はい」
エイドはそれを見て、槍の柄を握り直した。守るものが増えたときの握りだ。
ミレイはその横で、静かに呼吸を戻す。ここで怒らないのは、怒るより効く手があると知っているからだ。
キーラは椅子を引いた。
「残り半分を売ってくるわ」
ザックが笑う。
「急ぐ女は嫌いじゃねぇ」
キーラは笑わない。
「急がないと死ぬ街でしょ」
扉へ向かう背に、ザックが低く付け足す。
「キーラ」
呼び捨ては距離じゃない。値段を上げる呼び方だ。
「……千枚の話、外で軽く口にするな。下手に広がると面倒だ」
キーラは振り返らない。
「分かってる」
酒場の外はまだ下層だ。
だが今、彼らは"シマ"を一つ踏んでいる。
踏んだ足跡は、上へ続く。




