第3章 余り荷
港の朝は、夜より腹が減っていた。
怒鳴り声の数が違う。
荷を下ろせ、札を出せ、税を払え。
声が“仕事”の形をしていて、逃げ道がない。
桟橋の端で、船長が腕を組んで待っていた。
日に焼けた顔のまま、目だけが乾いている。眠っていない目だ。
「来たか」
船長の一言に、キーラが先に歩み寄る。挨拶を削り、用件だけを抜いた。
「倉庫は?」
「押し込めた。お前の言った区画だ。……助かった」
礼を言うのが早い男は、礼より先に問題を持ってくる。
船長は顎をしゃくった。
甲板の上に木箱が並んでいる。数が多い。多すぎる。
船員たちが箱を寄せては、落ち着かない手つきで縄を締め直していた。
「だが、トラブルだ」
エイドが肩を固くする。
「海賊か」
「海賊なら分かりやすい。……違う」
船長は舌打ちして、乾いた声で言った。
「“キャンセル”だ。到着が半日遅れた。それだけで契約を切りやがった」
ミレイが思わず声を漏らす。
「半日で?」
「ベルカンだ。納期は命だ」
船長は一番上の箱を拳で軽く叩いた。木が鳴る。
鳴った音が妙に、金の音に近い。
「上層の商会だ。あいつらは迷いなく切る。荷は要るが、遅れた荷は要らねぇ。……違約金だけ置いてな」
ノアが一歩前へ出る。声が静かだ。
「証文は」
船長が革袋を放る。ノアが受け取り、中身を確かめた。
紙の束、封蝋、印。金貨。
「……綺麗に切ってますね」
ノアの静けさが、怒りの形をしている。
「切り方が“慣れてる”」
「だろ」
船長は笑いもしないで頷いた。
「で、余った荷がこれだ」
箱の列を指す。
「単品で売れば高い。だが時間がかかる。検品もいる。信用もいる。何より——」
彼は桟橋の外を一瞥した。
「俺の船はすぐ出る。倉庫も今すぐ空にしねぇといけねぇ。港の倉庫代が銀貨六枚から九枚に跳ねた。結界の負担金も増えた。ここは"置く"だけで金がとられる」
キーラが頷く。感情ではなく、計算で。
「だから投げ売りする」
「投げるしかねぇ」
船長は吐き捨てるように言った。
「だが下層に投げりゃ、足元を見られる。盗られる。揉める。……割に合わねぇ」
そこで船長はキーラを見る。答えを知っている目だ。
「お前ならどうする」
キーラは箱のひとつに手を置いた。
木の表面をなぞり、刻印を確かめ、縄の結び目を見る。
“中身”より先に、“扱われ方”を見る目。
「私が買う」
エイドが反射で声を上げた。
「は?」
ミレイも同時に言う。
「え?」
船長が短く笑う。
「即答かよ」
キーラは笑わない。
「即答。——条件を出す」
指を一本立てる。
「相場の四割で買い取る」
船長の眉が動いた。箱一つ金貨五枚の荷だ。四割なら二枚。怒る前に計算する顔だ。
キーラは続ける。
「あなたは今、売り先がない。時間もない。箱ごと買う相手を探す時間もない。だから四割。——代わりに、いまこの場で現金」
指を二本立てる。
「それと、護衛はいらない」
船長が目を細める。
「……下層だぞ」
「分かってる」
「なら護衛を——」
「いらない」
キーラは同じ重さで、もう一度言った。
船長の後ろで船員が首を傾げる。
エイドも同じ顔になって、キーラに詰めた。
「いや、いるだろ。護衛」
キーラはエイドを一瞥して、顎でミレイを示す。次にエイドの腰のあたり――槍の紐へ視線を落とした。
「あんたらより使える護衛がタダでいるから」
「タダって……?」
思わずエイドが聞き返す。
キーラが淡々と言う。
「槍と風。護衛が増えるほど目立つ。目立てば“場所代”も“因縁”も増える。下層はそういう計算で襲ってくる」
ミレイが小声でぼそりと零す。
「……タダって言い方は雑」
キーラは聞こえないふりをして、箱の縄を解いた。
船長が一瞬だけためらう。
「本当にいいのか。中身は——」
「見るわよ」
キーラの指先が布をめくる。
ふわり、と匂いが漏れた。
甘くて刺す。油と花と、遠い国の木の香り。
別の箱からは乾いた香草の匂いと、樽の中で熟れた酒の匂い。
香油の小瓶。封蝋がまだ生きている。
蒸留酒。瓶の刻印が上層の商会印。
巻き葉。乾燥した束と、丁寧に巻かれたもの。湿度箱まで付いている。
——上層用の上等品。
しかも混載。単品で売れば強い。だが混ざっているせいで、扱いが面倒だ。
キーラの口元が、ほんの少しだけ上がった。
ミレイが横から覗き込み、囁く。
「……いま、笑った?」
キーラは即答する。
「笑ってない」
エイドが追い打ちをかける。
「笑ってた」
「笑ってない」
ミレイが小さく鼻で笑った。
「はいはい。商人の顔」
キーラは箱の中から一枚の紙を引き抜いた。端に、赤い印。
ノアが覗き込む。声が硬い。
「キャンセル印……」
キーラが紙を折り畳み、淡々と言う。
「これがあると、上層に“正規の荷”として戻せない」
ノアが補足するように言った。
「上層に持ち込むほど足元を見られます。……価値が落ちる」
船長が肩を落とす。
「そういうことだ」
キーラは紙を戻し、箱の蓋を閉めた。
「下層なら逆に“上の匂い”になる。印は気にしない。気にするのは——見せびらかせるかどうか」
エイドが唸る。
「下層って、そんな理由で買うのかよ」
キーラは言い切った。
「買う。見せびらかしは金になる。怖さも、格も、全部」
船長が腕を組み直す。
「……四割。護衛なし。現金払い。いい度胸だな」
キーラは金貨の袋を取り出し、口を開けて数を見せた。金貨八枚。
多くはない。だが"いまここで出せる"量だ。
「船を軽くしてすぐ出航できる。倉庫も空にできる。あなたは損を最小にできる。私は差額を最大にできる」
船長はしばらく黙って、最後に短く言った。
「決まりだ」
金が動く音がした。
木箱が、キーラたちの荷になった。
船長が最後に言う。忠告というより、確認だ。
「後悔するなよ。下層は——」
「知ってる」
キーラが遮る。
「下層は、目で襲う。だから目立たない。速く売る。場所を変える。相手を選ぶ」
荷紐を締め直し、キーラはエイドを見る。
「行ける?」
エイドは槍の紐を確かめ、深呼吸して頷いた。
「……行ける、と思う。守る」
ミレイが小さく笑う。
「えらい」
風の隙間から、スウィフトの声が混ざる。
『肉はあるか、契約者』
ミレイが即座に返す。
「今はない」
『なら働け』
ミレイは反射で言い返しかけて、口を閉じた。
代わりに、エイドの袖を軽くつまむ。
「働くなら一緒にね」
「え?」
「一人で突っ走るなって言ってるの。……この街、見てるだけで分かるでしょ」
エイドが言葉を探しているあいだに、ミレイは荷紐を結び直した。ほどけないように、指先だけで確かめる。
『一緒に働くなら肉も倍だな、契約者』
「倍にはならない」
ミレイは即答した。
ただ、息だけが少し白くなるみたいに、短く漏れた。
「……終わったらあげるから。だから今は、手を動かして」
キーラが横で頷く。声は商人のまま。
「露店は一度きり。迷ったら負けるわよ」
リュミエルは箱を見て、静かに言う。
「急ぐほど、街が口を開けるわよ」
キーラは微笑みだけ返した。
「口を開けたなら、吐き出させてやろうじゃない。——金をね」
そして、荷を担いで歩き出す。
港の喧騒の向こうへ。薄暗い下層の市場へ。
キーラの背中は迷っていない。
迷った瞬間に、ベルカンに食われると知っている背中だった。




