第2章 潮風と、矛盾
甲板を離れても、潮の匂いは髪に残る。
船室の木の匂いに混ざって、ずっと追いかけてくる。
ミレイは自分の寝床——といっても、毛布と荷の間の狭い隙間に潜り込んで、天井の板を見上げた。
揺れで釘がきしむ。遠くで誰かが笑う。船は夜でも働いている。
——さっきの会話。
思い出すつもりはなかったのに、勝手に浮かぶ。
ああいうのは、海の泡みたいに、いちばんいらないときに浮く。
ノアが言った。
「私の目的は、キーラと生きること。……そのついでに、私も生きます」
——その瞬間、ミレイは咳払いで誤魔化した。
誤魔化したのに、肩が震えたのをエイドに見られた。
面白いわけじゃない。
面白いわけがない。
ただ、頭が勝手に並べ始めたのだ。
キーラはエイドを——いや。
狙ってるとか、そういう単純な言葉が似合わない。あの人は距離の詰め方が商売人すぎて、何が本気で何が取引か分からない。
そしてノアはキーラを——それは……そういう意味?
女の人が好き、とか……?
違うかもしれない。
違うかもしれないのに、“そう見えた瞬間”に、世界が変な並び方を始める。
じゃあ私は。私は?
エイドが好きで、って言うと、言葉が重すぎる。
好きじゃないって言うと、嘘になる。
どっちも言えなくて、喉の奥で引っかかって、変な音だけが残る。
——私は、何なんだろう。
ミレイは毛布の中で、枕代わりの袋をぎゅっと握り潰した。
「……何なのよ、もう」
声は小さくなった。
小さいのに、胸の中だけうるさい。
そのとき、耳元に、潮風と違う気配が触れた。
『契約者よ?』
スウィフトの声だった。
潮の匂いを嗅いでいるみたいにのんびりしているくせに、こういうときだけ鋭い。
『さっきから、考えていることが矛盾だらけでおかしいぞ』
「おかしくないわ」
即答した。即答することで、冷静に見せたかった。
「私は冷静よ」
『冷静が、いま“言えない”という形になるのか?』
「うるさい」
毛布の端を引っ張って、自分の顔にかぶせた。
見えないようにしたところで、矛盾は消えないのに。
『なぜ矛盾する』
「……知らないわよ」
『なら整理すべきだ。契約者は整理が得意だろう』
「得意じゃない」
『嘘だ。さっき指を立てていた』
ミレイは呻いた。あれを見られていたことが腹立たしい。精霊は平気で見ている。
「……あれは、エイドに分かりやすく言っただけ」
『分かりやすく言えるなら、自分にも言える。――何が怖い』
毛布の内側で、ミレイは息を止めた。
怖い。
でも、何が。
『彼女らの関係が気になるのか』
「……気になるっていうか……」
『なら聞けばよい』
「聞けるわけないでしょ」
『なぜ』
「空気があるの!」
『空気は吸うものだ。読んでどうする』
「そういう空気じゃない!」
スウィフトが、少し黙った。
船室の軋みが一拍ぶん、大きく聞こえた。
『……契約者よ。お前が気にしているのは、“誰が誰を好きか”ではない』
ミレイは毛布の中で目を見開いた。暗いのに、目が開いた感覚がある。
『自分の気持ちが、どこへ行くのか分からない。それが怖いのだ』
「……そんなの、当り前でしょ」
『当り前なら、矛盾してよい』
言い切る声が、妙に真面目だった。
『矛盾は悪ではない。矛盾は、心が動いている証だ』
ミレイは、その言い方にだけ、反論できなかった。
動いている。
止めたいのに。止まらない。
——ベルカンで、私はちゃんと“お守り”ができるのか。
そこにだけ、笑いは入り込めない。
ベルカンは値札の街だ。
値札が付くのは、荷物だけじゃない。泊まる場所。通る道。黙っている権利。見逃されるための優しさ。
そしてたぶん、精霊の力も。
守るべき相手が、値札の前で立ち止まったとき。
私は、止められるのか。
止めることが正しいのか。
——止めた結果、もっと危ない道に追い込むんじゃないのか。
ミレイは毛布を引き上げて、深く息を吐いた。
「……三日後、ベルカン。商人の街」
自分に言い聞かせるように呟く。
『そうだ。値札の街だ。契約者よ』
スウィフトが、今度はいつもの調子に戻って言った。
『値札の街では、感情も売れるかもしれんぞ』
「売らない」
『売らぬなら、大事にせよ』
「当り前よ」
『なら冷静だ』
「……だから、私は冷静なの」
そう言って、ミレイはようやく目を閉じた。
潮の音が、板一枚向こうで鳴っている。
矛盾はまだ胸の奥で小さく揺れていたが、船の揺れに紛れて、少しだけ遠のいた。




