第33章 旅立ち
忙しかった冬も過ぎ、春の花々が雪の間から芽を出す頃、港の朝は、音が多い。
綱が軋む音。
板を叩く足音。
桶の水が跳ねる音。
そして、人の声が重なる。笑い、怒鳴り、取引の数字――全部が潮の匂いと混ざって、空気をざらつかせる。
リーベは、出航の街だ。
出ていく者も、帰ってくる者も、ここでは同じ顔で見送られる。
「次はいつだ」と聞かれることも、「戻るのか」と疑われることもない。
ただ、港が回る。回り続ける。その上に、人生が乗る。
エイドは、板張りの桟橋の上に立っていた。
肩に掛けた鞄は軽い。軽いのに、背中が重い。
それは荷物の重さではなく、決めたことの重さだった。
――卒業後に旅に出る。
あれだけ遠い言葉だったものが、いま目の前の船体になっている。
いや、船体というには、目の前のそれは少し大きすぎた。
二本の帆柱。広い甲板。舷側には補強の鉄。
小船の頼りなさではなく、「商い」を運べる形の船だ。
港の人間が視線を送るのは、だいたいこういう船だった。
(……なんで、こんなのに乗れるんだ)
エイドが喉の奥で呟くより早く、耳元でいつもの声が笑った。
「……浮かれてる顔だね」
肩の上に光が落ちるみたいに、リュミエルが寄った。人の目には見える。朝の光と混ざって、白い輪郭を持ったままそこにいる。
「浮かれてない」
言い返すと、リュミエルは小さく笑った。
「浮かれてる。怖いのと、楽しみなのが混ざってる顔。あなた、そういう顔する」
エイドは返さない。
返したら、ほんとに浮かれているみたいで嫌だ。
向かい側では、ミレイが鞄の紐を握り直していた。
肩のあたりには風の輪が光っている。
輪は“飾り”じゃない。薄い風が常に指先を撫でていて、今にも跳べるように身体を軽くしている。
その肩の上。
小さなイタチがいた。
毛並みは風に揺れる草みたいに滑らかで、尻尾の先が空気を撫でるたび、ほんの少しだけ音が変わる。
ミレイが目を逸らすと、イタチの目が細くなった。からかうように。
「……見ないで、って言ってるでしょ」
ミレイが小声で言う。
イタチは、ふん、と鼻を鳴らしたように見えた。
(喋ってるんだよな、あれ……)
エイドは、まだその“普通じゃなさ”に慣れていない。
隣の世界に足を踏み入れた感じが、いつまでも残っている。
「おーい、荷は積んだかー!」
低い声が飛んでくる。港の男だ。
船員が手を振り、樽と箱が滑車で持ち上がる。帆柱がきしむ。
荷の扱いも手際がいい。
小さな便船の慌ただしさじゃない。人手が足りている船の落ち着きがある。
その一連の段取りの中に、遅れて二人が現れた。
片方は、歩幅が早い。目が速い。
相手の財布の膨らみと、船の等級と、港の客の気分――全部を一度で見ている目だ。
もう片方は、歩幅が小さい。背中が固い。
人混みの中で、自分が“邪魔”になっていないかをずっと確かめる歩き方。
キーラとノアだった。
キーラは、桟橋の端で立ち止まり、目の前の大きな船を見上げて口角だけを上げた。
自分の手柄だと言わんばかりでもない。――もっと当然だと言いたげな顔。
エイドは眉を寄せた。
「……キーラさん、何をしたんだ?」
キーラは得意げに言った。
「キーラでいいわ。あと、船は“交渉”で変わる」
「紹介状があるなら、使わなきゃ損よ」
キーラが指先で小さな封筒を軽く振った。
艶のある封蝋。印章の形が分かる。
セレナの屋敷で見たのと同じ印だった。
「セレナさんの?」
「そう。港の連中は“名前”に弱いの。特に、金の匂いがするとね」
エイドは、嫌な気分になりかけて、でも言葉にできないまま黙った。
セレナさんの思惑の匂いが、紙一枚からでも漂う。
キーラはそのまま船員に声を掛ける。
声の高さも距離も、ちょうどいい。馴れ馴れしくもなく、硬すぎもしない。
「この便の船長さんに取り次いで。名簿、こっちで揃えてある。手間、取らせないわ」
「名簿……?」
エイドが聞き返すと、キーラは首だけで返した。
「こういうの放っとくと、あんた“荷物”と同じ扱いされるわよ。名前がないと、次の港じゃ人じゃなくなるわ。――ほら、名前と所属、区分書いて」
船員が封筒を見て、一瞬だけ顔色を変えた。
変えたあと、すぐに「承知しました」と丁寧になる。
その変化を見て、エイドは余計に落ち着かなくなる。
「……これ、どれくらい高い船なんだ」
「高くはない。高く“見える”だけ」
キーラはさらりと言った。
「商都ベルカン行きの便は、見栄で動く。見栄は信用。信用は金。金は――」
「もういい」
エイドが遮ると、キーラは肩をすくめる。
「じゃあ、黙って乗りなさい。船酔いする前に」
ノアはその会話を聞いて、笑うでもなく、ただ一歩下がった。
大きな船の影は、彼女にとって安心というより“知らないものの圧”に近い。
港の音が大きいほど、彼女の呼吸は小さくなる。
「……大丈夫?」
ミレイが声をかけると、ノアはびくりと肩を跳ねた。
そして、慌てて頭を下げた。
「は、はい。……大丈夫です。すみません」
「あ、謝らなくて、いいですよ?」
ミレイの声が少しだけ柔らかくなる。
ノアは頷いたが、また「すみません」と言いかけて飲み込んだ。
その瞬間だった。
リュミエルの目が、キーラに止まる。
笑っているのに、光の輪郭が一段だけ鋭くなる。
見慣れた“警戒”だ。リュミエルが本気で何かを測るときの目。
リュミエルは、エイドの袖口をほんの少しだけ引いた。
「ねえ、エイド」
「なに」
「……あの商人」
声が低い。
港の喧騒に紛れるように、でも確実に耳に入る。
「前に、私たちを狙ってたやつ」
エイドの背中が、少しだけ硬くなった。
(……あ)
忘れていたわけじゃない。
でも、あの夜の混乱と、その後の禁測地の死線と、会議と、セレナさんの屋敷と――
“今さら”持ち出すには遠くなっていた記憶だ。
キーラは、船員に名簿を渡しながら笑っている。
笑い方が上手い。相手の気分を上げる笑い方だ。
そして、相手の警戒が落ちた瞬間に、言葉を入れる。
――商人だ。
「気を付けて。あの子、エイドをまだ狙ってるかも」
リュミエルが言った。
“狙ってる”という言い方が、そのまま刃に聞こえた。
エイドは目だけで答えた。
分かった、と。
荷札を結び終えたミレイが、ちょうどその背に追いついた。
「……え?」
ミレイの顔が、わずかに赤くなる。
一瞬、呼吸が止まったのが分かる。
「狙ってるって……なにそれ」
ミレイが、妙に早口で言う。
リュミエルは「そのままよ」と返しかけて、言葉を飲んだ。
エイドが目で止めたからだ。
ミレイの視線が、キーラへ向かう。
キーラは、名簿を回収しながら、今度は荷物係に指示を出している。
胸を張っているのに、動きは軽い。
大きな船に“当然の顔”で乗る人間の手際だ。
「……そういうこと?」
ミレイは呟くように言って、でもそれ以上は言わなかった。
言ったら、自分の中で確定してしまう。
「……なに想像したんだ?」
エイドが、少し砕けた声で言った。
「別に、今ここで話すことじゃない」
「余計に怪しいじゃん」
ミレイが食い下がる。
自分でも分かっている。食い下がっているのに、止まれない。
「……ミレイ?」
エイドが言う。
名前を呼ぶだけ。
それだけで、ミレイの胸がまた鳴った。
(やめて、そういう呼び方)
呼び方が砕けるほど、距離が近い気がして、
近いのに、離れていく気がする。
「……いい。分かった」
ミレイは言った。
分かったと言って、全然分かっていない顔だった。
キーラがふいに振り返り、エイドを見た。
「なに? 私の話?」
笑っている。
笑っているのに、目の奥が商人の目だ。
エイドは首を横に振った。
「ううん、別に」
「ふうん」
キーラはそれ以上踏み込まない。
踏み込まないところが、余計に怖い。
ノアは、船の縁に触れながら、海を見ていた。
波が光る。
その光が揺れるたび、彼女の瞳も揺れる。
(また、知らない場所へ行く)
怖い。
けれど、戻る場所もない。
戻れば、教会の手が伸びる。
伸びる手が怖い。
怖いから、ここにいる。
「……出航するぞー!」
船員が声を張り上げた。
幅の広い渡し板が掛かる。
人が流れ始める。
エイドは足を動かす。
板の上は少し揺れた。
揺れは、地面とは違う。
もう戻れない揺れだ。
船に乗り込むと、甲板が広い。
荷の匂い。汗。海水。木材。
全部が混ざって、旅の匂いになる。
そして何より、人の流れが“詰まらない”。
大きな船の余裕が、そのまま息のしやすさになる。
リュミエルが、風を避けるようにエイドの肩の上へ寄る。
「これからどんな旅になるんだろうね」
「険しい旅になると思うぞ」
エイドが小さく言うと、リュミエルは満足げに頷いた。
スウィフトがミレイの肩で小さく鳴いた。
ミレイは小声で返す。
「うるさい」
イタチは尻尾で頬を撫でた。からかうように。
「……出航ー!」
船員の声。
綱が解かれる。
桟橋が離れる。
リーベの街が、ゆっくり遠ざかる。
石畳。倉庫。塔。教会の尖塔。
全部が小さくなっていく。
教会の尖塔が小さくなるたび、ノアの肩が少しずつ下がった。
エイドは、手すりを握りながら、前を見る。
海の向こうに、次の街がある。
商都――ベルカン。
名前だけで、胸が鳴る。
交易の匂い。金の匂い。人の匂い。
リーベとは違う形で、世界が動いている場所。
(どんな街だろう)
胸が、わくわくと鳴る。
同時に、怖い。
怖いけど、進みたい。
キーラは、港の風を吸い込みながら、船の手すりを軽く叩いた。
船の木は硬い。硬いのに、よく鳴る。金の鳴り方だ。
ノアは、怖さで喉が乾きながら、それでも船の先を見た。
怖い。
怖いのに、足を止める理由がない。
ミレイは、甲板の端で一度だけキーラを見た。
風が髪を揺らして、キーラの横顔が一瞬だけ柔らかく見えた。
その瞬間、さっきの言葉が胸の底から浮き上がる。
――狙ってる。
狙う。
商売。
それとも。
(……恋とか?)
そんなわけがない、と理性は言う。
でも、そこに繋げた途端、胸が嫌な熱を持つ。
熱くなるのが悔しいのに、止められない。
ミレイは唇を噛んだ。
噛んで、またキーラを見るのをやめる。
海風が冷たい。
冷たいのに、胸の中だけが温度を持って、落ち着かなかった。
帆が風を受け、船はマリネア連邦随一の商都ベルカンへ向けて滑り出した。




