第32章 命令の代わり
キーラは今日も仕事を終えた。
それだけの言葉が、喉の奥で引っかかる。
屋敷の仕事は疲れる。疲れるのに、終われば「終わった」と実感できる。市場の後片付けみたいに、手を動かした分だけ区切りが付く疲れ方だ。
裏稼業みたいに、終わったのに終わりが見えない――そんな疲れ方じゃない。
使用人区画の廊下は、夜になると音が薄い。
部屋の扉を閉めると、外の上品な気配がすっと遠のく。
同室の小さな寝室。ベッドが二つ。簡素な机。洗面台。
屋敷の中で、ここだけが“生活”の匂いをしていた。
キーラは紐を解く。肩からメイド服を落とすと、肌が一気に自由になる。自由になった瞬間、疲れがどっと押し寄せた。
「……はぁ。今日も終わったー」
声に出すと、やっと自分の一日が自分のものになる。
「……お疲れさま、です」
ノアの返事は小さい。けれど今日はちゃんと届く声だった。
「お疲れ。……この屋敷の服、肩が凝るわね」
キーラは言いながらベッドの端に腰を落とし、靴を脱いで髪を解く。肩を回す。
明かりは最低限。暖炉はない代わりに、小さな湯たんぽが布団の中で膨らんでいる。
倒れ込みたい。
倒れ込む前に目に入った。
向かいのベッドの脇に立っている影。
ノアの寝間着が妙に薄い、というより――合っていない。細い肩と華奢な腰のわりに、胸だけが布を持ち上げてしまって、前合わせが落ち着かない。紐を結んでも、そこだけが息をするみたいに浮く。
本人は寒そうに肩をすくめているのに、視線はどうしても胸元に引き寄せられる。そういう体つきだった。髪がまだ濡れていて、首筋に水滴が残っている。
「……ちょっと」
声が先に出る。
「早く寝るわよ? 風邪引く」
ノアがびっくりと揺れた。揺れてこちらを見る。目が逃げ場を探している目だった。
「……すみません」
「謝るな。自分を気遣え」
言い直したつもりなのに、ぶっきらぼうな声になる。
相手は頷いて、でも動かない。動かないまま指先で寝間着の縁を握りしめる。
布を引っ張って胸元を隠そうとしているのに、隠そうとするほど形が強調される。ノアは、その“見られ方”の意味を理解していない顔をしているのが、余計に危うい。
「……なんで、そんな格好してるの?」
「……その、服が……」
言葉が途切れる。足りない、と言えない。慣れてない、と言えない。
それ以上に――この身体のせいで、普通の寝間着が普通に収まらない、と言えない。
キーラは息を吐く。こちらまで息苦しくなる。
「寒いなら、これ使え」
予備のショールを投げる。
両手で受け取り、肩に掛けた――はずなのに、ショールは胸のあたりで持ち上がり、布がきれいに落ちない。そこで突っ張って前が開きやすくなる。
しかも本人は安心したように息を吐いてしまう。余計に、そこが主張する。
こちらは一拍、固まった。
「……うわ」
言葉が漏れた。悪態じゃない。計算違いの声だ。
「……すみません……!」
「謝るな。悪いのは私」
言い切ってから、自分で少し可笑しくなる。
自分用のショールだ。自分の胸の幅に合わせた布だ。つまり――合わないに決まっている。
「……私、そんなとこで引っかからないわよ」
キーラは自分の胸元を指でトントンと叩いてみせる。指が当たるのは布の平らなところで、音まで軽い。
そして相手を見る。布が、そこで止まっている。止まって、持ち上がって、落ちない。
「……何食ったらそうなるのよ」
言ってから、すぐに目を逸らした。
ノアは真っ赤になってショールを引き寄せる。引き寄せるほど、布は胸の上で突っ張って、余計に形が出る。
「……すみま――」
「謝るなって。……ほら、留め具」
机の上の留め具を探して放った。
小さな金具が畳に落ちて、軽い音を立てる。
「そこ、胸のとこで留めろ。じゃないと寝返りで全部ずれるよ」
ノアは金具を拾い、ぎこちなく留めようとする。手元が震えて、うまく噛み合わない。
キーラは溜息を飲み込み、手を伸ばしかけて止めた。
手を出すと、また“手順”が戻る。命令される側に戻る。
「……落ち着け。慌てると指を挟む」
小さく言うと、ノアの肩が少しだけ下がる。
呼吸が一つ、深くなる。深くなるだけで、部屋の空気が変わる。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいいから寝るよ。明日もあるし」
そう言って、キーラはベッドに横になった。
枕に頬を押し当てると、疲れが骨から溶けていく。目を閉じればすぐ落ちる――はずだった。
布が擦れる音。
ベッドの端が、ほんの少し沈む。
目を開ける。
隣じゃない。隣に来てはいない。来てはいないのに、距離が急に近づく。
暗がりの中で、ノアの白い肌が少しだけ浮いて見える。
ショールを留めたはずなのに、胸元はまだ落ち着かない。肩口がずれて鎖骨が出ている。寒さのせいか、息が浅い。
「……ちょっと、何してるの」
「……すみません」
「謝りながら、こっちに来るなっ!」
声が一段上がって、自分でも驚く。
驚くのは怒りじゃない。恐怖に近いものが混ざるからだ。
目の前の相手は、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……私、今夜……」
言葉が続かない。続かない代わりに、身体が続けようとする。
――にじり寄る。
神殿にでも近づくように、ゆっくりと。
逃げ道を探すでもなく、確かめるでもなく、ただ“やるべきこと”を確認するみたいに距離を詰めてくる。
それが正しいと、どこかで教え込まれた歩幅だ。
喉まで出た言葉を飲み込む。怒鳴ると壊す。壊すと、また戻る。
でも止めないと、もっと壊れる。
上体を起こし、手のひらを前に出した。突き飛ばすためじゃない。相手の膝がこれ以上進まないようにするためだ。
「……待て。そこまでだ」
にじり寄っていたノアが、ぴたりと止まる。止まったのに、目だけがこちらへ向かって進んでくる。
「私に、できることがあるなら……」
声が震える。
「……なんでもしますから」
胸の奥がひやりとする。
分かってしまう。次の一歩が、どこへ向かうのか。
両手を上げる。降参じゃない。距離を保つ合図だ。
「待て。何するつもりだ?」
キーラが問い返した瞬間、ノアの頬が熱を帯びた。
赤くなるのが早い。こっちが引く。
「夜は寒いですから……大丈夫です。任せてください」
丁寧語のまま、言っていることだけが危ない。
膝が、また一寸だけ進む。
「……大丈夫じゃない。ってか私は女だぞ」
言って、はっきり言ってやったつもりだった。
なのにノアは、引かない。むしろ安心した顔になる。
「や、優しくします」
「そういう問題じゃない!」
キーラの叱る声が部屋に残る。残っているのに、相手は怯えない。
そして小さく言葉が落ちる。
「……返したいんです」
「なにを」
「借りを……」
借り。
その単語が、今までの人生の手順を連れてくる。
ノアの肩を掴む。強くない。逃げるためじゃなく、崩れないための固定だ。
「聞け。それを身体で返すな」
目が揺れる。揺れは“拒絶された”揺れだ。捨てられる、と身体が先に思う揺れ。
だからキーラは続けて言う。途切れさせない。
「受け取らないって言っただろ。――本気で言ってる」
ノアの唇が震える。
「私には……もう他に何も……」
その顔が、本当に“他”を知らない顔だった。
息を吸って、言葉を決める。
「今日から、あんたが“返す”のは身体じゃない」
一拍置く。ノアの目が揺れる。揺れ方が、さっき教会の奥で見たそれと同じだった。
追われて、逃げて、命だけ引っ張り出されて――今はここにいる。
「返すんじゃない。取り戻すんだ」
キーラは言い直して、言葉を短くする。
「信用を」
ノアの目が瞬く。理解が追いつかない目だ。
「……信用」
「そう。今のあんたには、味方も、立場も、約束もない。――それでもこの屋敷で生きてる」
そこで一度、息を止める。あまり言うと、余計なところまで踏み込む。
「だからって、身体を差し出したら“便利な女”にしかならない」
口に出した瞬間、胸の奥が少し痛む。
ここは屋敷の使用人部屋だ。安全なはずの場所。けれど胸の奥の警報だけは、教会の奥と同じ鳴り方をしている。
「……教会の次は、別の誰かのものになるのか?」
自分が嫌になる声だった。ノアに言っているのに、今の状況は自分にも刺さる。
すぐに話を戻す。
「朝になったら私がやる段取りを見て覚えろ。覚えたら次はあんたがやる」
「約束を守れ。隠すな。――それだけで、積み直せる」
「……私、できますか?」
「できる。できるようにする。できないままにされたら私が困る」
ノアが小さく息を呑む。
いつもならここで「すみません」と言う口が、言いかけて止まっている。
だから、今のうちに釘を刺す。
「それと。今夜からやり方を一つ変えろ」
ノアの目が、こちらを真っ直ぐ見る。真っ直ぐ見るのに、答えがない目だ。
「迷ったら――頭の中でいい。自分に聞け」
「……何を」
「『今どっちが正しい?』って」
一拍置く。ちゃんと届くように。
「『生きるために動くのが正しいのか』
『生きるために止まるのが正しいのか』」
言い切って、そこで止める。
答えは言わない。言えば、また手順になる。
「迷ったら、その二つを頭に並べろ。――それで、自分で決めろ」
「決めたら、その責任も自分で持て。逃げるな。差し出すな」
眉が寄る。理解しようとしている眉だ。
命令待ちの眉とは違う。
「考えた結果、言葉が出るなら言え。出ないなら、今夜は寝ろ」
「……寝ても、いいんですか」
「いい。寝ろ。寝て、明日また考えろ」
息が少しだけ深くなる。
深くなるだけで、部屋の空気が変わった。
「ありがとう……ございます」
「礼はいらない。戻れ。自分のベッド」
「……はい」
布団を叩く。
「寒いから、ちゃんとくるまれ。明日、起きられないと困る」
相手は頷いて、ゆっくりベッドへ戻る。
戻り方が、さっきより少しだけ真っ直ぐだった。
目を閉じる前に、もう一度だけ言う。
「迷ったら――今どっちが正しい? だ」
少し間があって、ノアの囁きが返ってくる。
「……今夜はどっちが、正解でしょうか?」
「寝るのと……身体で返すのと」
声は小さいのに、計算だけがはっきりしていた。
自分に問いかける言葉のはずだ。
それを、無意識にこちらへ投げてくる。
キーラは天井を見たまま、短く息を吐いた。
先は長そうだ。




