第31章 ほらと風は吹く
冬の学園は、音が整う。
食堂の皿が重なり合う音。廊下の靴音。暖炉が薪を噛む音。
規則がある場所の静けさは、乱暴な出来事を“整った形”に丸めようとする。
――でも、丸まりきらないものがある。
会議を終えたエイドの胸の奥には、まだ水の冷たさが残っていた。
セレナさんの屋敷の過剰な香り。笑いの形をした圧。
「よろしい」と言われた瞬間に、勝手に流れ始めた道。
旅が決まった。
ただし、今すぐではない。
卒業後。
学園の手順を終えたあとに、外へ出る。
そういう話だ。
だからこそ、厄介だった。
“今じゃない”という余白がある分だけ、考える時間が増える。考える時間が増えるほど、怖さも増える。
(言わなきゃな)
言うべき相手は一人。禁測地で背中を預けた風の子――ミレイだ。
寮の談話室の灯りが見えた。扉の隙間から暖かい空気と笑い声が漏れてくる。
生徒たちは冬の手順に入っている。精霊と対話し、将来を考える。進路を言い合い、迷いを笑い合う。
その声の中に、風が混じる気配があった。
エイドは扉を押した。
壁際にミレイがいた。膝にノート。視線は文字に落ちているのに、耳は周囲を拾っている。
肩にはスウィフト。風で出来た小さなイタチが、暖炉の熱の上を泳ぐように尻尾を揺らしていた。手首の風の輪が、ほんの少しだけ回る。
ミレイは顔を上げる。
「……会議、終わったの?」
「ああ。なんとか」
ミレイはエイドの顔をじっと見た。
「顔、固いよ」
「そうか?」
「そう。蛇に噛まれたみたいな顔してる」
エイドは笑えなかった。
噛まれたのは水に、だ。
ミレイはノートを閉じて膝に置く。逃がさない仕草だ。
「何があったの」
エイドは椅子に腰を下ろし、息を整える。
言葉を選びすぎると詰まる。だから、要点から落とす。
「……卒業したら、旅に出ることになった」
ミレイのまばたきが一つ止まった。止まってから、息が少し遅れる。
「卒業したら……?」
「外。マリネア連邦の中を見に行く」
スウィフトの尻尾がぴくりと跳ねた。風が一筋、暖炉の熱を切って走る。
ミレイの髪がほんの少し揺れた。
「……一人で?」
エイドは首を振る。
「いや。セレナさんが手配してくれた」
「セレナさん?」
「水の座の……ほら、あの人」
談話室に飾ってあった三人の長老の絵を指さして言う。ミレイは小さく頷く。
「……で?どんな人と旅をするの?」
エイドは少し砕けた調子で言った。
「キーラさんと、ノアさんって人。初対面だったけど二人同行してくれるって」
言った瞬間、ミレイの眉がほんのわずかに動いた。
口の中で名前を転がすように黙る。
「……キーラ。ノア」
そして、気づいたように目を上げる。
「……女の人、よね?」
「……まあ、そうなるな」
エイドが苦笑いで頷いた瞬間だった。
ミレイが息を吸って――勢いよく立ち上がった。
「私も行く」
「……は?」
「卒業したら。あなたの旅に付いていく」
エイドは思わず声を落とす。
「待て待て、急すぎ――」
「急じゃない」
ミレイが言葉を切り捨てる。切り捨てたあと、矢継ぎ早に続ける。
ここからミレイの“捲し立て”が始まった。
「まずは前提。あなた、知らない人と長時間一緒にいると黙るでしょ」
「……黙るかな」
「黙る。黙るし、黙ってる間に勝手に背負う」
「背負わ――」
「背負う。禁測地でもそうだった。あなた、守るって決めたら周りが見えなくなるわ」
「見えてたよ」
「見えてない。自分の血の匂いがしてても“あとでいい”って顔する」
エイドは反論の入口を探すが、ミレイはそこに風を吹き込んで塞いでくる。
「一つ。危険。卒業後だからって安全になるわけじゃない。むしろ“学園の外”ってだけで危険は増える。なら戦力が要るでしょ。私、風。スウィフト、風。偵察、遮断、退路、全部できる」
「でもお前、自分の進路は――」
「進路のために行くの」
ミレイはぴしゃりと言う。
「冬の間に精霊と向き合う。卒業後に“どう生きるか”決める。あなたは外を見るって決めたんでしょ? 私だって外を見るって方針に決める。学園の中だけで人生を決めたら、私の風は狭いまま」
エイドは口を開きかけて、閉じた。
確かに、外を見て決めるのは彼女にも必要だ。
ミレイは息を止めずに続ける。
「二つ。旅の同行者がキーラさんとノアさん。二人とも女の人。あなたは気を遣う。余計に気を遣う」
「性別で気を遣うとか――」
「遣う。あなたは遣う。だってあなた、私にも遣ってるでしょ」
「……それは」
「ほら出た。そういうところ」
ミレイは指を一本立てる。論点整理の癖。真面目な子の武器。
「三つ。安心。エイドを知ってる人が一人いるだけで気持ちが楽。これは感覚の話じゃなくて実務だから」
「実務……?」
「実務。判断速度が上がる。あなたが黙って自分で決めようとした時、止められる。『今それ言え』って言える。あなたの癖を知ってる人間がいないと止められない」
ミレイの声が少しだけ低くなる。
「あなた、倒れるまで我慢するでしょ」
エイドの喉が詰まる。
図星すぎて、言い返せない。
ミレイはそこで一瞬、言葉を探し――探した瞬間に本音が漏れそうになるのを察して、さらに早口になった。早口で熱を隠す。
息継ぎの位置を決める前に文が始まって、句読点が追いつかない。ノートの角を指先で叩く音が、トン、トン、と速くなる。考えを整えるためじゃない。自分を落ち着かせるための音だ。
指が一本立つ。二本立つ。三本立つ。
論点を数える仕草が、だんだん速くなる。速くなるほど、頬が熱い。
「大丈夫じゃないのに言う。で、相手が知らない人だと、なおさら言う。『迷惑かけたくない』って顔する。あなた、そういう顔が得意。だから危ない」
「……得意じゃないよ」
「得意。顔がもうそう」
ミレイは言い切って、さらに畳みかけた。
「それに――たぶん二人とも年上でしょ? 敬語になるでしょ? 敬語になるとあなた余計に本音が遅れる。遅れると判断も遅れる。判断が遅れると――死ぬわよ」
最後の一語だけ、音が落ちた。
冗談じゃない。ミレイの風が冷たくなる。
「だから、知ってる人が必要。――私がいると、あなたは言える。『今ちょっと無理』って言える。『休みたい』って言える。『嫌だ』って言える。言えないなら私が言わせる」
言わせる、のところで、ミレイは自分の言葉に自分で照れたのか、視線を逸らして早口を加速させる。
「それに私だって、卒業後のことを決めたい。学園の中だけで“外”を想像して決めたら、絶対ズレる。ズレたまま走ったら、もっと危ない。だから外を見る。外を見るなら、あなたと同じタイミングが一番合理的。……合理的、だから」
「最後だけ弱くないか?」
「弱くない!」
スウィフトが、ミレイの耳元で風だけを鳴らした。言葉にならないはずの風が、意味だけを持って響く。
――彼と番になりたいのか?
その言葉が心に刺さる。刺さって抜けない。
抜けないから、ミレイはさらに言い訳を積む。
ミレイは一歩近づいて、勢いのまま言い切った。
「だから、私が行くの。卒業後の旅に、知った人が一人いるほうがあなたも安心する。……するでしょ? 合理的。論理的。以上!」
言い切った瞬間、ようやく息が追いついて、ミレイの肩が大きく上下した。
最後に「以上」を付けるのが、いかにもミレイだった。
言い切った途端、彼女は息を吐いて、頬がほんの少し赤い。
エイドはしばらく黙った。
目の前のミレイは理屈を並べているのに、理屈の速度じゃない。
理屈の形を借りた感情だ。
リュミエルが、エイドの背後で小さく息を吐いた。光が一瞬だけ強くなる。
“気づいている”光。けれど止めない光。
エイドはやっと言葉を出した。
「……危ないぞ?」
断る言葉じゃない。怖さの言葉だ。
ミレイは即答した。
「分かってる」
「それでも?」
「それでも」
迷いがない。迷いがないことが、逆に頼もしい。
エイドは正直を出した。
「……お前がいると、安心するのは確かだ」
言った瞬間、ミレイの肩がわずかに落ちた。
勝ち誇る落ち方じゃない。ほっとする落ち方だ。
「ほら」
「ほらって言うな」
「言う」
ミレイは強情に言う。
強情の奥に、刺さった言葉が残っている。
エイドは諦めたように息を吐いた。
「分かった。……ただし、両親とかみんなと話そう。卒業後の段取りも含めて、ちゃんと許可を取って」
ミレイは頷く。
「当然。手順は守る。――それが一番大事」
「怒られるのは?」
「半分こ」
「できるか」
ミレイが小さく笑って、すぐ真顔に戻った。
「……ありがとう」
その一言だけ、理屈じゃなかった。
エイドは視線を逸らしながら言う。
「礼言われることしてない」
「してる」
ミレイは短く言い切る。
「あなたが卒業後に外へ行くって言ったから、私も“卒業後”を考えられた」
それは進路の言葉にも聞こえた。
恋の言葉にも聞こえた。
どちらにも聞こえるのが、一番危ない。
リュミエルが楽しそうに口角を上げる。
「じゃあ、準備が増えたね」
「準備って、卒業までの?」
「うん。卒業までに、精霊との魔法の練習も、家族との連絡の取り方も、旅の間の約束の決め方も準備ができる」
ミレイは頷いた。
「学園の中でできる準備は全部する。……外の世界で死なないために」
その言葉が、最後に現実を落とした。
冬の学園の静けさの中で、エイドは深く息を吸った。
「……じゃあ、卒業までに詰めること、山ほどあるな」
ミレイは、ようやく少しだけ柔らかく笑った。
「そう。山ほど」
窓の外で冬の風が一度だけ木々を揺らした。
塔の影が、石畳を長く伸ばしていく。
その影の先に、外の世界がある。
そこへ出るのは、卒業のあと。
でもミレイの決意は、もう動き出してしまっていた。




