第4章 静かな観測者
屋根の上は、風がよく通る。
昼の光が強くなるほど、街の輪郭は濃くなる。
港は音を増やし、市場は匂いを濃くする。人の足取りは忙しなく、視線はまっすぐ前へ向く。――立ち止まる者だけが、置いていかれる。
リュミエルは、その流れを少し離れた場所から彼を見ていた。
近づこうと思えば、いくらでも近づける。
声をかけようと思えば、今すぐにでもできる。
けれど、そうしなかった。
理由は分かっているようで、自分の中でまだ言葉にならない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
彼は――かつての契約者と重なって見える。
血の匂いではない。姿形でもない。
もっと曖昧で、だからこそ誤魔化せないものだ。
考え方の癖。
精霊を見るときの距離。
言葉を向ける前に、ほんのわずか置く間。
そうした些細な挙動が、遠い記憶と重なって見えた。
――似ている。
そう感じた瞬間、リュミエルは自分の内側に生まれた違和感に戸惑った。
精霊にとって、人間は短命だ。入れ替わり立ち替わり、似たような言葉を口にし、似たように消えていく。
「誰かに似ている」という感覚は、本来なら持つべきではない。
それなのに。
彼は、あまりにも自然に精霊へ意識を向けていた。
期待も、欲も、焦りもない。
ただ、そこにいる存在として――見ていた。
魔法学校の屋根の縁に腰を下ろし、リュミエルはその後ろ姿を眺める。
校門へ向かう足。友人と交わす短い言葉。噂話に半歩だけ距離を置く態度。
訓練場に並び、教師の短い号令に従い、目を閉じる。開く。――そして、迷いかける。迷いを飲み込む。
契約を目的にしない人間は少ない。
精霊と話したい、と言う者は多い。
けれど、精霊の話を「聞こう」とする者は、ほとんどいない。
彼は、聞こうとしていた。
だからこそ、リュミエルは距離を取った。
もし応えてしまえば、彼は応じてしまうだろう。
それは彼の弱さではない。彼の真面目さだ。
真面目な意志ほど、取り消しがきかない。
まだ、早い。
精霊にとって「早い」という判断は、しばしば致命的になる。
人の時間は短く、決断は速く、やり直しは利かない。
リュミエルは、そのことをよく知っている。
七十年前も、彼は迷わなかった。
「君の光を少し分けてくれないか」
あの言葉を、今でもはっきり覚えている。
力を求めない願いほど、精霊の側に深く残る。
彼が望んだのは勝利ではなく、照らすことだった。闇を追い払うのではなく、闇の中で迷わないようにすることだった。
彼の死後に残ったのは、マナの欠落と、そうした記憶だけだ。
満ちていたものが、ぽっかりと抜け落ちた空白。
世界が軽く軋む感覚。
そして、精霊の側にだけ残る、取り残された言葉。
――また、同じことを繰り返すのか。
その問いに、答えは出ていない。
だから観測する。
近づかず、遠ざかりすぎず。
干渉せず、無視もしない。
ただ、見ている。
リュミエルは光量をわずかに調整した。
人の視界に入りすぎないように。意識の網に引っかからないように。
けれど、完全には消さない。
彼が向ける意識の先に、何も返らない空白を作らないために。
空白は人を急かす。急ぎは決断を乱す。
――今は、来ちゃだめ。
そう伝えたのは拒絶ではない。
待つ、という選択だった。
精霊は選ばない。
立場も、善悪も、正しさも。
けれど、目を逸らさなかった意志だけは覚えている。覚えてしまう。
リュミエルは、その意志がどこへ向かうのかを静かに見届けるつもりだった。
世界の視線が、少しずつこちらへ集まり始めていることに――
気づかないふりをしながら。
教会の視線。
魔法使いたちの視線。
そして、値札をつけようとする人間の視線。
それでも彼が、あの距離を保ったままでいられるのか。
リュミエルは、風の中で目を細めた。
焚火のような灯りを、揺らさないまま。




