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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
39/77

第30章 水の屋敷


会議室を出た途端、空気がほどけた。


厚い窓の向こうで眠っていた海の匂いが、廊下の石に染み出してくる。冷たさが足裏から上がってきて、さっきまで机の上を滑っていた言葉が、今度は身体の中に沈んでいく。


――外の世界へ。


その方向だけが残って、他の音は薄い。


港の責任。検査の徹底。

炊事係の毒死。

教会責任者の不在。

生き証人としてのノア。

そして、外の世界を見る意味。


頭の中はまだ渋滞しているのに、足だけが勝手に前へ進む。

渋滞の中身が「言葉」から「行動」に変わっただけで、抜けたわけじゃない。


「エイド君でいいかしら?」


背後から声がした。


振り返ると、廊下の角に水の気配が立っている。

水座――セレナ・ミルフィーユ。会議では静かな水面だったのに、今は口元だけが楽しそうに歪んでいる。


「話があるの。もらっていくわよ」


「え?」


返事を作る前に、セレナは「当然でしょ」と言いたげに顎をしゃくった。


その瞬間、間に学長が入る。


「この子をどうするつもりだ?」


エルヴァン学長が一歩前へ出た。声は穏やかで、姿勢も崩れていない。なのに、空気が一段だけ固くなる。森の座が「境界」を引いたときの固さだ。


セレナは肩をすくめる。


「別に、取って食いはしないわよ」


「それは信じられないね」


学長は即答した。即答ができるのは、信頼していないからだ。

セレナは薄く笑う。


「これまでの行いを思い出してみたらどうだ?」


「ケチ臭いね」


「君ほどではないな」


軽口の形をしていても、これは互いの縄張りの確認だ。

エイドは喉が鳴るのを飲み込む。ここで言葉を挟んだら、余計に状況が変わる。


セレナは両手を軽く上げた。


「頼みごとがあるだけよ。すぐに返すわ」


学長の目が、セレナの目を真っ直ぐ射抜いた。

沈黙が一拍だけ伸びる。会議より短い沈黙なのに、ずっと重い。


「……わかった」


学長は折れたのではなく、条件を置いた声で言った。


「エイド、気を付けてな」


「はい」


返事をした瞬間、背中にあった“守り”が少し遠ざかる。

それが怖い。怖いのに、どこかで息がしやすくもなる。――自分の足で歩くしかない領域に入るからだ。


リュミエルが、エイドの横でふわりと光を揺らした。

学長はその光を見ないふりをする。見ないふりのまま、セレナへ最後の釘を刺す。


「返すんだ。約束は守りなさい」


「もちろん。水は約束を忘れないわ」


セレナは笑って言った。

言葉だけは綺麗だ。だから怖い。


「さ、行くわよ」


セレナは踵を返す。エイドは追う。

会議の後の廊下を歩く足音が、いつもより自分の耳にうるさい。


リュミエルが耳元で小さく囁く。


「ね。森が嫌がる相手って、大体やばいと思うよ」


「黙って」


「当たってるって顔してる」


エイドは息を吐き、前を見た。

前を見る以外に、やれることがない。



セレナの屋敷は、「屋敷」という言葉の範囲を一つ押し広げていた。


門がまず厚い。鉄に彫りがあり、錠が二重で、見張りがいる。門をくぐると庭ではなく庭園が始まる。冬の入り口だというのに草木が整いすぎていて、自然が自然のままに許されない感じがする。


小さな水路が道の両脇を走っていた。凍っていない。静かに、ずっと流れている。

水座の生活の魔法は、こういうところに露骨に出る。


「金にものを言わせたって顔してるわね」


セレナが楽しそうに言う。


「してません」


「してるわ。ほら、眉が動いた」


セレナは笑いながら扉へ向かった。

扉の前で一度だけ振り返り、あっさり言う。


「驚いても叫ばない。品が落ちるわよ」


「……何があるんですか」


「入れば分かる」


嫌な予告だ。


中は暖かく、香りが濃かった。高価な木材と香油と、甘い焼き菓子の匂い。

床は磨き上げられていて、足音が柔らかい。柔らかいのが不気味だ。屋敷に入った時点で、人の気配が“管理”されている。


廊下を曲がった瞬間、エイドは足を止めた。


メイド服が二つ並んでいたからだ。


ひとりはキーラ。

あのキーラが、白黒のフリルに袖口まできっちり詰めた服を着て、殺すような目をしている。似合うのが腹立つのか、似合うこと自体が腹立つのか、その両方に見えた。


もうひとりはノア。

ノアも同じメイド服だが、姿勢が小さい。肩をすぼめ、視線を落として、できるだけ存在を薄くしようとしている。頬の血色は薄く、目の下に眠れない夜の影がある。


キーラはエイドを見る前に、セレナへ噛みついた。


「こら! 私は首輪はしないって言ったわよね!?」


セレナは涼しい顔で返す。


「メイド服を着させないとは言ってないわ」


「ふざけるな!」


怒号が屋敷の天井へ反響する。反響が綺麗すぎて腹が立つ。


「ここの給金に目がくらんだお前の落ち度だ。メイド長」


セレナが呼ぶと、少し年配の女性がすっと前へ出た。背筋が鋼みたいに真っ直ぐで、目が怖い。

“この屋敷の空気”を背負っている顔。


「はい、ここに」


セレナは間髪入れず、その頬をひっぱたいた。


乾いた音が、廊下に落ちる。

キーラが「おい!」と叫ぶ前に、セレナが冷たく言う。


「新人のしつけがなっていない」


メイド長は頬を押さえ、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


そう言いながら――恍惚とした顔をしていた。


エイドは、その意味を知りたくないと思った。

知ったら戻れない類の知識だ。


キーラが歯を剥く。


「今のは私の話だろ! 話をすり替えるな!」


「すり替えてない。あなたが新人だから、しつけの話をしてるの」


「新人……!? 私は――」


「黙って学みな。この屋敷の空気をね」


キーラが噛み殺した声で「くそっ」と言う。

ノアは視線を落としたまま、指先でスカートの縫い目を握っていた。握っているのに、逃げない。逃げられない、と身体が覚えてしまった握り方だ。


セレナは手を叩いた。


「おしゃべりはそこまで。エイド君、こっち」


応接室へ通される。扉が閉まると、外の怒号が遠くなった。

音が薄くなると、今度は自分の心臓の音がうるさい。


セレナは豪奢な椅子に座り、ティーカップを取る。動作が上品で、上品だからこそ不気味だ。

上品というのは、刃を布で包んだ姿勢に似ている。


「で」


セレナはカップを置いて言う。


「なんで俺は呼ばれたんですか?」


エイドが先に聞いた。聞かないと飲み込まれる。

会議では言葉が刃だった。ここでは沈黙が刃だ。


セレナは目を細める。


「外の世界に興味があるのでしょう?」


質問じゃない。確認だ。

エイドは頷くしかない。


「……少しは」


「お手伝いしてあげようと思ってね」


軽い。軽いのに、背中が冷える。

“手伝う”が契約書みたいに聞こえる。


「代わりに、何を?」


エイドは慎重に言った。

セレナは嬉しそうに笑う。


「賢いわね。嫌いじゃないわ」


それから、指を鳴らした。


扉が開き、キーラとノアが入ってくる。

まだメイド服だ。キーラは怒りを隠せない。ノアは息が浅い。


「紹介する」


セレナの声が、少しだけ仕事の声になる。


「キーラよ。商人。交渉ができる。帳簿が書ける。嘘もつける。――旅に必要な便利屋よ」


「言い方ァ!」


キーラが噛みつく。


「ノア。教会の生き証人。プラム神官長の元副官。内部事情に触れた。狙われた。……だからあなたたちの旅に“理由”が生まれる」


ノアの肩が微かに震える。

“理由”という言葉が、自分の命の値札に聞こえたのだろう。


エイドは息を飲んだ。


「もしかして、旅に……この二人を?」


「そうよ」


セレナは平然と頷いた。


「あなた一人で外へ出したら、森が私の屋敷を沈めに来るから」


「沈めませんよ!」


エイドが言うと、セレナは目を細める。


「刺しに来る、よりは水らしいでしょ」


リュミエルが小さく笑った。

エイドは睨む。

リュミエルは肩をすくめる。「事実だよ」という顔。


セレナは声の温度を一段落とした。


「本題よ。プラムを追ってほしい」


その名が出た瞬間、ノアの指が強く縫い目を握った。

キーラは「面倒臭い」と言いたげに目を逸らす。

エイドの胸の奥が固くなる。


「今は行方不明よ。責任者が出ないのは、表に出られない教会の事情があるからよ」


セレナの指が机の上の地図をなぞる。港から外へ、海へ、連邦の内側へ。

指先が迷いなく“外”へ向かうのが怖い。最初から道を知っていた指だ。


「私はね、プラムが連邦国家の中にまだ潜っていると睨んでいる」


「……根拠は」


エイドが聞くと、セレナは笑う。


「根拠があるから言うんじゃない。可能性の高い方へ賭けるのよ」


それは会議で学長がやっていた推理と似ている。

ただし学長は森の記録から道を作る。セレナは水の流れで道を変える。


「教会は外交の盾を持っている。私は直接は手を出せないし、この街を離れられない。交易の顔を汚すと、港が困る」


「だから、俺たちを?」


「そう」


セレナはあっさり認めた。

認めるのが、かえって信用できる類の危険だ。


「きみは卒業生だ。旅に出ても不自然じゃない。キーラは商人だ。どこへでも行ける。ノアは――生きている限り、教会の喉を刺せる」


ノアが小さく息を詰めた。

刺せる。という表現が、生々しい。


セレナは言い直すように、ほんの少し柔らかくノアに言った。


「あなたが生きていることは、守りになる。あなた自身のね」


その言い方が優しい形をしていて、余計に怖い。

優しさの中に、使い方が混じっている。


エイドは腹の奥がざわついた。


「……俺の旅を、支えるって言いましたよね」


「支えるわ」


セレナは即答した。


「通行証。情報屋。私の推薦状も用意できる。港の検査が厳しいなら、“正規の手順”はむしろ強い武器になる」


「正規の手順……」


「そう。あなたは正しいことが好きそうだね」


図星で、エイドは黙る。

手順があると、意思を持たずに済む。だが旅は、手順が途中で切れる。


「旅の目的は二つにしてあげる」


セレナは指を二本立てた。


「一つ。あなたの進路。外を見るための旅」

「二つ。ノアの保護。教会の内側の事情を掘り起こす旅」


「……プラムの捕縛は?」


エイドが言うと、セレナは一瞬だけ目を細め、すぐに笑顔へ戻した。


「もし、できるなら。ね」


その“ね”が軽すぎる。

軽いのに、そこに本音が沈んでいる気がする。


リュミエルが、エイドの肩のあたりで光を小さく揺らした。


――気づいている。

セレナの思惑の形に、触れている。


でもリュミエルは止めない。

止めない代わりに、エイドの横顔を見て、光を静かに落ち着かせる。


(契約者が行きたいなら、私はその道を照らすだけ)


そういう沈黙だ。


キーラが腕を組んだ。


「待て。私は雇われるのはいい。金も好きだ。だけど――私はあんたの犬じゃない」


「首輪なんて要らないわ」


セレナはさらりと言う。


「首輪を付けると手綱が見える。私は手綱が見えるのが嫌いなの」


「……それ、褒めてないよな」


「褒めてる。頭のいい人間は、見える手綱を嫌う」


キーラは「くそ」と言いながらも、目だけが計算していた。給金の額と、危険の割合を。

商人の目だ。


ノアは小さく口を開いた。


「私は……行っても、いいんでしょうか」


声が震える。

“行く”という選択が怖い。怖いのに、戻る場所がない。


セレナはノアを見て、静かに言った。


「国に戻ったら消される。ここにいても、いずれ手が伸びる。だったら、動き回りなさい」


ノアの目が揺れる。

揺れは否定ではなく理解だ。理解してしまうことが、いちばん残酷だ。


エイドは拳を握った。


使われる。

でも、外へ行ける。

答えの輪郭を見に行ける。


「……分かりました」


言った瞬間、キーラが「はぁ!?」という顔をする。

ノアが目を上げる。驚きと恐怖が混じっている。

セレナは満足げに微笑んだ。


「いい子ね」


その言い方が上手すぎて、ぞっとした。褒めながら所有してくる。


エイドは続けた。


「ただし、条件があります」


セレナの眉が微かに上がる。


「言ってみなさい」


「俺は誰かの道具になるために外へ行くんじゃない。――旅の目的も俺が世界を見て、俺が判断します」


セレナは一拍置いて、笑った。


「素敵。そうでなくちゃ面白くない」


面白い、が本音だ。

本音が見えるぶん、この女は信用できる危険だ。


セレナは手を叩いた。


「じゃあ準備を始めよう。おかしな旅の一行の誕生だ」


キーラが叫ぶ。


「誰がおかしいんだ!」


セレナは涼しい顔で返す。


「全員よ」


ノアがぎこちなく笑いかけて――すぐにやめた。笑うことすら怖いのだ。


リュミエルが、エイドの肩の横で小さく光を揺らした。

道を照らす光。背中を押す光ではない。押せば壊れると知っている光だ。


エイドは思う。


会議より、ずっと分かりやすい。

分かりやすい代わりに、ずっと危ない。


それでも。


冬の屋敷の暖かさの中で、エイドの胸の奥にある芽は、もう引っ込まなかった。

外へ行く。

旅に出る。


セレナの水が、行路を作ってしまったのなら――

その水に溺れないように、自分の足で底を蹴るしかない。


奇妙な旅の形が、屋敷の中で組み上がっていく。

金と港と証人と商人と、光の精霊。


そして、その中心に――まだ自分の未来を自分の言葉で言い切れない少年がいる。


エイドは、深く息を吸った。


「……行きます」


言い切った声は、自分でも少し驚くほど真っ直ぐだった。


セレナが微笑む。


「よろしい」


その一言で、屋敷の空気が“決定”に変わった。

水が流れ始めると、止めるのは難しい。


そして、エイドは初めて気づく。


この旅は、誰かに乗せられた旅であると同時に、

自分が選んだ旅でもある。


選んだ以上、戻る理由はもう作らない。


冬の屋敷の窓の外で、水路が音もなく流れていた。

その流れは、港へ行き、海へ行き、外へ行く。


エイドの旅は、静かに始まろうとしていた。

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