第30章 水の屋敷
会議室を出た途端、空気がほどけた。
厚い窓の向こうで眠っていた海の匂いが、廊下の石に染み出してくる。冷たさが足裏から上がってきて、さっきまで机の上を滑っていた言葉が、今度は身体の中に沈んでいく。
――外の世界へ。
その方向だけが残って、他の音は薄い。
港の責任。検査の徹底。
炊事係の毒死。
教会責任者の不在。
生き証人としてのノア。
そして、外の世界を見る意味。
頭の中はまだ渋滞しているのに、足だけが勝手に前へ進む。
渋滞の中身が「言葉」から「行動」に変わっただけで、抜けたわけじゃない。
「エイド君でいいかしら?」
背後から声がした。
振り返ると、廊下の角に水の気配が立っている。
水座――セレナ・ミルフィーユ。会議では静かな水面だったのに、今は口元だけが楽しそうに歪んでいる。
「話があるの。もらっていくわよ」
「え?」
返事を作る前に、セレナは「当然でしょ」と言いたげに顎をしゃくった。
その瞬間、間に学長が入る。
「この子をどうするつもりだ?」
エルヴァン学長が一歩前へ出た。声は穏やかで、姿勢も崩れていない。なのに、空気が一段だけ固くなる。森の座が「境界」を引いたときの固さだ。
セレナは肩をすくめる。
「別に、取って食いはしないわよ」
「それは信じられないね」
学長は即答した。即答ができるのは、信頼していないからだ。
セレナは薄く笑う。
「これまでの行いを思い出してみたらどうだ?」
「ケチ臭いね」
「君ほどではないな」
軽口の形をしていても、これは互いの縄張りの確認だ。
エイドは喉が鳴るのを飲み込む。ここで言葉を挟んだら、余計に状況が変わる。
セレナは両手を軽く上げた。
「頼みごとがあるだけよ。すぐに返すわ」
学長の目が、セレナの目を真っ直ぐ射抜いた。
沈黙が一拍だけ伸びる。会議より短い沈黙なのに、ずっと重い。
「……わかった」
学長は折れたのではなく、条件を置いた声で言った。
「エイド、気を付けてな」
「はい」
返事をした瞬間、背中にあった“守り”が少し遠ざかる。
それが怖い。怖いのに、どこかで息がしやすくもなる。――自分の足で歩くしかない領域に入るからだ。
リュミエルが、エイドの横でふわりと光を揺らした。
学長はその光を見ないふりをする。見ないふりのまま、セレナへ最後の釘を刺す。
「返すんだ。約束は守りなさい」
「もちろん。水は約束を忘れないわ」
セレナは笑って言った。
言葉だけは綺麗だ。だから怖い。
「さ、行くわよ」
セレナは踵を返す。エイドは追う。
会議の後の廊下を歩く足音が、いつもより自分の耳にうるさい。
リュミエルが耳元で小さく囁く。
「ね。森が嫌がる相手って、大体やばいと思うよ」
「黙って」
「当たってるって顔してる」
エイドは息を吐き、前を見た。
前を見る以外に、やれることがない。
*
セレナの屋敷は、「屋敷」という言葉の範囲を一つ押し広げていた。
門がまず厚い。鉄に彫りがあり、錠が二重で、見張りがいる。門をくぐると庭ではなく庭園が始まる。冬の入り口だというのに草木が整いすぎていて、自然が自然のままに許されない感じがする。
小さな水路が道の両脇を走っていた。凍っていない。静かに、ずっと流れている。
水座の生活の魔法は、こういうところに露骨に出る。
「金にものを言わせたって顔してるわね」
セレナが楽しそうに言う。
「してません」
「してるわ。ほら、眉が動いた」
セレナは笑いながら扉へ向かった。
扉の前で一度だけ振り返り、あっさり言う。
「驚いても叫ばない。品が落ちるわよ」
「……何があるんですか」
「入れば分かる」
嫌な予告だ。
中は暖かく、香りが濃かった。高価な木材と香油と、甘い焼き菓子の匂い。
床は磨き上げられていて、足音が柔らかい。柔らかいのが不気味だ。屋敷に入った時点で、人の気配が“管理”されている。
廊下を曲がった瞬間、エイドは足を止めた。
メイド服が二つ並んでいたからだ。
ひとりはキーラ。
あのキーラが、白黒のフリルに袖口まできっちり詰めた服を着て、殺すような目をしている。似合うのが腹立つのか、似合うこと自体が腹立つのか、その両方に見えた。
もうひとりはノア。
ノアも同じメイド服だが、姿勢が小さい。肩をすぼめ、視線を落として、できるだけ存在を薄くしようとしている。頬の血色は薄く、目の下に眠れない夜の影がある。
キーラはエイドを見る前に、セレナへ噛みついた。
「こら! 私は首輪はしないって言ったわよね!?」
セレナは涼しい顔で返す。
「メイド服を着させないとは言ってないわ」
「ふざけるな!」
怒号が屋敷の天井へ反響する。反響が綺麗すぎて腹が立つ。
「ここの給金に目がくらんだお前の落ち度だ。メイド長」
セレナが呼ぶと、少し年配の女性がすっと前へ出た。背筋が鋼みたいに真っ直ぐで、目が怖い。
“この屋敷の空気”を背負っている顔。
「はい、ここに」
セレナは間髪入れず、その頬をひっぱたいた。
乾いた音が、廊下に落ちる。
キーラが「おい!」と叫ぶ前に、セレナが冷たく言う。
「新人のしつけがなっていない」
メイド長は頬を押さえ、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
そう言いながら――恍惚とした顔をしていた。
エイドは、その意味を知りたくないと思った。
知ったら戻れない類の知識だ。
キーラが歯を剥く。
「今のは私の話だろ! 話をすり替えるな!」
「すり替えてない。あなたが新人だから、しつけの話をしてるの」
「新人……!? 私は――」
「黙って学みな。この屋敷の空気をね」
キーラが噛み殺した声で「くそっ」と言う。
ノアは視線を落としたまま、指先でスカートの縫い目を握っていた。握っているのに、逃げない。逃げられない、と身体が覚えてしまった握り方だ。
セレナは手を叩いた。
「おしゃべりはそこまで。エイド君、こっち」
応接室へ通される。扉が閉まると、外の怒号が遠くなった。
音が薄くなると、今度は自分の心臓の音がうるさい。
セレナは豪奢な椅子に座り、ティーカップを取る。動作が上品で、上品だからこそ不気味だ。
上品というのは、刃を布で包んだ姿勢に似ている。
「で」
セレナはカップを置いて言う。
「なんで俺は呼ばれたんですか?」
エイドが先に聞いた。聞かないと飲み込まれる。
会議では言葉が刃だった。ここでは沈黙が刃だ。
セレナは目を細める。
「外の世界に興味があるのでしょう?」
質問じゃない。確認だ。
エイドは頷くしかない。
「……少しは」
「お手伝いしてあげようと思ってね」
軽い。軽いのに、背中が冷える。
“手伝う”が契約書みたいに聞こえる。
「代わりに、何を?」
エイドは慎重に言った。
セレナは嬉しそうに笑う。
「賢いわね。嫌いじゃないわ」
それから、指を鳴らした。
扉が開き、キーラとノアが入ってくる。
まだメイド服だ。キーラは怒りを隠せない。ノアは息が浅い。
「紹介する」
セレナの声が、少しだけ仕事の声になる。
「キーラよ。商人。交渉ができる。帳簿が書ける。嘘もつける。――旅に必要な便利屋よ」
「言い方ァ!」
キーラが噛みつく。
「ノア。教会の生き証人。プラム神官長の元副官。内部事情に触れた。狙われた。……だからあなたたちの旅に“理由”が生まれる」
ノアの肩が微かに震える。
“理由”という言葉が、自分の命の値札に聞こえたのだろう。
エイドは息を飲んだ。
「もしかして、旅に……この二人を?」
「そうよ」
セレナは平然と頷いた。
「あなた一人で外へ出したら、森が私の屋敷を沈めに来るから」
「沈めませんよ!」
エイドが言うと、セレナは目を細める。
「刺しに来る、よりは水らしいでしょ」
リュミエルが小さく笑った。
エイドは睨む。
リュミエルは肩をすくめる。「事実だよ」という顔。
セレナは声の温度を一段落とした。
「本題よ。プラムを追ってほしい」
その名が出た瞬間、ノアの指が強く縫い目を握った。
キーラは「面倒臭い」と言いたげに目を逸らす。
エイドの胸の奥が固くなる。
「今は行方不明よ。責任者が出ないのは、表に出られない教会の事情があるからよ」
セレナの指が机の上の地図をなぞる。港から外へ、海へ、連邦の内側へ。
指先が迷いなく“外”へ向かうのが怖い。最初から道を知っていた指だ。
「私はね、プラムが連邦国家の中にまだ潜っていると睨んでいる」
「……根拠は」
エイドが聞くと、セレナは笑う。
「根拠があるから言うんじゃない。可能性の高い方へ賭けるのよ」
それは会議で学長がやっていた推理と似ている。
ただし学長は森の記録から道を作る。セレナは水の流れで道を変える。
「教会は外交の盾を持っている。私は直接は手を出せないし、この街を離れられない。交易の顔を汚すと、港が困る」
「だから、俺たちを?」
「そう」
セレナはあっさり認めた。
認めるのが、かえって信用できる類の危険だ。
「きみは卒業生だ。旅に出ても不自然じゃない。キーラは商人だ。どこへでも行ける。ノアは――生きている限り、教会の喉を刺せる」
ノアが小さく息を詰めた。
刺せる。という表現が、生々しい。
セレナは言い直すように、ほんの少し柔らかくノアに言った。
「あなたが生きていることは、守りになる。あなた自身のね」
その言い方が優しい形をしていて、余計に怖い。
優しさの中に、使い方が混じっている。
エイドは腹の奥がざわついた。
「……俺の旅を、支えるって言いましたよね」
「支えるわ」
セレナは即答した。
「通行証。情報屋。私の推薦状も用意できる。港の検査が厳しいなら、“正規の手順”はむしろ強い武器になる」
「正規の手順……」
「そう。あなたは正しいことが好きそうだね」
図星で、エイドは黙る。
手順があると、意思を持たずに済む。だが旅は、手順が途中で切れる。
「旅の目的は二つにしてあげる」
セレナは指を二本立てた。
「一つ。あなたの進路。外を見るための旅」
「二つ。ノアの保護。教会の内側の事情を掘り起こす旅」
「……プラムの捕縛は?」
エイドが言うと、セレナは一瞬だけ目を細め、すぐに笑顔へ戻した。
「もし、できるなら。ね」
その“ね”が軽すぎる。
軽いのに、そこに本音が沈んでいる気がする。
リュミエルが、エイドの肩のあたりで光を小さく揺らした。
――気づいている。
セレナの思惑の形に、触れている。
でもリュミエルは止めない。
止めない代わりに、エイドの横顔を見て、光を静かに落ち着かせる。
(契約者が行きたいなら、私はその道を照らすだけ)
そういう沈黙だ。
キーラが腕を組んだ。
「待て。私は雇われるのはいい。金も好きだ。だけど――私はあんたの犬じゃない」
「首輪なんて要らないわ」
セレナはさらりと言う。
「首輪を付けると手綱が見える。私は手綱が見えるのが嫌いなの」
「……それ、褒めてないよな」
「褒めてる。頭のいい人間は、見える手綱を嫌う」
キーラは「くそ」と言いながらも、目だけが計算していた。給金の額と、危険の割合を。
商人の目だ。
ノアは小さく口を開いた。
「私は……行っても、いいんでしょうか」
声が震える。
“行く”という選択が怖い。怖いのに、戻る場所がない。
セレナはノアを見て、静かに言った。
「国に戻ったら消される。ここにいても、いずれ手が伸びる。だったら、動き回りなさい」
ノアの目が揺れる。
揺れは否定ではなく理解だ。理解してしまうことが、いちばん残酷だ。
エイドは拳を握った。
使われる。
でも、外へ行ける。
答えの輪郭を見に行ける。
「……分かりました」
言った瞬間、キーラが「はぁ!?」という顔をする。
ノアが目を上げる。驚きと恐怖が混じっている。
セレナは満足げに微笑んだ。
「いい子ね」
その言い方が上手すぎて、ぞっとした。褒めながら所有してくる。
エイドは続けた。
「ただし、条件があります」
セレナの眉が微かに上がる。
「言ってみなさい」
「俺は誰かの道具になるために外へ行くんじゃない。――旅の目的も俺が世界を見て、俺が判断します」
セレナは一拍置いて、笑った。
「素敵。そうでなくちゃ面白くない」
面白い、が本音だ。
本音が見えるぶん、この女は信用できる危険だ。
セレナは手を叩いた。
「じゃあ準備を始めよう。おかしな旅の一行の誕生だ」
キーラが叫ぶ。
「誰がおかしいんだ!」
セレナは涼しい顔で返す。
「全員よ」
ノアがぎこちなく笑いかけて――すぐにやめた。笑うことすら怖いのだ。
リュミエルが、エイドの肩の横で小さく光を揺らした。
道を照らす光。背中を押す光ではない。押せば壊れると知っている光だ。
エイドは思う。
会議より、ずっと分かりやすい。
分かりやすい代わりに、ずっと危ない。
それでも。
冬の屋敷の暖かさの中で、エイドの胸の奥にある芽は、もう引っ込まなかった。
外へ行く。
旅に出る。
セレナの水が、行路を作ってしまったのなら――
その水に溺れないように、自分の足で底を蹴るしかない。
奇妙な旅の形が、屋敷の中で組み上がっていく。
金と港と証人と商人と、光の精霊。
そして、その中心に――まだ自分の未来を自分の言葉で言い切れない少年がいる。
エイドは、深く息を吸った。
「……行きます」
言い切った声は、自分でも少し驚くほど真っ直ぐだった。
セレナが微笑む。
「よろしい」
その一言で、屋敷の空気が“決定”に変わった。
水が流れ始めると、止めるのは難しい。
そして、エイドは初めて気づく。
この旅は、誰かに乗せられた旅であると同時に、
自分が選んだ旅でもある。
選んだ以上、戻る理由はもう作らない。
冬の屋敷の窓の外で、水路が音もなく流れていた。
その流れは、港へ行き、海へ行き、外へ行く。
エイドの旅は、静かに始まろうとしていた。




