第28章 帰路の揺れ
馬車の揺れは、眠気を連れてくる。
石を踏むたび、車輪が小さく跳ねて、荷台の木枠がきしむ。
外は秋の匂いが濃い。乾いた草と、少しだけ甘い土。禁測地の森を抜けて、坂を下りていく風が、帆布の隙間から入り込んで頬を撫でた。
エイドは背もたれに肩を預けたまま、目を閉じない。
閉じると、さっきまでの光景が裏側から浮かび上がる気がした。
刃の音。
息の切れる音。
「殺す」と「殺される」の間で、判断が遅れた瞬間の、あの嫌な冷たさ。
「大変だったけど、楽しかったね」
隣で、のんきな声がした。
リュミエルは窓の外を見ている。膝を抱えるでもなく、疲れた素振りもない。光の精霊という存在は、こういう時に人間の感覚を裏切る。薄い金髪が揺れ、耳元の光が小さくはねて、まるで今日は遠足だったとでも言うようだった。
エイドは目を開けて、ため息の代わりに言葉を吐いた。
「……殺し合いをした直後に、なんでそんな軽いんだよ」
リュミエルは視線だけこちらに寄せて、少し考える顔をした。
考える、というより――人間の言葉に合わせるための間を作る顔。
「軽くはないよ。あなたが軽くできないことは、分かってる」
それから、あっさりと続けた。
「でも、楽しかった。だって、あなたはみんなを守れた。私も、それに応えた。あの場でできることは、全部できた」
エイドは唇を噛んだ。
「全部できた」と言われると、否定できない。
否定できないのが、悔しい。
「……全部が最善だったとは思えないよ」
言ってから、少しだけ自分で嫌になった。
敗北みたいな言い方だ。
でも、勝利していると無理にでも錯覚しないと、足元が崩れることがある。
リュミエルは怒らない。笑いもしない。
その代わり、柔らかい声で返す。
「うん。でも、みんなが生きている」
“勝利”の言葉を、わざと避けた言い方。
それが余計に刺さって、エイドは目を逸らした。
向かいの席に、ミレイが座っていた。
いつもなら背筋が自然に伸びて、膝の上に手を置く。そういう人間なのに、今日は膝が少し開いて、肩が緩んでいる。緊張が解けた形というより、身体のどこかがまだ戦場に置き去りになっているみたいだった。
彼女の左手首には、風の輪。
透明な腕輪ではない。
輪郭のない輪。
触れれば抜けてしまいそうなのに、そこにあると分かる。ミレイが呼吸をすると、それに合わせて輪が微かに回り、髪の先がふわりと持ち上がる。
そして、彼女の肩。
小さな影がいた。
イタチ。
いや、ただの獣じゃない。
毛並みは、毛というより風の流れだった。光が当たると、体表がわずかに揺らいで、輪郭が“速さ”として見える。目は淡い緑で、見つめられると鼓動が一拍だけ速くなる。――捕食者のそれではなく、風が高い場所を選ぶときの、あの無遠慮な自由の目。
「……落ち着いた?」
エイドがミレイに言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。
「ええ。あなたこそ」
それはいつもの返しだったはずなのに、語尾が少しだけ柔らかい。
ミレイはエイドを見る。見るが、最後まで見ない。視線が途中でずれて、窓の外に逃げる。
頬が赤い。
エイドは一瞬、意味が分からなかった。
戦闘の疲れか。寒さか。――いや、車内は寒くない。
肩のイタチが、細い鼻先を上げて、エイドを見た。
そして、ミレイの耳元に口を寄せるようにして、何かを囁く。
言葉は聞こえない。
聞こえないのに、ミレイの肩がぴくりと震えた。
「……な、なに。違うから」
ミレイが小声で抗議する。
イタチは涼しい顔で尻尾を揺らし、風だけを返したように見えた。
エイドは気づかないふりをした。
気づかないふりが、いちばん安全だと知っていたからだ。
分からないものに触れると、余計な傷が増える。
それでも、彼女がもう一度エイドを見て、またすぐに視線を落としたのを、見逃せなかった。
「……正式に契約、したんだろ?」
エイドが話題を変えると、ミレイは少しだけ胸を張る。
「ええ。急な形で結びかけたままだったから。ちゃんと、儀礼を通して」
「名前は?」
ミレイは一拍置いた。
肩のイタチが、まるで自分の出番だと言わんばかりに前へ出る。
「スウィフト」
風が鳴った。
声ではないのに、耳の奥に“意味”だけが届く。
公称の名――人が呼ぶための、単名。
イタチ――スウィフトは、満足そうに目を細めた。
次いで、エイドの方へ視線を投げる。
(お前が呼ぶな――)
そんな気配だけを残して、肩に戻った。
エイドは、喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。
精霊の名を知ることは、距離が縮むことだ。
距離が縮むことは、責任が増えることだ。
「……おめでとう」
絞り出した言葉は素直だった。
ミレイはそれを受け取って、ようやくちゃんと笑った。
「ありがとう。あなたが、いてくれたからよ」
その瞬間、肩のスウィフトが、尻尾でミレイの首筋をくすぐった。
ミレイが「やめなさい」と小さく叱る。
叱り方が、少しだけ甘い。
リュミエルが隣で、何か面白いものを見たような顔をした。
エイドはそれを見ないことにした。
馬車の外で、別の馬車の車輪の音が重なった。
隊列がある。教師がいる。生徒がいる。
今日の禁測地は、試験であり、襲撃でもあった。――そして、全員が“生きて戻る”という一点だけは守った。
それが、ようやく今になって現実になる。
坂を下り切ると、遠くに学園の塔が見えた。
高台の上。石造りの建物が秋の空を切り、周囲の木々が赤と金に色づいている。あの場所に戻れば、少なくとも“手順”がある。規則がある。廊下の音がある。食堂の匂いがある。
「帰ってきた……」
誰かが呟いた。
声は、たぶん別の馬車の生徒のものだ。
その一言だけで、胸の奥が少し緩む。
学園の門が近づく。
石畳の幅が広くなり、馬の蹄の音が整っていく。守衛の姿が見え、門前で教師が指示を出す声が聞こえる。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
外の世界の湿り気が薄れ、乾いた石の匂いが増える。
学園の中は、精霊の気配が濃い。濃いのに静かだ。人が多いのに、騒がしくない。――騒がしさが起きる前に、何かが吸い取ってしまうような静けさ。
馬車が止まる。
生徒たちが降りる。
互いの顔を見る。
笑って、泣きそうになって、肩を叩き合う。
「全員、戻ったな」
教師の声が響いた。
その言葉に、拍手が起きる。誰かが短く叫ぶ。
歓声が、秋の空に散った。
エイドは馬車から降りた瞬間、足の裏が地面を強く感じた。
禁測地の土じゃない。
学園の石だ。
固い。冷たい。戻ってきた感触。
ミレイも降り、手首の風の輪が一瞬だけ強く回った。
スウィフトが肩で身体を伸ばし、周囲の風を一度だけ吸い込む。――縄張りを確かめる獣みたいに。
リュミエルは、当たり前のようにエイドの隣に降り立った。
誰にでも見えるかどうかは、今はどうでもよかった。
ここは学園だ。見える人間が多い。見えない人間がいても、驚くほどのことじゃない。
「試験、終わったね」
リュミエルが言う。
その言い方が、妙に“次”を含んでいる。
エイドは頷いた。
試験は終わった。
だが、終わったからこそ始まるものがある。
精霊と向き合う冬。
契約した者は、その精霊の性質に合わせて進路を決める。研究へ行く者。護衛や治安へ行く者。商会付きの魔法士になる者。あるいは、評議会に近い道を選ぶ者。
そして、冬の間は――同じ寮に集められる。
孤立させないため。
暴走させないため。
何より、精霊との対話を“生活”の中で覚えるため。
精霊は戦場だけの存在じゃない。
風は部屋の空気を変える。
火は暖を取る。
水は傷を洗う。
光は――暗いところで、意外と心まで照らしてしまう。
「冬、同じ寮になるんだっけ」
エイドが口にすると、ミレイが頷く。
「ええ。契約した生徒は、特にね。精霊と喧嘩するなら、廊下がある場所でやれってこと」
冗談みたいに言って、ミレイは少しだけ口元を緩めた。
その瞬間、スウィフトが「ふん」と鼻を鳴らしたように見えた。風がほんの少し、ミレイの髪を揺らす。照れ隠しの癖みたいに。
エイドは、ふと自分の胸の奥を探った。
自分は、進路を選べるのか。
選ぶ資格があるのか。
“光の精霊様”なんて言葉が、門前で群れを作る街だ。
契約の有無より先に、象徴として扱われる。
学園が「特別扱いしない」を掲げても、外の世界は勝手に特別にする。
それを思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
「エイド」
呼び止める声がした。
エルヴァン学長だった。
背筋がまっすぐで、歩幅が小さい。けれど歩みが遅くない。生徒の群れの中を割って入ってくるのに、誰も邪魔だと思わない種類の存在感。
「少し、いいか」
エイドは頷き、ミレイに目で「先に行け」と伝えた。
ミレイは一瞬迷う顔をして、それでも頷いた。
スウィフトが学長をちらりと見て、興味なさそうに尻尾を揺らす。
リュミエルは何も言わず、エイドの半歩後ろに立った。
学長はそれを見て、見ていないふりをした。
学園は、精霊を“制度”に入れすぎない。学長自身が、その線を守っている。
「今回の件だが」
学長の声は、いつもより少し低い。
「街の会議が動いている。評議会、商人組合、教会――それぞれの立場で話が出る」
エイドの胃が、きゅっと縮んだ。
「……俺に、何か?」
「君にも出てほしい」
学長は即答した。
「禁測地で何が起きたのか。生徒の目で、正確に言える人間が必要だ。教師の報告だけでは、政治の言葉に変換される。君の言葉が、私たちにとっての楔になる」
楔。
その言葉の重さが、秋の空気より冷たい。
エイドは喉の奥で唾を飲み込んだ。
“楔”になるのは、怖い。
怖いが――逃げると、誰かの都合のいい形に削られるのはもっと怖い。
「……分かりました」
返事をした瞬間、肩の力が抜ける。
抜けてしまったことに、遅れて不安が来る。
学長はそれを見て、声をほんの少しだけ柔らかくした。
「不安だろう。だが、君一人で立たせない。学園の責任として、君を守る」
守る。
その言葉が、今日は頼もしいより先に、現実の重みとして落ちた。
リュミエルが、背後で小さく息を吐いた。
エイドは振り返らない。振り返ると、何かを言いそうだったからだ。
「詳細は、明日伝える」
学長はそう言って踵を返した。
生徒たちの方へ戻っていく背中は、いつも通りの“学長”の背中だった。
エイドはその場に残り、空を見た。
秋の空は高い。
高いのに、今日は低く感じた。
学園に帰ってきたはずなのに、もう次の扉が見えている。
リュミエルが隣に立って、同じ空を見る。
「……楽しくなりそうだね」
エイドは笑えなかった。
「やめろよ。縁起でもない」
そう言ってから、エイドは自分でも驚くほど小さく続けた。
「……でも、逃げない」
リュミエルは、何も言わずに頷いた。
それだけで、風の冷たさが少しだけ和らぐ。
石畳の上で、学園の鐘が鳴り始める。
帰還を告げる音。
それは次に備えよという音にも聞こえた。




