第27章 生き証人
教会の暗い部屋には、匂いがある。
蝋の残り香。古い紙。布の湿り。――そして、祈りのあとに残る、人の汗の薄い酸っぱさ。
ノアは、その匂いを「安全」だと思っていた。
教会の夜はいつも静かで、静かだから正しい。
正しさは、音を立てない。
自分はそういうふうに覚えてきた。
(なんの用だろうか)
プラム神官長の名が、喉の奥で一度だけ鳴る。
鳴っただけで、心が勝手に低くなる。
姿勢はいつも低く。
誰かの後ろに立つ癖。
上官の言葉を待つ癖。
ノアは扉の前で息を整え、ノックをした。
返事はない。
もう一度。
返事はない。
(……お忙しいでしょうか)
疑問を立てるのは、余計な作業だ。
疑問は、責任を生む。
責任は、判断を生む。
判断は――自分の意思を生む。
ノアはそれが怖い。
だから、扉を開ける。
言われていなくても、手順で進めば、意思ではない。
きい、と木が鳴いた。
部屋は暗かった。
灯りがないというより、灯りの“用意”だけがある。燭台は並び、芯は整えられているのに、火が入っていない。
誰もいない。
机の上に、封の切られた手紙が置かれていた。
ノアの足が止まる。
封蝋の割れ方が、丁寧だ。
乱暴な破き方ではない。
誰かが正しく開いた形。
(これは、私に……?)
思考が浮かぶ前に、身体が手紙を取る。
読む。
読むことは、命令を受け取ることだから。
白い紙の上に、黒い文字。
――教会のために、死んでくれ。
たった一行。
意味はそれだけだった。
ノアの目が、文字の上を滑る。
滑って、止まらない。
(……なにこれ)
教会のため。
神のため。
それはいつも、正しい言葉だった。
でも――“死んでくれ”は、今まで自分が受け取ったどんな命令とも違った。
呼吸が浅くなる。
胸の中で何かが縮む。
怖い。
怖いのに、声が出ない。
「どうして」
口が勝手に動いた。
勝手に動いたことに、ノアは自分で怯えた。
次の瞬間だった。
手紙が、熱を持つ。
火が触れたわけでもない。
燭台は暗い。
なのに紙の端から、静かに崩れ始める。
燃えるのではなく、ほどける。
繊維が灰に変わり、文字が黒い粉になり、指の間から落ちる。
(……なんだこれ、なんだこれ)
考えが形になるより早く、すべてが消えた。
机の上には、何も残らない。
ノアの指先に、薄い灰だけが残っている。
風が触れれば散ってしまう程度の、薄い証拠。
その灰を見つめた瞬間。
――バタン!
背後の扉が、閉じた。
ノアの喉がひゅっと鳴る。
「ひっ」
声が出た。
出たことが、さらに恐怖を呼ぶ。
音は、部屋に残る。
残った音は、自分が“生きている”証拠になる。
ノアはゆっくり振り返った。
暗い入口に、外套の影が四つ。
女が四人。
顔は見えない。
でも、足の置き方が揃っている。呼吸の浅さが揃っている。――訓練された揃い方。
そのうちの一人が、淡々と言った。
「あんたには悪いけど」
声は冷たくない。
冷たくないのに、逃げ道がない。
「この街での作戦は失敗した。教会には、生贄が必要なの。ここで死んでくれる?」
ノアは言葉の意味が分からなかった。
生贄。
必要。
教会。
死。
文字は分かる。意味も分かる。
なのに組み合わせが、頭に入ってこない。
「……私が?」
問いが、かすれる。
四人の女は、頷きもしない。否定もしない。
ただ、距離を詰めた。
外套の下で金属が擦れる音。
刃だ。
ナイフ。
ノアの背中が、壁を探す。
壁を探して――壁があるのに、背中が落ち着かない。
(プラム様は、私を救ってくれた)
孤児だった自分。
貧しい街の路地。
誰にも見つけてもらえない夜。
その夜に、手を差し伸べたのがプラムだった。
「神は、君を見捨てない」
そう言われた瞬間、世界が“意味”を持った。
意味が持てたから、生きられた。
考えなくて済んだ。
それが今、机の上の一枚の紙で、ひっくり返った。
(裏切られた)
裏切られた、という言葉さえ、ノアにとっては大きい。
大きすぎて、噛み砕けない。
見捨てられた絶望。
今から死ぬしかない絶望。
二つが重なって、胸を潰す。
(……どうすればいい)
どうすれば、という問いが生まれた時点で、ノアはもう追い詰められている。
だって、問いは自分の意思を要求するから。
女の一人が踏み込む。
刃が闇を割る。
ノアは目を閉じることすらできない。
――ガンッ!
重い金属音。
刃が弾かれた。
ノアの視界に、横から巨大な斧の刃が差し込む。
闇の中でも分かる、乱暴な輪郭。
木の柄。鉄の重み。
「おうおう、穏やかじゃねぇな」
低い声。笑い混じり。
場違いなほど軽い。
女が苛立った声を出す。
「なんだお前」
「そりゃこっちのセリフだ」
影から男が出る。アンガス。
斧を肩に乗せる動作が、まるで酒場の挨拶みたいだった。
「この街の禁測地を荒らしたってバカは、おめぇらだな」
ノアは、理解できない。
なぜここに。
なぜ助ける。
なぜ、命が続いている。
その混乱に、光が割り込む。
ぱち、と小さな音。
火ではない。
術式が起動する音。
「――明るくするよ」
女の声。キーラ。
彼女はランプを取り出し、細い光の術式が走らせ、天井を撫でる。
光は広がり、部屋の四隅に“昼”を置く。
闇が、逃げ場を失って薄くなる。
そこで初めて、ノアは四人の女を見た。
目が乾いている。頬が動かない。外套の内側に、教会の紋が小さく縫い付けられている。
(名もなき……)
言葉が喉まで上がりかけて、飲み込まれる。
口にしたら、確定してしまう気がした。
そして、ノアの理解を置き去りにしたまま、さらに“人”が増える。
窓が軋む。
扉の隙間から、影が流れ込む。
床板を踏む音。短い合図。
街の裏稼業――そう呼ばれる連中がぞろぞろと。
目つきが悪い。手が早い。
でも、今日は同じ方向を向いている。
「退け、下郎ども」
名もなき救済者たちの一人が、吐き捨てた。
その言葉の硬さに、教会の"正義"が混じっている。
次の瞬間、混戦になった。
斧が鳴る。
刃が鳴る。
光が弾ける。
祈りの言葉が、ただの命令語に変わって飛び交う。
この混戦の中、キーラはノアの腕を掴んだ。
「立って」
ノアの足が動かない。
「……無理、です」
声が小さい。
小さいまま、世界から消えたいという願いが混じる。
キーラは歯を食いしばった。
「無理でも動くの。ここで死んだら、相手の思惑が完成する」
ノアは分からない。
思惑。完成。自分が死ぬことが、誰の"完成"になるのか。
理解できないから、従えない。
従えないから、動けない。
キーラは、ノアの頬を――ひっぱたいた。
乾いた音。
痛みは遅れて来た。
でも痛みより先に、衝撃がノアの"考えない癖"を割った。
「――生きろ!」
キーラの声が、祈りじゃない形で落ちる。
「生きて。走って。息をして。今はそれだけを考えろ!」
それだけ、と言われると、手順になる。
手順なら、意思じゃない。
意思じゃないなら、できる。
ノアの足が、ひとつ動いた。
キーラはノアの手を引き、入口へ向かって引きずる。
背後で刃が交差し、金属が鳴った。短い呻き。血の匂いが、一瞬だけ立つ。
扉の手前で、アンガスが斧を振り抜きながら笑った。
「この仕事は高くつくぞ!」
キーラは振り返らない。ノアの手を離さないまま、吐き捨てる。
「生きてたら、あんたの働きを三割引きで買ってあげる」
「ほざけ、女狐!」
アンガスの返しが、斧の音に混じる。
場違いな軽口。場違いな生存の匂い。
ノアの胸の奥で、何かがひゅっと縮んだ。
怖いのに――その怖さの種類が、さっきと違う。
キーラは扉を押し開けた。
「行くよ」
ノアは頷けない。
けれど、足は出た。
背後でアンガスの斧が床を叩き、火花が散った。
誰かが呻き、誰かが笑い、誰かが呪詛を吐く。
廊下は冷たい。
教会の奥の冷たさは、夜の冷たさとは違う。
人の体温を拒む冷たさ。
出口が見えた。
外に出ると、石畳の匂いがした。湿った港の風。遠い波。
それだけでノアは、世界が少しだけ広くなるのを感じた。
そこに、女が立っていた。
背は高くない。
年相応の皺は隠せない。
なのに目だけが若い。冷えた水面みたいに澄んでいる。
セレナ。
キーラがノアを背に隠すように立つ。
「上々だ」
セレナは、静かに言った。
静かだからこそ、重い。
「そいつが生きていることが今後、教会がこの街にちょっかいをかけない保険になる」
保険。
その言葉が、ノアの胃を冷やした。
(……私は、保険)
でも、教会に使われるのと、街に使われるのは――同じなのか。
セレナは続ける。
「プラムの悪事を暴くための、生き証人。揺さぶるための、大事な証人」
"証人"。
その言葉だけが、ノアの中で残る。
――生きていること自体が、刃になる。
教会の奥から、怒号が聞こえる。
だが、次第に小さくなる。
多勢に無勢。
決着がついたのだろう。
ノアは振り返りたいのに、振り返れない。
ノアが、キーラの手を離さない。
その手の温かさが、逆に怖い。
温かいものは、奪われるから。
セレナが、ふっと口角を上げた。
それは笑顔というより、仕事が増えることを楽しむ人の顔だった。
「さて」
水位が上がるみたいな圧が、周囲に広がる。
「忙しい後始末の先は――これからの、楽しみがあるわね」
ノアの背筋が凍る。
ノアは、セレナの"悪い顔"を見て、
もう一度、ひゅっと喉を鳴らした。
そしてその音が、夜の石畳に、薄く落ちた。




