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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
36/77

第27章 生き証人


教会の暗い部屋には、匂いがある。


蝋の残り香。古い紙。布の湿り。――そして、祈りのあとに残る、人の汗の薄い酸っぱさ。


ノアは、その匂いを「安全」だと思っていた。


教会の夜はいつも静かで、静かだから正しい。

正しさは、音を立てない。

自分はそういうふうに覚えてきた。


(なんの用だろうか)


プラム神官長の名が、喉の奥で一度だけ鳴る。

鳴っただけで、心が勝手に低くなる。


姿勢はいつも低く。

誰かの後ろに立つ癖。

上官の言葉を待つ癖。


ノアは扉の前で息を整え、ノックをした。


返事はない。


もう一度。

返事はない。


(……お忙しいでしょうか)


疑問を立てるのは、余計な作業だ。

疑問は、責任を生む。

責任は、判断を生む。

判断は――自分の意思を生む。


ノアはそれが怖い。


だから、扉を開ける。

言われていなくても、手順で進めば、意思ではない。


きい、と木が鳴いた。


部屋は暗かった。

灯りがないというより、灯りの“用意”だけがある。燭台は並び、芯は整えられているのに、火が入っていない。


誰もいない。


机の上に、封の切られた手紙が置かれていた。


ノアの足が止まる。


封蝋の割れ方が、丁寧だ。

乱暴な破き方ではない。

誰かが正しく開いた形。


(これは、私に……?)


思考が浮かぶ前に、身体が手紙を取る。

読む。

読むことは、命令を受け取ることだから。


白い紙の上に、黒い文字。


――教会のために、死んでくれ。


たった一行。

意味はそれだけだった。


ノアの目が、文字の上を滑る。

滑って、止まらない。


(……なにこれ)


教会のため。

神のため。

それはいつも、正しい言葉だった。


でも――“死んでくれ”は、今まで自分が受け取ったどんな命令とも違った。


呼吸が浅くなる。

胸の中で何かが縮む。

怖い。

怖いのに、声が出ない。


「どうして」


口が勝手に動いた。

勝手に動いたことに、ノアは自分で怯えた。


次の瞬間だった。


手紙が、熱を持つ。


火が触れたわけでもない。

燭台は暗い。

なのに紙の端から、静かに崩れ始める。


燃えるのではなく、ほどける。

繊維が灰に変わり、文字が黒い粉になり、指の間から落ちる。


(……なんだこれ、なんだこれ)


考えが形になるより早く、すべてが消えた。


机の上には、何も残らない。


ノアの指先に、薄い灰だけが残っている。

風が触れれば散ってしまう程度の、薄い証拠。


その灰を見つめた瞬間。


――バタン!


背後の扉が、閉じた。


ノアの喉がひゅっと鳴る。


「ひっ」


声が出た。

出たことが、さらに恐怖を呼ぶ。

音は、部屋に残る。

残った音は、自分が“生きている”証拠になる。


ノアはゆっくり振り返った。


暗い入口に、外套の影が四つ。


女が四人。

顔は見えない。

でも、足の置き方が揃っている。呼吸の浅さが揃っている。――訓練された揃い方。


そのうちの一人が、淡々と言った。


「あんたには悪いけど」


声は冷たくない。

冷たくないのに、逃げ道がない。


「この街での作戦は失敗した。教会には、生贄が必要なの。ここで死んでくれる?」


ノアは言葉の意味が分からなかった。


生贄。

必要。

教会。

死。


文字は分かる。意味も分かる。

なのに組み合わせが、頭に入ってこない。


「……私が?」


問いが、かすれる。


四人の女は、頷きもしない。否定もしない。

ただ、距離を詰めた。


外套の下で金属が擦れる音。

刃だ。

ナイフ。


ノアの背中が、壁を探す。

壁を探して――壁があるのに、背中が落ち着かない。


(プラム様は、私を救ってくれた)


孤児だった自分。

貧しい街の路地。

誰にも見つけてもらえない夜。

その夜に、手を差し伸べたのがプラムだった。


「神は、君を見捨てない」


そう言われた瞬間、世界が“意味”を持った。

意味が持てたから、生きられた。

考えなくて済んだ。


それが今、机の上の一枚の紙で、ひっくり返った。


(裏切られた)


裏切られた、という言葉さえ、ノアにとっては大きい。

大きすぎて、噛み砕けない。


見捨てられた絶望。

今から死ぬしかない絶望。


二つが重なって、胸を潰す。


(……どうすればいい)


どうすれば、という問いが生まれた時点で、ノアはもう追い詰められている。

だって、問いは自分の意思を要求するから。


女の一人が踏み込む。

刃が闇を割る。


ノアは目を閉じることすらできない。


――ガンッ!


重い金属音。


刃が弾かれた。


ノアの視界に、横から巨大な斧の刃が差し込む。

闇の中でも分かる、乱暴な輪郭。

木の柄。鉄の重み。


「おうおう、穏やかじゃねぇな」


低い声。笑い混じり。

場違いなほど軽い。


女が苛立った声を出す。


「なんだお前」


「そりゃこっちのセリフだ」


影から男が出る。アンガス。

斧を肩に乗せる動作が、まるで酒場の挨拶みたいだった。


「この街の禁測地を荒らしたってバカは、おめぇらだな」


ノアは、理解できない。


なぜここに。

なぜ助ける。

なぜ、命が続いている。


その混乱に、光が割り込む。


ぱち、と小さな音。

火ではない。

術式が起動する音。


「――明るくするよ」


女の声。キーラ。


彼女はランプを取り出し、細い光の術式が走らせ、天井を撫でる。

光は広がり、部屋の四隅に“昼”を置く。


闇が、逃げ場を失って薄くなる。


そこで初めて、ノアは四人の女を見た。

目が乾いている。頬が動かない。外套の内側に、教会の紋が小さく縫い付けられている。


(名もなき……)


言葉が喉まで上がりかけて、飲み込まれる。

口にしたら、確定してしまう気がした。


そして、ノアの理解を置き去りにしたまま、さらに“人”が増える。


窓が軋む。

扉の隙間から、影が流れ込む。

床板を踏む音。短い合図。

街の裏稼業――そう呼ばれる連中がぞろぞろと。


目つきが悪い。手が早い。

でも、今日は同じ方向を向いている。


「退け、下郎ども」


名もなき救済者たちの一人が、吐き捨てた。

その言葉の硬さに、教会の"正義"が混じっている。


次の瞬間、混戦になった。


斧が鳴る。

刃が鳴る。

光が弾ける。

祈りの言葉が、ただの命令語に変わって飛び交う。


この混戦の中、キーラはノアの腕を掴んだ。


「立って」


ノアの足が動かない。


「……無理、です」


声が小さい。

小さいまま、世界から消えたいという願いが混じる。


キーラは歯を食いしばった。


「無理でも動くの。ここで死んだら、相手の思惑が完成する」


ノアは分からない。

思惑。完成。自分が死ぬことが、誰の"完成"になるのか。


理解できないから、従えない。

従えないから、動けない。


キーラは、ノアの頬を――ひっぱたいた。


乾いた音。


痛みは遅れて来た。

でも痛みより先に、衝撃がノアの"考えない癖"を割った。


「――生きろ!」


キーラの声が、祈りじゃない形で落ちる。


「生きて。走って。息をして。今はそれだけを考えろ!」


それだけ、と言われると、手順になる。

手順なら、意思じゃない。

意思じゃないなら、できる。


ノアの足が、ひとつ動いた。


キーラはノアの手を引き、入口へ向かって引きずる。

背後で刃が交差し、金属が鳴った。短い呻き。血の匂いが、一瞬だけ立つ。


扉の手前で、アンガスが斧を振り抜きながら笑った。


「この仕事は高くつくぞ!」


キーラは振り返らない。ノアの手を離さないまま、吐き捨てる。


「生きてたら、あんたの働きを三割引きで買ってあげる」


「ほざけ、女狐!」


アンガスの返しが、斧の音に混じる。

場違いな軽口。場違いな生存の匂い。


ノアの胸の奥で、何かがひゅっと縮んだ。

怖いのに――その怖さの種類が、さっきと違う。


キーラは扉を押し開けた。


「行くよ」


ノアは頷けない。

けれど、足は出た。


背後でアンガスの斧が床を叩き、火花が散った。

誰かが呻き、誰かが笑い、誰かが呪詛を吐く。


廊下は冷たい。

教会の奥の冷たさは、夜の冷たさとは違う。

人の体温を拒む冷たさ。


出口が見えた。


外に出ると、石畳の匂いがした。湿った港の風。遠い波。

それだけでノアは、世界が少しだけ広くなるのを感じた。


そこに、女が立っていた。


背は高くない。

年相応の皺は隠せない。

なのに目だけが若い。冷えた水面みたいに澄んでいる。


セレナ。


キーラがノアを背に隠すように立つ。


「上々だ」


セレナは、静かに言った。

静かだからこそ、重い。


「そいつが生きていることが今後、教会がこの街にちょっかいをかけない保険になる」


保険。

その言葉が、ノアの胃を冷やした。


(……私は、保険)


でも、教会に使われるのと、街に使われるのは――同じなのか。


セレナは続ける。


「プラムの悪事を暴くための、生き証人。揺さぶるための、大事な証人」


"証人"。


その言葉だけが、ノアの中で残る。


――生きていること自体が、刃になる。


教会の奥から、怒号が聞こえる。

だが、次第に小さくなる。


多勢に無勢。

決着がついたのだろう。


ノアは振り返りたいのに、振り返れない。


ノアが、キーラの手を離さない。


その手の温かさが、逆に怖い。

温かいものは、奪われるから。


セレナが、ふっと口角を上げた。


それは笑顔というより、仕事が増えることを楽しむ人の顔だった。


「さて」


水位が上がるみたいな圧が、周囲に広がる。


「忙しい後始末の先は――これからの、楽しみがあるわね」


ノアの背筋が凍る。


ノアは、セレナの"悪い顔"を見て、

もう一度、ひゅっと喉を鳴らした。


そしてその音が、夜の石畳に、薄く落ちた。

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