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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
34/77

第26章 森の所有者


森が、こちらを見ていた。


ざわめきではない。

風でもない。

地面の下で、根が「位置」を変える気配。見えないものが、見えないまま配置を変えていく。


エルヴァン学長が一歩だけ前に出ると、それに合わせて森の輪郭が整った。

木々の間の隙間が閉じ、逃げ道だったはずの暗がりが“袋”に変わる。足元の土が、ほんのわずか持ち上がる。


外套の人物が身じろぎしようとした瞬間、蔦が走った。


一本ではない。

地表を割り、根元を巻き、膝を止め、腰を奪う。

絡め取るというより、動くための“余白”そのものを消す。


刃が落ちた。

音は、ようやく落ちた。――金属が土に触れる、当たり前の音。


学長は目を細めもしない。声を荒げもしない。

ただ、淡々と言った。


「森で、私の精霊に勝てるわけがなかろう」


それは威圧ではなく、宣告だった。

この場の所有者が誰か――今さら説明する必要もない、という口調。


外套の人物は抵抗しなかった。

肩の力が抜け、首がほんの少し傾く。何かを聞き取る仕草にも見えたが、森はもう、彼に“伝える音”を与えない。


次の瞬間。


胸元から、灰が崩れた。


火が走ったわけではない。

光が閃いたわけでもない。

ただ、体の内側で術式が完結し、生命の形が分解されていく。


外套が崩れ、骨が崩れ、肉が崩れる。

炭化ではない。もっと静かな、徹底した消去。


最後に残ったのは、黒い粉だった。

風が触れれば散ってしまう程度の、薄い証拠。


ミレイが息を呑む。

エイドの手が、槍の柄を握ったまま固くなる。


学長は一度だけ視線を落とし、短く言った。


「……従順だな。口を割る気がない」


忠誠心。

それが“美徳”として使われるとき、こんな形になる。


エイドは喉の奥が乾くのを感じた。

さっきまでの戦いより、いまの方が怖い。

だって――倒した感触が、ない。


「……他のみんなは?」


エイドの声は、思ったより自分の耳に届いた。音が戻った森は、言葉を誤魔化さない。


学長は森の奥へ視線を走らせる。

そこに何があるのか、見ているのか、確かめているのか。判断できないほど短い時間。


「大丈夫だ。みな無事だよ」


その一言で、胸の奥の硬いものがほどけた。


「この禁測地で7か所ほぼ同時に戦闘があったが他の子たちは先生方が先に助けている。君たちが最後だった」

「遅くなってすまないね」


謝罪が、奇妙なくらい素直だった。

だからこそ、これは“本当に遅れた”のだと分かってしまう。


エイドは息を吐いた。

吐いた息が、ちゃんと音になる。

それだけで、世界が戻ってくる。


隣で、ミレイの膝が折れた。


倒れる――と思った瞬間、風が腰の下に滑り込む。

見えない椅子のように支え、急激な落下だけを殺す。

ミレイはゆっくり座り込む形になり、肩から力が抜けた。


「ミレイ?」


エイドが覗き込むと、ミレイは困ったように笑った。笑いの形を作るだけで、もう体力が残っていないみたいだった。


「うん……大丈夫」

「安心したら……腰、抜けちゃった……」


言い終える前に、風がそっと背中を押した。

座りやすい位置に、もう一度だけ調整する。


エイドは小さく息を漏らした。笑いと安堵の境目みたいな息。


――そのときだ。


空気が、鋭く擦れた。


「っ――!」


反射で身を引くより早く、光が割り込む。


リュミエルが、目の前に“拒む光”を置いた。

薄い光が、風の刃を受けて弾く。弾かれた一撃は木の皮をかすめ、ささくれが散った。


エイドの心臓が跳ねる。

安心した瞬間を、狙われた。


学長の動きも早い。


飛んできた方向へ、蔦が走る。

空を裂くように伸び、木々の間の陰へ突き刺さる勢いで絡め取ろうとした。


だが――掴めない。


蔦は、空を抱く。


そこにいたはずの“何か”は、もういなかった。


学長が小さく苦い顔をする。怒りではない。計算違いへの短い反応。


「逃げられたか」


森が動いているのに、逃げる余地がある。

そのこと自体が、嫌な意味を持っていた。


エイドは槍を構え直す。

ミレイは反射で立ち上がろうとして、また腰が抜けかける。風が必死に支える。ミレイは悔しそうに唇を噛んだ。


リュミエルの声が、エイドのすぐ耳元に落ちる。


「……パリスが言ってたの」

「油断したときが、一番狙われるって」


“誰”の言葉かは、いま重要じゃない。

その通りだった。――狙う側は、人の心の緩みを知っている。


学長は、蔦の先端を見つめたまま言う。


「敵も一筋縄ではいかないのう。……いや」


そこで言葉が切れた。

学長の目が、森ではなく“砦の方角”へ移る。


「この状況で、あそこまで手際よく潜り込めるとなると……」

「試験に詳しい者に、内通者がいる可能性も考えるべきか」


内通者。


その単語が出た瞬間、空気が冷える。

風が止むわけじゃない。森の音が消えるわけでもない。

それでも、肌の上を何かが滑る感覚がある。


ミレイが顔を上げる。

風の輪が、微かに締まる。警戒の形。


エイドは、頭が追いつかないまま口を開いた。


「……さっきの一撃」

「音が、違った気がします」


学長がエイドを見る。

続きを促す目。


エイドは必死に言語化した。


「刃、じゃない。……風です」

「空気が、短く削れる感じ。……でも、森の風じゃない」


森の風なら、もっと“場”に馴染む。

あれは、狙いが一点に尖っていた。人の手が作る尖り。


学長はゆっくり頷いた。


「風の魔術のようだ。しかも、止める系統の癖がある」


ミレイが小さく息を呑む。


「止める……?」


リュミエルが静かに補足する。


「風を動かして切るんじゃなくて、空気を“詰めて”叩く感じ」

「さっきの無音の術式に近い」


学長の視線が、さらに遠くへ伸びる。

森を越え、砦の建物の配置を頭の中でなぞっているみたいだった。


「……風を止め、音の広がりを殺す。便利な術だ」


便利。


その言い方が、逆に怖かった。

戦いの術が、生活のための術として溶け込むとき、どこからが武器でどこまでが手段なのか分からなくなる。


学長は続ける。


「煙を正しい方向へ導き」

「匂いを散らさず」

「熱を留める」


淡々と挙げられる用途が、あまりに日常すぎて、エイドの背筋が冷えた。


ミレイが、ぽつりと言う。


「……厨房?」


学長が一度だけ瞬きをした。肯定とも否定ともつかない間。


エイドの脳裏に、いくつかの記憶が浮かぶ。


食堂の前だけ、匂いが“溜まる”日があった。

鍋の匂いが廊下に流れてこないのに、なぜか同じ場所に残る日があった。

あの甘い香りを嗅ぐと、ざわめきが遠のく感じがした。


ただの気のせいだと思っていた。

でも、いま「風を止める」という言葉を聞いた途端、全部が一本の線になってしまう。


学長は、エイドの視線の動きを見て取ったように言う。


「憶測で名を挙げるのは、まだ早い」

「だが――調べる価値はある」


ミレイが唇を噛む。


「調べる、って……どうやって?」


学長は森に向けて、指を軽く鳴らした。音が小さく響く。


「森は記録する」

「風の止まった場所、匂いの留まった場所、足跡の途切れた場所」

「それらは、全部“道”だ」


森が、すうっと音を落とした。

今度は敵の術じゃない。学長の“整理”だ。必要な音だけ残し、余計なざわめきを畳んでいく。


その静けさの中で、ミレイがようやく立ち上がった。

風が背中を押す。今度は支えるための風だ。


「……帰ろう」


エイドはそう言って、槍を下ろした。

手が震えているのに気づく。疲れじゃない。遅れてきた恐怖だ。


学長が歩き出す。

森が道を開く。さっきまで壁だった木々が、すっと左右へ寄る。拒絶ではなく案内。


エイドは最後に、灰の残骸へ目を向けた。

指ですくえば、消えてしまいそうな黒。


(さっきの敵は……何者だったんだ)


答えは出ない。

出ないまま、次の一撃が飛んできたことだけが現実だ。


学長が背中越しに言う。


「生活に溶け込んだ術ほど、厄介だからね」


森が、また動いた。


それは風でも、葉擦れでもない。

“配置”が変わる気配。


エイドは気づく。

森が、学園の方へも手を伸ばしている。――守るために。


そして同時に、縛るために。


誰が内通者か。

誰が“便利”を武器に変えたのか。


答えはまだ見えない。

けれど一つだけ確かなことがある。


次は、森の外ではなく――

森の内側、日常の中から来る。

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