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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
32/77

第24章 静けさの幕

エイドが森へ飛び込んだ瞬間、匂いで分かった。

血。新しい鉄。削れた樹皮の青い匂い。


視界に入ったのは三つの影だ。

ミレイが立っている。頬に赤い線。足元に、いたちの形をした風の精霊。

その正面に外套の人物。森の色に溶けているのに、そこだけ"異物"みたいに見える。


「ミレイ!」


呼ぶことで、いまここが現実になる。

ミレイがこちらを向いた。


「……エ…ド!」


声が小さい。でも、それだけで十分だった。

生きている。立っている。まだ折れていない。


エイドはミレイの前へ出た。

背中を守る位置。刃の線を自分に通す位置。


槍――ランスを構える。

リュミエルの光が柄に沿って流れ、先端の白が研がれていく。眩しさではない。輪郭が鋭くなる。


外套の人物が、音もなく踏み込んだ。


(速い)


来る。

来るのに、音がない。


その瞬間、気づく。

この場所だけ、音が薄い。

葉擦れが遠い。鳥の声もない。靴底の擦れさえ途中で消える。


静けさが、幕のように被さっていた。


(……音で読めない)


判断が遅れれば、背中が終わる。


エイドは退かない。槍を"置く"。

突くのではなく、刃が通るはずの道へ先に差し込む。


空気が、ぎし、と鳴った。

金属ではない。押し潰された空気の擦れる音だ。


見えない斬撃が槍先の白に引っ掛かり、僅かに逸れる。

逸れた線が木の幹を削り、樹皮がふわりと剥がれる。青い匂いが濃くなる。


外套の人物は間髪入れずに距離を詰めた。

今度は"飛ぶ刃"ではない。体ごと来る。手の中の刃の重さが現実として迫る。


エイドは槍を突く。

刺せる距離――けれど刺さない。


槍先を胸に向ける代わりに、刃を持つ手首の手前へ滑らせる。

"殺す線"ではなく、"止める線"。


――そこで、手がほんの一拍止まった。


(殺す?)


相手は殺す意図を隠さない。

こちらは止めたい。止めたいだけで、止まるほど相手は甘くない。


その迷いの一拍を、相手は見逃さない。


刃が返り、槍の柄へ絡みつく。奪う軌道。

槍を払われたら、背中が割れる。


「っ……!」


エイドが柄を捻って耐えた瞬間、静けさの幕の中で"別の音"が走った。

ひゅ、と短い風。


足元のいたちが尻尾をしならせ、かまいたちで刃の軌道を叩く。

刃が指一本分だけズレる。


ズレただけ。折れない。止まらない。

――でも、その"指一本"が生死を分ける。


外套の人物の視線が、ミレイへ滑った。


言葉はない。

でも意味だけが刺さる。


――お前を切れば、こいつは迷う。


エイドの背中が冷えた。


(やめろ)


「ミレイ!下がれ!!」


声が強くなる。強くしないと、聞こえそうにないし、自分が折れそうだった。

命令にしたいわけじゃない。ただ、背中を守る位置を作りたい。


ミレイは言われた通り、後ろへ退いた。

退いた瞬間、自分がここにいる限り、エイドの判断が縛られることがはっきりしてしまう。

胸が痛い。痛いのに、目は逸らせない。


外套の人物が、狙いを切り替えた。

刃の先がミレイの喉に高さが移る。


静けさの幕の中で、刃は音を立てない。

だから怖い。来たときにはもう遅い気がする。


ミレイの足が硬直しかけた、その瞬間。


白い光が割って入った。


リュミエルの魔法だった。

槍の光が一瞬だけ広がり、薄い壁のように刃の前へ立つ。


刃が弾かれた。

弾かれたというより拒まれた。

"ここから先へは来るな"と光が言っている。


エイドの耳元に、リュミエルの声が落ちる。


「優しいのは弱さじゃない。今は、守ることだけ考えて」


迷いを、言葉で切る。

切られた瞬間、エイドの足が戻った。


(守る)


刺すためじゃない。届かせないために動く。


エイドは半身で前へ出て、槍を横に払う。

払うというより、相手の刃を"押し出す"。白い槍の軌跡が弧を描き、刃の線を森の外へ追いやる。


外套の人物が半歩退いた。

驚きではない。修正だ。

修正のまま、エイドだけを見る。


目が言っている。

――お前を殺せば、背中は崩れる。


汗が出る。

汗が冷える前に、決めなければならない。

決める――殺す、ではなく、止める。


外套の人物が地面を蹴った。

次の瞬間、距離が消える。


刃が振り下ろされる。

音がない。影だけが落ちる。


エイドは槍を立てる。受け止めない。

斜めに当てて、刃を滑らせる。


その刃の"通り道"が白く縁取られた。

リュミエルの援護だ。光が当たった部分だけ、空気の線が見える。


見えれば、避けられる。

避ければ、背中が生きる。


エイドは半歩ずらす。

刃が空を切り、木を削る。樹皮が飛び、土が跳ねる。

それでもミレイの位置には届かない。


外套の人物はすぐ角度を変える。

今度はフェイント。エイドの槍を誘って、隙間からミレイへ線を通す狙い。


(来る、ミレイに――)


心臓が跳ねた、その瞬間。

リュミエルが先に動く。


光が一瞬だけミレイの前へ落ちる。短い閃き。

刃の線が、そこだけ逸れる。


『エイド、迷いはあと!』


背中を押す心の声。

エイドは歯を食いしばり、槍を突き出した。


刺すためじゃない。押し返すため。

相手の胸へ届く一歩手前で止め、槍の"面"で体勢を崩す。

相手の足が止まる。


止まったのは一瞬。

でも一瞬あれば、背中は生きる。


外套の人物は静かに息を吐いた。

吐いた息さえ音がしない。


「……光の槍か」


それだけ言って、次の手を選ぶ。

怖いのはここだ。感情が見えない。焦りが見えない。

"殺す"だけが消えない。



ミレイは背中が汗で冷えていくのを感じていた。

助けが来た。助かった。――だからこそ分かってしまった。


自分がここにいる限り、エイドの判断は縛られる。

その縛りを、相手が狙っている。


守られてるだけだ。


胸が痛い。でもここで崩れたら、もっと縛る。


ミレイは足元のいたちを見た。

小さいのに、風の芯を持っている。さっきからずっと、背中を向けて守る立ち方をしている。


「……ねえ」


震えても言う。


「あの人を守りたい」

「エイドの助けになりたい。……私にとって、大事なの」


いたちの耳が、ぴくりと動く。


少し間があって、風が言葉を作った。

人の声じゃない。けれど意味が分かる。胸の内側に届く声だ。


『お前は他者を見ているようで、自分しか見ていなかった』


痛い。けれど嘘じゃない。


『だが今――他者を助け、守りたいと願った』


いたちが尻尾を一度だけ揺らした。

風がミレイの手首に触れた。絡みかけて、離れる。絡みかけて、また離れる。


輪になりきれない。


形が定まらない。ミレイの意志は届いている。けれどまだ足りない。覚悟が足りないのではない。手順が足りない。


精霊との契約には型がある。


その型を、まだ踏んでいない。



外套の人物が動いた。

隙を与えない。ミレイに何かが起きていることを察して、断ち切ろうとしている。


エイドが割り込んだ。


槍を横に構え、体ごとぶつけた。押し返すのではなく、壁になる。


振り返らない。振り返る代わりに、一言だけ。


「……前は俺が持つ」


短い。命令ではない。自分がやることを置いただけだ。


外套の人物がエイドを斬りに来た。刃が空を裂く。音がない。けれど風圧だけが頬を叩く。


エイドは受けた。槍の柄で流し、足を踏ん張る。

リュミエルの光が穂先に沿って伸び、見えない刃の軌道を照らす。


エイドが前を持っている。持っている間に、背後が動く余地がある。



ミレイの手首で、風がまだ絡んでいた。輪になりきれないまま、震えている。


いたちがミレイの足元から顔を上げた。淡い緑の目。


『……ならば、心を一つに』


風が変わった。


さっきまでとは違う。胸の内側ではなく、耳に届く。声ではない。風の形をした意味だ。


いたちが詠い始めた。


――いま、契りを結ぶ。


風が回った。ミレイの髪が揺れた。いたちの尻尾が伸び、風の軌跡が空気に残る。


――我がマナ、汝がマナに。

――汝がマナ、我がマナに。


エイドの背後で、木の葉が一枚だけ浮いた。静けさの幕の中で音が消えているはずの森で、一枚だけが風に乗った。


――風は交わり、息は重なり、名は環となる。


ミレイの手首の風が形を変えた。絡んでいた風が、初めて一つの方向に揃った。


輪に近づいている。あと少し。


――ここに誓う。

――この契りもて結ばれ、互いの命尽くるその時まで。

――理のもとに在りて、離れず、背かず、捨て置かず。


前方で金属が噛み合う音。エイドが押されている。長くは持たない。


――我は汝に、真名の一部を授く。


いたちの目がミレイを見た。淡い緑。まっすぐな目。


――我が名は、スウィフト・ヴェント。


名前が落ちた。


風の中に名前が混じった瞬間、空気の質が変わった。


最後の問い。


『……お前の名を』


ミレイは息を吸った。震えが止まっていた。


「ミレイ・ハルトマン」


声は短い。結論が先。ミレイの口調。


最後の言葉が、いたちの口から風に乗った。


――風よ、駆けよ。汝の道を、共に走ろう。


手首の風が、輪になった。


冷たいのに、芯がある。張りがある。さっきまで絡みかけては離れていた風が、一つの形に定まった。


ミレイは指で輪に触れた。


回っている。細く、速く、安定して回っている。


風の精度が変わった。


さっきまで面で受けるしかできなかった風が、線で操れる。方向を選べる。強さを選べる。


そして――聞こえた。


静けさの幕。音を消していた外套の人物の術。その中で、消されていたはずの音が、薄く戻っている。


風が拾っている。消えた音の残響を、風が拾い上げて耳に届けている。


葉擦れ。虫の声。エイドの息。外套の人物の足が土を踏む音。


全部、聞こえる。


ミレイの目が開いた。


「……聞こえる」


声が自分でも驚くほど静かだった。静かなのに通る。


風を読めるようになった。読むだけじゃない。風が読んだものを、ミレイに教えてくれている。


いたちが肩に飛び乗った。尻尾がミレイの首筋をくすぐる。


『――遅い。走れ。息が遅い』


ミレイは笑った。笑い方が短い。


「うん」


エイドの前で、外套の人物の刃が走った。エイドが槍で逸らす。逸らしきれない。穂先が下がる。


ミレイが手首の輪に意志を通した。


「風よ、立て」


輪がほどけ、目の前に薄い面を作った。

盾ではない。通る線を、横へ逸らす角度だけを作る。


見えない斬撃が、そこで弾かれた。

ぱき、と小さく空気が割れ、切っ先は木の幹を掠めて消える。


前と違う。


前は震えながら受けた。今は、弾く場所を選んでいる。


エイドが一瞬だけ振り返った。目が合った。


振り向かない。それが信頼だと、背中で分かる。


エイドは槍を構え直した。槍の白が細く伸びる。

リュミエルの光がその線に沿って燃える。


エイドが一歩、前へ出る。

ミレイも、同じだけ前へ出る。手首の輪が回っている。


二人の間に、リュミエルの光が通る。


ここから先は、止める。

背中を割らせない。


森の中で、戦いが本当に始まった。

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