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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
30/77

第22章 視線の正体


試験期間も折り返しを過ぎて少し経つと、砦の朝には“変化の匂い”が混じり始めた。

契約を果たした生徒が増えたのだ。


それは派手な歓声ではなく、生活の細部に滲む。


火起こしの場では、薪の隙間に赤い粒がこぼれていた。粒は炎ではない。火種の“気分”だけを持ったまま、湿った木の芯にだけやさしく触れていく。

炊事場の鍋が、昨日より早く鳴った。


水桶のそばでは、小さな渦が“勝手に”回っていた。指を入れた時のような輪が、水面の内側だけでほどけたり結び直されたりする。

渦が回るたび、濁りが寄せ集められて端へ追いやられ、中心の水が澄んでいく。

「君は、分けるのが得意なんだな」

渦は答えず、ただ一度だけ回転を強めて、境目をくっきり作った。


干し布の列では、風が“帯”になって走っていた。

見えないはずの風が、布の端にだけ薄い輪郭を作り、ひらり、ひらりと順番に撫でていく。

帯が通るたび、布は一斉にふくらまない。代わりに、皺だけがほどけ、濡れた部分だけが先に乾く。

「そこ、強すぎ。……端だけ」

囁くと、帯は細く分かれ、布の角をそっと持ち上げた――ぱん、と鳴らさずに、きちんと揃える。


荷ほどきの周りには、石ころが勝手に転がっていた。転がっているのに、ぶつからない。重いはずなのに、音がしない。

それは石そのものではなく、“重さの配分”だけが具現した精霊だった。

肩紐の負担が、気づけば半分になっている。


刃物を使う生徒のところでは、空気が“刃にならない刃”を持っていた。包丁の先に小さな圧が添えられ、切り口が荒れない。

「切るんじゃなくて、整えるのが得意か」

その圧は、肯定するように一拍だけ強くなる。


時おり、音だけがいる。

鈴でも声でもないのに、耳の奥で「ここ」と鳴る。

迷いやすい生徒ほど、その音に救われていた。方向を指すのではなく、足を止める合図。――踏み込む前に、呼吸を戻させる。


契約者たちは皆、会話を重ね、得意を確かめ、嫌がることを避け、できる範囲を伸ばす。

魔法を試しているようで、実は“共に暮らす手つき”を試している。


ただし、明るさは視界を狭めもする。

契約を得た安心は、周りの緊張を薄める。

「戻れる」という感覚が強いほど、「まだ大丈夫だ」と体が決めつける。


だから砦の朝は、静かなのに忙しい。

鍋の音、布の擦れる音、水の鳴りに混じって、見えないはずのやり取りが行き交っている。


――何が得意?

――どこまでできる?

――代わりに何を望む?


エイドは門の脇で、その様子を見ていた。

契約者の表情は明るい。

明るいぶん、いまだ契約ができていない生徒の足取りが重い。

重い足取りほど、森の深さに飲まれやすい。


――エイドの試験は、ここからが本番だ。


エイドは門の脇に立って、出ていく背中を数えていた。

数えるというより、覚える。今日どの方角へ、誰が消えていくのか。戻る流れがどこで交わるのか。迷いがどこに溜まるのか。


その列の中に、意外にもミレイがいた。


荷は軽い。歩幅は迷っていない。

けれど、その迷いのなさが、エイドの胸に引っかかった。森に慣れた者の歩き方ではなく――決めた者の歩き方だ。視線が先に行っていて、足はその後を追っている。


ミレイは門をくぐり、丘へ抜ける道の方角へ歩いていく。

風の抜ける稜線のほう。森を抜けると木々が少し薄くなり、視界が一瞬開く場所。風の気配が濃いといわれている方角。


(……あっちのほうか)


エイドは声をかけなかった。

呼び止める理由がない。

ただ、胸の奥に小さく釘が打たれる感覚だけが残った。理由のない胸騒ぎほど、あとで重くなる。


少し後ろで、リュミエルの光が揺れないまま立っている。見えるまま、隠れないまま。

彼女はエイドの視線の先を追って、短く言った。


「気になる?」

「……うん。でも、気にしたところで、だ」


エイドは門の外へ視線を戻した。

今日も五十人いた生徒も十人近くに減り、一人ずつ森へ沈んでいく。守る側の役目は、特定の誰かに寄りすぎたら崩れる。


分かっている。分かっているのに――視線の釘は抜けない。





ミレイが感じた森の違和感は、音ではなく――気配で来た。


鳥が鳴いているのに小さい。葉が擦れているはずが音がしない。川は遠くでいつも通り鳴るようで大人しい。

胸の奥がざわつく。空気が薄い。温度が一定すぎる。

森が静かになる気がした。


私は歩幅を落とした。


風の気配が、今日は近い。

近いのに、寄ってこない。

いつもなら頬を撫でる程度の揺れが、今日は“身を縮める”みたいに弱い。


(……怯えてる?)


精霊の感情を言い当てるなんて、できるはずがない。

けれど、そう感じた。

見えない何かが息を潜めている。森の中の小さなものが、揃って身を伏せている。草の揺れが止まり、虫の羽音が遠のく。自分の呼吸だけが、森の中で浮く。


その瞬間――短い悲鳴。


鋭く、すぐ途切れる。

声の主が「叫べなかった」音だった。喉を締められたような、途中で切り落とされた声。


ミレイの足が勝手に動いた。

枝が腕を叩き、土を踏みしめて沈む。

走るほど、音が揃っていく。揃っていくほど、気配が薄くなる。

森が隠そうとしている――そんな錯覚が背中を冷やす。


視界が開けた先で、二つの影が対峙していた。


少年が一人。

そして、その向かいに――見知らぬ人物。


外套を纏い、森の色に溶けているのに、存在だけが異物のように浮く。

顔の輪郭は見えるのに、印象が残らない。視線だけが、冷たい。


少年は腕を押さえていた。指の間から赤が滲み、滴が土に落ちる。

出血は多くない。けれど痛みで顔が歪んでいる。

腕の切り口は浅いはずなのに、血が止まりにくい色をしていた。傷の周りが白く冷えている。――刃に何かが混じっている。


見知らぬ人物の手元に、刃がある。短い。振るうための形。

そして、その角度がはっきりと“殺す”を描いていた。


少年の足がわずかに引ける。

引けた分だけ、刃が前へ滑る。

滑るというより、吸い寄せられる。抵抗なく、正確に。


(……なにが起きているの?)


疑問を考える前に、体が答えを出した。

距離を詰める? 少年を引く?

どれも間に合わない。


ミレイは腰の筒を引き抜いた。


閃光玉――打ち上げるんじゃない。


二人の争いの真ん中へ、放り投げた。


小さな球が土を跳ねる。

その跳ねた音が、やけに大きく聞こえた。

次の瞬間、白が弾けた。


光が森の中を照らし、影の輪郭を剥ぎ取る。

木々の間が昼になる。刃の角度が見える。少年の血が見える。相手の目が見える。

両者が、ほんの一拍だけひるんだ。


ひるんだのは光のせいだけじゃない。

“見られる”ことへの反射だ。

相手は見られない場所で終わらせたかった。だから、一拍ぶれる。


その一拍で、ミレイは間に入った。


「逃げて!」


叫ぶと同時に腕を広げ、少年と相手の間に自分の体を置く。

盾になるには細い。けれど刃はまずこちらを通る。通させるしかない。


少年が息を呑んだ。


「で、でも……」

声が震えている。腕を押さえたまま、動けない。


「怪我してるでしょ!」

ミレイは強く言った。強く言わないと、声が自分の足を止める。

「早く行って! すぐ行くから!」

自分の喉が乾く。言った言葉が嘘になる未来を想像する。

それでも言う。言わなければ少年は残る。残れば二人とも死ぬ。

「砦に! 先生に知らせて!」


少年は唇を噛み、震える息のまま一歩下がった。

一歩、二歩。

そして、背を向けて走り出す。血を押さえたまま、足がもつれる。それでも走る。

木々がその背中を飲み込み、視界から消えた。


相手の視線が、その背中を追いかけようとして――ミレイの前で止まる。

ミレイが“ここを通すな”と立っているからだ。


相手の殺気が、少年からミレイへ移った。


空気が変わる。

視線が刺さる場所が変わる。

刃の角度が変わる。


(私を殺す)

(それから追う)


そういう意図が、体の静けさに出る。迷いがない。迷いがないのがいちばん怖い。


相手が一歩踏み込んだ。


その瞬間、ミレイは理解した。

相手は“斬る”のではない。

“触れれば終わる”速度で、間合いの外から殺す。


空気が裂けた。


見えない線が走る。

木の葉が数枚、遅れて落ちる。落ちてから切れているのが分かる。

ミレイの頬に冷たいものが走った。皮膚が薄く擦られ、熱が遅れて滲む。血が一筋、頬を伝う。――まだ、生きてる。


(動け)


命令するのに、体が遅れる。

目の前の刃が現実として迫る。

現実の重さで時間が伸び、伸びた時間の中で、心だけが先に折れそうになる。


相手が突進した。

白い光の残り香を切り裂いて、真っ直ぐに来る。

ミレイは硬直した。足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。

避ける角度が思いつかない。避ける余地がない。避けたら、逃げた少年の背中に線が走る。


――来る。


刃がミレイの喉元へ届く、その瞬間。


風が鳴った。


一度だけ、短く。

音は軽いのに、空気が切れる重さ。


ミレイの前に、影が滑り込む。


――いたち。


顕現したそれは森の色をした、小さな獣の形。

目だけが澄んでいる。

尾がしなる。尾の先が、刃のように空気を撫でる。


かまいたち。


薄い斬撃が走り、相手の斬撃を打ち落とした。

金属が木に当たる鈍い音。

相手の腕がわずかに弾かれ、踏み込みの軸がずれる。

もし軸がずれていなければ、ミレイの首は今、そこにない。


相手が半歩だけ退いた。驚きではない。予想外に対する“修正”の退きだ。


ミレイは息を飲んだ。

理解するより早く、胸の奥の釘が抜けた。


(……ずっと見てたのは、この子?)


夜に感じた風。

距離を保って、寄ってこなかった風。

頬を撫でるだけで、何もくれなかった風。


それは臆病だからじゃない。

観察していた。

危険を測っていた。

そして――今、選んだ。


いたちの精霊はミレイの足元に立ち、背中を向ける。

背中を向けるのは信頼じゃない。

“守る側の立ち方”だ。


森の小さな気配たちが、まだ怯えている。

見えないものが、まだ身を縮めている。

それを守りたい気持ちが、ミレイの胸の中で一つにまとまる。


(お願い)


息が震える。震えたまま、ミレイは口を開いた。


「……力を、貸して」


叫びじゃない。命令でもない。

祈りに近い、でも祈りで終わらせない声。


いたちの精霊が、ふっと耳を動かした。

返事は言葉じゃない。

風が一筋、ミレイの背中を押す。


ミレイは一歩、前へ出た。

逃げない。

守る。

そのために、戦う。


そして胸の中で、言葉にならない声を投げる。


――誰か、助けてっ。




その頃。


エイドは帰還の流れが集まりやすい地点を巡っていた。

足音の重さを拾い、息の乱れを拾い、迷いそうな匂いを拾う。

遅れそうな者の横に並び、歩調を合わせ、無理に急かさずに戻らせる。


森の端に、リュミエルの光があった。

見えるまま、静かに。

静かなままなのに、気配だけがわずかに尖っている。


「……なにか来る」


リュミエルが言った。


次の瞬間、光が森に刺さった。

木々の中、影の奥、遠い場所。

それでもはっきり見える閃光――一発。


エイドの体が先に動いた。

動いたのに、足が止まりかける。


(どこだ)


教師たちも見ている。監視塔も動くだろう。

エイドだって、走ればいい。走って、救難の“穴”を埋めればいい。


――そのとき、もう一度。


別の角度から、光が刺さった。


二発目。

一発目の近く。でも、さっきより少し高い。少し急いだ光。

合図が重なるということは、“単発の迷子”じゃない。

誰かに危機が迫っている。

あるいは、誰かが誰かから逃げている。


喉の奥が乾く。


二発の方角が、朝の光景と重なる。


森へ抜ける道。風の抜ける稜線。

ミレイが消えていった、あの方角。


断定できない。

断定できないのに、嫌な予感が形になる。

理屈より早い。理屈より正しい時がある。


「……二発」

エイドが呟くと、リュミエルの光がわずかに強くなった。


「嫌な予感だね」

「……うん」


エイドは息を吸い、吐いた。

そして槍を手に、走る。


いつもの“救難の走り”とは違った。

遅れそうな誰かを追うときの走りでもない。

点呼に間に合わせるための走りでもない。


――間に合わなかったら、嫌だ。

――誰かの命が、ここで途切れるのは嫌だ。


その意思が、足を軽くする。


手の中にある槍が震えた。


ただの金属が鳴く音じゃない。槍がランスへと変化する。

柄の奥で、光が目を覚ます音だ。

リュミエルの気配が背中から押し出されるように強くなる。

槍の金の小錠のひとつが、音もなく“ほどける”。


「……急がなきゃ」


リュミエルの声は、すぐ隣ではなく、胸の内側から聞こえた。

見えるまま走っているのに、足が地面を蹴っていない。

光が、エイドの槍へ沿って流れ込む。


槍の輪郭が変わる。

金属の線の上に、もう一本の線が重なる。白い、細い、鋭い線。

ただの武器じゃない。“走る”ための道だ。


エイドはランスを握り直した。


思考がまっすぐになり、胸がさらに冷える。

嫌な想像が、想像のまま止まらない。


次の瞬間、視界が変わった。


森の起伏が地図みたいに立ち上がる。

枝の位置、地面の湿り、踏める石、踏めない苔。

情報が一気に流れ込む。怖いほどに。


「……加速」


言葉が漏れた。

“森の中を無理に駆ける”ための魔法。

けれど今は救難だ。今は、間に合わなければならない。


エイドは踏み込んだ。


一歩で距離が伸びる。二歩で景色が飛ぶ。

森の音が遅れて追いついてくる。

速い。速すぎる。けれど止まれない。


(……待っててくれ)


願いは祈りじゃない。

走るための燃料だ。


エイドは二つの閃光の方向へ、森を裂くように駆けた。

その背中で、リュミエルの光がランスに沿って燃えていた。

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