第3章 街の朝と少年
朝の鐘が鳴る前から、リーベの街は動いていた。
港では荷が下ろされ、市場では天幕が広げられ、石畳の上を仕事へ向かう足音が行き交う。
交易都市にとって、朝は準備の時間だ。
誰もが急ぎ、誰もが立ち止まらない。立ち止まった瞬間に、流れに置いていかれる。
その流れの中に、少年もいた。
エイド・マーマンは肩に鞄を掛け、魔法学校へ続く通りを歩いていた。
十五歳の普通の少年だ。こげ茶の短い髪で、目は暗い灰色に近い。手入れの行き届いた学生服と、使い込んだ革の鞄を持っている。
校門が近づくにつれ、同じ年頃の声が自然と耳に入ってくる。
「聞いたか? 光の精霊の噂」
「またその話かよ」
エイドは足を止めずに、耳だけを向けた。
「夜道が明るくなったってやつだろ」
「壊れてた街灯が点いたとか」
「低位精霊じゃないの?」
「いや、中位だって言ってるやつもいる」
校門をくぐるまでの短い時間。確かめようもなく、責任も伴わない、いつもの噂話だ。だからこそ言葉は軽い。軽いまま遠くへ飛ぶ。
「最初の契約が中位って、夢あるよな」
誰かが笑った。
エイドはほんの一瞬だけ視線を落とした。胸の奥が、わずかに重くなる。
楽をしたくないわけじゃない。力が欲しくないわけでもない。
けれど――その言い方が、どこか引っかかった。
精霊は、道具ではない。商品でもない。
そう教わってきた。だが街の空気は、いつもその先へ進む。「引けば勝ち」「契約は近道」――そんな言葉が街の空気としてまとわりつく。
教室に入ると、まだ授業前のざわめきが残っていた。席につく生徒。鞄を放り出す生徒。
さっきの噂話の続きをする声。エイドも席に着き、鞄を足元に置く。
隣ではミレイ・ハルトマンがノートを取り出していた。
ミレイはエイドと同い年くらいの少女だ。明るい茶色の髪を短めに整え、制服はいつもきちんとしている。
「おはよう、エイド」
「おはよう」
「さっきの噂、聞こえてた?」
「うん。どこもその話でもちきりだった」
ミレイは肩をすくめる。
「中位だの高位だの、簡単に口にするよね。精霊は格が上がるほど、簡単に人の都合には寄らないのに」
「……だよね」
エイドは少し間を置いて言った。
「契約したいとかじゃなくてさ。話を聞いてみたい、とは思う」
ミレイが意外そうに眉を上げる。
「聞く、って……契約なしで?」
「うん」
自分でも不思議だった。契約を目的にしないくせに、精霊のことを知りたい。近づきたい。矛盾している。
それでも胸のどこかが、これは間違いじゃない、と言っている。
そのとき、教室の扉が開いた。
「そこまでだ」
低く、落ち着いた声。魔法学校の教師、ローガン・フェルディナントが入ってくる。
ローガンは三十代後半の男性教師だ。黒髪を短く刈り、顎には薄い無精ひげがある。
「授業を始める。噂話は終わりだ」
生徒たちが慌てて姿勢を正す。ローガンは黒板の前に立ち、淡々と告げた。
「精霊は便利な力じゃない。契約は報酬でも近道でもない」
「理解しないまま使おうとするな。それは魔法じゃない。ただの消費だ」
視線が教室を一巡する。怒りではない。期待を許さない目だった。
「卒業試験で見るのは、夢の大きさじゃない。1人前になるまでの距離だ」
一拍、間を置く。
そして、軍人みたいに言葉を切った。
「踏み込むな。焦ったら退け。――それが生き残る技術だ」
エイドは黙って受け取った。胸の奥の引っかかりが、輪郭を持つ。自分が嫌だったのは、きっとそこだ。
昼前、野外訓練場。
石と土の匂いが濃い場所で、精霊たちは――そこにいる。確かに“見える”。
けれど、見ようとしなければ、視界の端でただの揺らぎになる。忙しい街の人間が気づかないのは、存在しないからじゃない。意識の外に追いやられているだけだ。
土の低位精霊は砂粒みたいに地面近くを漂い、風の低位精霊は薄い帯になって空気をなでる。光の低位精霊は小さな欠片のように影を薄め、火の低位精霊は石の表面をぬるくする。
どれも小さく、害もない。だからこそ、見落とされる。
ローガンは生徒たちを集め、短く言った。
「今日は観測だ。むやみに呼ぶな」
「見ろ。感じろ。先に身体で覚えろ」
観測。地味で、退屈で、だけど事故を減らすための訓練。
エイドは目を閉じ、意識を向けた。呼吸を落とし、音を遠ざけ、頭の中の言葉を静かにする。
すぐに、曖昧な感触が返ってくる。
さっきまで“見えていた”精霊が、別の輪郭を持ち始める。土は重く、風は軽い。光は薄い膜のように、火はじわりと熱を持つ。視覚だけでは足りない情報が、身体の内側で分かれていく。
けれど、その奥で。
ほんの一瞬、別の気配が触れた。
柔らかい。遠い。
それでいて、なぜか落ち着く焚火のような灯り。
胸の奥が微かにざわついて、次に、ふっと軽くなる。
――今は、来ちゃだめ。
そう言われた気がした。
声ではない。命令でもない。
ただ、迷子の肩をそっと戻すみたいに、道を示す感触。
エイドは目を開けた。
低位精霊は何事もなかったように漂っている。周囲の生徒たちも、観測のふりをして集中しているだけだ。
「……なんだ、今の」
口に出しそうになって、飲み込む。まだ確証がない。確証もないのに言葉にすれば、それは噂になる。噂は軽い。軽いまま、人を動かす。
それでも違和感は残った。
誰かに見られているような感覚。敵意はない。拒絶でもない。視線というより、気配に近い。こちらを測るでもなく、ただ距離を保っている。
屋根の上で、リュミエルは静かに距離を取った。
まだ、応える時ではない。
あなたの場所は、そこ。
私の場所は、少し違う。
そう判断し、彼女は光を揺らさない。
けれど確かに――少年は、こちらを向きかけていた。
世界が動き始めていることを、エイドはまだ知らない。
それでも――光と少年の距離は、確かに縮まり始めていた。




