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光の呼び名  作者: アルエル
序章
3/30

第3章 街の朝と少年

朝の鐘が鳴る前から、リーベの街は動いていた。

港では荷が下ろされ、市場では天幕が広げられ、石畳の上を仕事へ向かう足音が行き交う。


交易都市にとって、朝は準備の時間だ。

誰もが急ぎ、誰もが立ち止まらない。立ち止まった瞬間に、流れに置いていかれる。


その流れの中に、少年もいた。


エイド・マーマンは肩に鞄を掛け、魔法学校へ続く通りを歩いていた。


十五歳の普通の少年だ。こげ茶の短い髪で、目は暗い灰色に近い。手入れの行き届いた学生服と、使い込んだ革の鞄を持っている。


校門が近づくにつれ、同じ年頃の声が自然と耳に入ってくる。


「聞いたか? 光の精霊の噂」

「またその話かよ」


エイドは足を止めずに、耳だけを向けた。


「夜道が明るくなったってやつだろ」

「壊れてた街灯が点いたとか」

「低位精霊じゃないの?」

「いや、中位だって言ってるやつもいる」


校門をくぐるまでの短い時間。確かめようもなく、責任も伴わない、いつもの噂話だ。だからこそ言葉は軽い。軽いまま遠くへ飛ぶ。


「最初の契約が中位って、夢あるよな」


誰かが笑った。

エイドはほんの一瞬だけ視線を落とした。胸の奥が、わずかに重くなる。


楽をしたくないわけじゃない。力が欲しくないわけでもない。

けれど――その言い方が、どこか引っかかった。


精霊は、道具ではない。商品でもない。

そう教わってきた。だが街の空気は、いつもその先へ進む。「引けば勝ち」「契約は近道」――そんな言葉が街の空気としてまとわりつく。


教室に入ると、まだ授業前のざわめきが残っていた。席につく生徒。鞄を放り出す生徒。

さっきの噂話の続きをする声。エイドも席に着き、鞄を足元に置く。


隣ではミレイ・ハルトマンがノートを取り出していた。


ミレイはエイドと同い年くらいの少女だ。明るい茶色の髪を短めに整え、制服はいつもきちんとしている。


「おはよう、エイド」

「おはよう」


「さっきの噂、聞こえてた?」

「うん。どこもその話でもちきりだった」


ミレイは肩をすくめる。


「中位だの高位だの、簡単に口にするよね。精霊は格が上がるほど、簡単に人の都合には寄らないのに」

「……だよね」


エイドは少し間を置いて言った。


「契約したいとかじゃなくてさ。話を聞いてみたい、とは思う」

ミレイが意外そうに眉を上げる。


「聞く、って……契約なしで?」

「うん」


自分でも不思議だった。契約を目的にしないくせに、精霊のことを知りたい。近づきたい。矛盾している。

それでも胸のどこかが、これは間違いじゃない、と言っている。


そのとき、教室の扉が開いた。


「そこまでだ」


低く、落ち着いた声。魔法学校の教師、ローガン・フェルディナントが入ってくる。


ローガンは三十代後半の男性教師だ。黒髪を短く刈り、顎には薄い無精ひげがある。


「授業を始める。噂話は終わりだ」


生徒たちが慌てて姿勢を正す。ローガンは黒板の前に立ち、淡々と告げた。


「精霊は便利な力じゃない。契約は報酬でも近道でもない」

「理解しないまま使おうとするな。それは魔法じゃない。ただの消費だ」


視線が教室を一巡する。怒りではない。期待を許さない目だった。


「卒業試験で見るのは、夢の大きさじゃない。1人前になるまでの距離だ」


一拍、間を置く。

そして、軍人みたいに言葉を切った。


「踏み込むな。焦ったら退け。――それが生き残る技術だ」


エイドは黙って受け取った。胸の奥の引っかかりが、輪郭を持つ。自分が嫌だったのは、きっとそこだ。


昼前、野外訓練場。

石と土の匂いが濃い場所で、精霊たちは――そこにいる。確かに“見える”。

けれど、見ようとしなければ、視界の端でただの揺らぎになる。忙しい街の人間が気づかないのは、存在しないからじゃない。意識の外に追いやられているだけだ。


土の低位精霊は砂粒みたいに地面近くを漂い、風の低位精霊は薄い帯になって空気をなでる。光の低位精霊は小さな欠片のように影を薄め、火の低位精霊は石の表面をぬるくする。

どれも小さく、害もない。だからこそ、見落とされる。


ローガンは生徒たちを集め、短く言った。


「今日は観測だ。むやみに呼ぶな」

「見ろ。感じろ。先に身体で覚えろ」


観測。地味で、退屈で、だけど事故を減らすための訓練。

エイドは目を閉じ、意識を向けた。呼吸を落とし、音を遠ざけ、頭の中の言葉を静かにする。


すぐに、曖昧な感触が返ってくる。

さっきまで“見えていた”精霊が、別の輪郭を持ち始める。土は重く、風は軽い。光は薄い膜のように、火はじわりと熱を持つ。視覚だけでは足りない情報が、身体の内側で分かれていく。


けれど、その奥で。


ほんの一瞬、別の気配が触れた。


柔らかい。遠い。

それでいて、なぜか落ち着く焚火のような灯り。

胸の奥が微かにざわついて、次に、ふっと軽くなる。


――今は、来ちゃだめ。


そう言われた気がした。

声ではない。命令でもない。

ただ、迷子の肩をそっと戻すみたいに、道を示す感触。


エイドは目を開けた。

低位精霊は何事もなかったように漂っている。周囲の生徒たちも、観測のふりをして集中しているだけだ。


「……なんだ、今の」


口に出しそうになって、飲み込む。まだ確証がない。確証もないのに言葉にすれば、それは噂になる。噂は軽い。軽いまま、人を動かす。


それでも違和感は残った。

誰かに見られているような感覚。敵意はない。拒絶でもない。視線というより、気配に近い。こちらを測るでもなく、ただ距離を保っている。


屋根の上で、リュミエルは静かに距離を取った。

まだ、応える時ではない。


あなたの場所は、そこ。

私の場所は、少し違う。


そう判断し、彼女は光を揺らさない。

けれど確かに――少年は、こちらを向きかけていた。


世界が動き始めていることを、エイドはまだ知らない。

それでも――光と少年の距離は、確かに縮まり始めていた。


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