第21章 光が上がった日
森に慣れる、というのは。
森を侮る準備を整えることにも似ている。
二週間が過ぎ、砦の生活は歯車のように回っていた。
朝、門が開く。
昼、鍋が煮える。
夕方、戻る足音が増える。
日没、点呼で名前が揃う。
同じ形が続くと、人は"次も同じ"だと思ってしまう。
その思い込みが、一番危ない。
その日、空は薄曇りだった。
木々の上の光が鈍く、森の影がいつもより早く濃くなる。
日没が近いわけじゃないのに、夕方の匂いが混じっている。
ミレイはひとり、森を歩いていた。
風の気配が、今日は遠い。近づいてくるというより、一定の距離を保ってついてくる。
見られている感覚は消えないのに、手を伸ばしてくる気配がない。
(……試してる?)
試されるのは嫌いじゃない。
嫌いなのは、試されているのに何もできない自分だ。
ミレイは足を止めて、耳を澄ませた。
鳥の声。葉の擦れる音。遠い川の音。
そのどれかが欠けたら、すぐ気づけるように。
*
――欠けた。
森の音が欠けたというより、"声"が混じった。
細い声。喉が詰まった声。助けを呼びたいのに呼べない声。
エイドは走った。
道を外す。枝が腕に当たる。土が柔らかく沈む。
走りながら、頭の中で線を引く。ここから砦まで、どれくらい。日没まで、どれくらい。
そして腰の筒――閃光玉の位置。
木々の間を抜けた先に、人影があった。
少女が一人、木の根元に座り込んでいる。顔が青い。
片足を抱え、歯を食いしばっている。
近くの土が抉れ、滑った跡がある。斜面で足を取られたのだろう。
「……大丈夫か?」
エイドが声をかけると、少女は顔を上げた。涙が滲んでいる。滲んでいるのに、泣いてはいない。泣く余裕を自分で押し殺している顔だ。
「だ、だいじょうぶ……」
「大丈夫じゃない。足、捻った?」
「……ちょっと、だけ……」
"ちょっと"が嘘だと分かる。足首の角度が不自然だ。
エイドは膝をついて、距離を詰めすぎないように手を出した。
触れる前に、確認する。
「動かすと痛いか?」
「……痛い」
「歩けそう?」
少女は唇を噛んだ。答えが出ない。
答えが出ないのが答えだった。
エイドは周囲を見回す。
ここは川から少し外れた斜面。木々が多く、視界が狭い。
戻る道はあるが、少女を支えながらでは時間がかかる。
日没が近づくほど、森は黒くなる。
黒くなるほど、足元は滑る。
滑れば、怪我が増える。
「……閃光玉、使おう」
エイドが言うと、少女の目が揺れた。
「え……」
「点呼に間に合わない。先生を呼ぶしかない」
「でも……」
少女の手が腰の筒へ伸びて、止まる。
その止まり方が、痛い。
痛いのは足じゃない。胸の奥のほうだ。
「でも、ってどうした?」
エイドが訊くと、少女は目を伏せた。
「……使ったら、卒業できないって」
「誰が言ったんだ?」
「……みんな、そういう……」
「みんな」に顔はない。顔がないのに、ローガンの言葉より近くに立っている。
誰が最初に言ったのか。街から来た声。親に聞いた声。顔がないように作られた声だ。
噂に顔はない。
だから怖い。
顔がないから、否定しづらい。
エイドは息を吐き、言い切った。
「卒業より命が先だろ」
「……あなたはもういるから……そんなこと言えるのかもしれないけど……」
「そんなこと言ってる場合か」
「でも光を嫌がるって……」
その言葉の奥に、あの炊事場の男の影がちらつく。
「最後の最後だ」
「生きてりゃ分かる」
その"現場の言葉"が、いま少女の手を止めている。
エイドは迷わなかった。
迷う余地がない。
少女の腰の筒から閃光玉を抜き取るわけにはいかない。そんなことをしたら、少女は自分で決められなくなる。
だから、目を合わせたまま言う。
「今、決めなくちゃいけない」
「……」
「君が生きて帰るために、光を上げよう」
少女の唇が震えた。
震えが止まらない。
少女は、ようやく筒を握り直した。
握った指が白くなる。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
「……でも……」
最後の"でも"は、声にならなかった。
代わりに、少女は閃光玉を地面へ叩きつけた。
光が弾けた。
白い閃光が、木々の影を一瞬だけ消し去る。
森の上に、昼が刺さる。
音のない叫びが空へ駆け上がっていく。
エイドは目を細めながら、少女の肩へ手を置いた。
「よし、これで大丈夫だよ」
それだけ言う。
光は、すぐに薄れる。
薄れたあと、森がざわめいた。
葉が一斉に擦れる音。
鳥が飛び立つ音。
水の音が一段深くなる。
そして――精霊の気配が、散る。
散る、というのが正しいのか分からない。
ただ、近くにあった薄い気配が、ひゅっと遠のく感覚がある。
空気が冷える。
少女が息を呑む。
「……ほら……」
「違うよ」
エイドはすぐに言った。
「すぐにみんな戻ってくるよ。今はそれより、助けが来る」
本当に"違う"のかどうか、エイドには分からない。
分からないけれど、分からないことを少女に背負わせるわけにはいかない。
「見て」
エイドは空を指した。
光の残り香が、木々の上へ溶けていく。
砦から見える。監視塔から見える。必ず誰かが動く。
少女は唇を噛み、涙をこぼした。
「……私、卒業できないのかな」
エイドは一度、少女の顔を見た。
目を逸らさないで言う。
「できる。生きて帰れば」
「……」
「生きて帰れなかったら、卒業も何もない」
遠くから足音が来た。
枝を踏む音。呼び声。複数。
先に現れたのはローガン先生だった。
駆け寄り、状況を一目で判断する。
「足首か。折れてるな。固定する」
手早い。無駄がない。
二人目が周囲を警戒し、三人目が少女の荷をまとめる。
エイドは一歩引いた。
自分の出番はここまでだ。
出番を引けるのも、守りのうちだ。
ローガン先生が少女に言う。
「よく光を上げた。君の判断は正しい」
その言葉に、少女の肩が少しだけ下がった。
先生の言葉は正しい。制度も正しい。減点にならないと、確かに言われた。
……でも。
エイドは背中に、ざわりとしたものを感じた。
ローガン先生の言葉が正しい。正しいのに、正しい言葉は疑念をすぐには消さない。
噂は、正しさより空気に強い。
教師たちが少女を担架に乗せ、砦へ向かう。
エイドも後ろにつく。
その途中、森の匂いがまた変わった。
さっき散ったはずの精霊の気配が、戻らない。
戻らないどころか、さらに遠い。
まるで「ここは違う」と告げるみたいに。
砦へ戻ると、炊事場が忙しかった。
鍋の湯気。器の音。薪の割れる音。
いつもと同じ夜の準備。いつもと同じ匂い。
それが、さっきの光とざわめきを"なかったこと"にしそうで、怖い。
少女は医療用の幕へ運ばれた。
エイドはその入口まで見送り、足を止めた。
胸の奥に残るのは、安堵じゃない。
安堵の皮を被った不安だ。
背後で、雑務職員の男の声がした。
「おい、そこ。器、落とすな」
怒鳴り声。いつも通り。
いつも通りの声のまま、男は鍋をかき回している。
エイドは通り過ぎようとして――男の独り言を聞いた。
「……あの子は、もう卒業できねえな」
言葉は小さい。
誰に向けたでもない。
ただ、口から漏れたみたいに。
エイドは足を止めた。
振り返ると、男は何も言っていない顔で鍋をかき回していた。
誰かが「え?」と聞き返しかける。
男はそれを切り捨てるように言う。
「独り言だ。飯、並べろ」
それで終わりだ。
終わりなのに、その一言は残る。
残って、広がる。
制度は「減点にならない」と言う。あの男は「もう卒業できねえ」と言う。
どちらが先に体に入るか。答えは分かっている。
エイドは唇を噛んだ。
(……なんだ?この違和感)
何が、違和感なのか。
自分の中で答えが形にならない。
形にならないものほど、怖い。
天幕へ戻る途中、数人の生徒が小声で話しているのが聞こえた。
「今日、光上がったよね」
「うん……」
「やっぱ、ダメなんじゃない?」
「精霊、散ったって……」
誰も少女を責めてはいない。
責めてはいないのに、空気は責める形になる。
"使った"ことが印になる。
エイドはその輪に入らなかった。
入ったら言い返してしまう。言い返したら、空気が硬くなる。
硬くなった空気は、もっと危ない。
自分の天幕に戻り、腰の筒を握った。
閃光玉はまだある。
あるのに、さっきの光が瞼の裏に焼き付いている。
(迷うな)
エイドは自分に言い聞かせる。
迷うのは、助けを遅らせる。
助けたいなら、迷うな。
砦の外で、風が一度だけ止んだ。
止んだことが、はっきり分かった。
そして、ほんの少しだけ――風が笑った気がした。
閃光は消えた。少女は生きている。
けれど煙は残る。森の奥で、人を割らせにきた何かがまだ動いている。




