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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
29/77

第21章 光が上がった日

森に慣れる、というのは。

森を侮る準備を整えることにも似ている。


二週間が過ぎ、砦の生活は歯車のように回っていた。

朝、門が開く。

昼、鍋が煮える。

夕方、戻る足音が増える。

日没、点呼で名前が揃う。


同じ形が続くと、人は"次も同じ"だと思ってしまう。

その思い込みが、一番危ない。


その日、空は薄曇りだった。

木々の上の光が鈍く、森の影がいつもより早く濃くなる。

日没が近いわけじゃないのに、夕方の匂いが混じっている。


ミレイはひとり、森を歩いていた。

風の気配が、今日は遠い。近づいてくるというより、一定の距離を保ってついてくる。

見られている感覚は消えないのに、手を伸ばしてくる気配がない。


(……試してる?)


試されるのは嫌いじゃない。

嫌いなのは、試されているのに何もできない自分だ。


ミレイは足を止めて、耳を澄ませた。

鳥の声。葉の擦れる音。遠い川の音。

そのどれかが欠けたら、すぐ気づけるように。



――欠けた。


森の音が欠けたというより、"声"が混じった。

細い声。喉が詰まった声。助けを呼びたいのに呼べない声。


エイドは走った。


道を外す。枝が腕に当たる。土が柔らかく沈む。

走りながら、頭の中で線を引く。ここから砦まで、どれくらい。日没まで、どれくらい。

そして腰の筒――閃光玉の位置。


木々の間を抜けた先に、人影があった。


少女が一人、木の根元に座り込んでいる。顔が青い。

片足を抱え、歯を食いしばっている。

近くの土が抉れ、滑った跡がある。斜面で足を取られたのだろう。


「……大丈夫か?」

エイドが声をかけると、少女は顔を上げた。涙が滲んでいる。滲んでいるのに、泣いてはいない。泣く余裕を自分で押し殺している顔だ。


「だ、だいじょうぶ……」

「大丈夫じゃない。足、捻った?」

「……ちょっと、だけ……」


"ちょっと"が嘘だと分かる。足首の角度が不自然だ。


エイドは膝をついて、距離を詰めすぎないように手を出した。

触れる前に、確認する。


「動かすと痛いか?」

「……痛い」

「歩けそう?」

少女は唇を噛んだ。答えが出ない。

答えが出ないのが答えだった。


エイドは周囲を見回す。

ここは川から少し外れた斜面。木々が多く、視界が狭い。

戻る道はあるが、少女を支えながらでは時間がかかる。


日没が近づくほど、森は黒くなる。

黒くなるほど、足元は滑る。

滑れば、怪我が増える。


「……閃光玉、使おう」

エイドが言うと、少女の目が揺れた。


「え……」

「点呼に間に合わない。先生を呼ぶしかない」

「でも……」


少女の手が腰の筒へ伸びて、止まる。

その止まり方が、痛い。

痛いのは足じゃない。胸の奥のほうだ。


「でも、ってどうした?」

エイドが訊くと、少女は目を伏せた。


「……使ったら、卒業できないって」

「誰が言ったんだ?」

「……みんな、そういう……」


「みんな」に顔はない。顔がないのに、ローガンの言葉より近くに立っている。

誰が最初に言ったのか。街から来た声。親に聞いた声。顔がないように作られた声だ。


噂に顔はない。

だから怖い。

顔がないから、否定しづらい。


エイドは息を吐き、言い切った。


「卒業より命が先だろ」

「……あなたはもういるから……そんなこと言えるのかもしれないけど……」

「そんなこと言ってる場合か」

「でも光を嫌がるって……」


その言葉の奥に、あの炊事場の男の影がちらつく。

「最後の最後だ」

「生きてりゃ分かる」

その"現場の言葉"が、いま少女の手を止めている。


エイドは迷わなかった。

迷う余地がない。


少女の腰の筒から閃光玉を抜き取るわけにはいかない。そんなことをしたら、少女は自分で決められなくなる。

だから、目を合わせたまま言う。


「今、決めなくちゃいけない」

「……」

「君が生きて帰るために、光を上げよう」


少女の唇が震えた。

震えが止まらない。

少女は、ようやく筒を握り直した。

握った指が白くなる。


「……ごめん」

「謝らなくていいよ」

「……でも……」


最後の"でも"は、声にならなかった。

代わりに、少女は閃光玉を地面へ叩きつけた。


光が弾けた。


白い閃光が、木々の影を一瞬だけ消し去る。

森の上に、昼が刺さる。

音のない叫びが空へ駆け上がっていく。


エイドは目を細めながら、少女の肩へ手を置いた。


「よし、これで大丈夫だよ」

それだけ言う。


光は、すぐに薄れる。

薄れたあと、森がざわめいた。


葉が一斉に擦れる音。

鳥が飛び立つ音。

水の音が一段深くなる。

そして――精霊の気配が、散る。


散る、というのが正しいのか分からない。

ただ、近くにあった薄い気配が、ひゅっと遠のく感覚がある。

空気が冷える。


少女が息を呑む。


「……ほら……」

「違うよ」

エイドはすぐに言った。

「すぐにみんな戻ってくるよ。今はそれより、助けが来る」


本当に"違う"のかどうか、エイドには分からない。

分からないけれど、分からないことを少女に背負わせるわけにはいかない。


「見て」

エイドは空を指した。

光の残り香が、木々の上へ溶けていく。

砦から見える。監視塔から見える。必ず誰かが動く。


少女は唇を噛み、涙をこぼした。

「……私、卒業できないのかな」

エイドは一度、少女の顔を見た。

目を逸らさないで言う。


「できる。生きて帰れば」

「……」

「生きて帰れなかったら、卒業も何もない」


遠くから足音が来た。

枝を踏む音。呼び声。複数。


先に現れたのはローガン先生だった。

駆け寄り、状況を一目で判断する。


「足首か。折れてるな。固定する」

手早い。無駄がない。

二人目が周囲を警戒し、三人目が少女の荷をまとめる。


エイドは一歩引いた。

自分の出番はここまでだ。

出番を引けるのも、守りのうちだ。


ローガン先生が少女に言う。


「よく光を上げた。君の判断は正しい」

その言葉に、少女の肩が少しだけ下がった。

先生の言葉は正しい。制度も正しい。減点にならないと、確かに言われた。


……でも。


エイドは背中に、ざわりとしたものを感じた。

ローガン先生の言葉が正しい。正しいのに、正しい言葉は疑念をすぐには消さない。

噂は、正しさより空気に強い。


教師たちが少女を担架に乗せ、砦へ向かう。

エイドも後ろにつく。

その途中、森の匂いがまた変わった。


さっき散ったはずの精霊の気配が、戻らない。

戻らないどころか、さらに遠い。

まるで「ここは違う」と告げるみたいに。


砦へ戻ると、炊事場が忙しかった。

鍋の湯気。器の音。薪の割れる音。

いつもと同じ夜の準備。いつもと同じ匂い。

それが、さっきの光とざわめきを"なかったこと"にしそうで、怖い。


少女は医療用の幕へ運ばれた。

エイドはその入口まで見送り、足を止めた。

胸の奥に残るのは、安堵じゃない。

安堵の皮を被った不安だ。


背後で、雑務職員の男の声がした。


「おい、そこ。器、落とすな」


怒鳴り声。いつも通り。

いつも通りの声のまま、男は鍋をかき回している。

エイドは通り過ぎようとして――男の独り言を聞いた。


「……あの子は、もう卒業できねえな」


言葉は小さい。

誰に向けたでもない。

ただ、口から漏れたみたいに。


エイドは足を止めた。

振り返ると、男は何も言っていない顔で鍋をかき回していた。

誰かが「え?」と聞き返しかける。

男はそれを切り捨てるように言う。


「独り言だ。飯、並べろ」


それで終わりだ。

終わりなのに、その一言は残る。

残って、広がる。

制度は「減点にならない」と言う。あの男は「もう卒業できねえ」と言う。

どちらが先に体に入るか。答えは分かっている。


エイドは唇を噛んだ。


(……なんだ?この違和感)


何が、違和感なのか。

自分の中で答えが形にならない。

形にならないものほど、怖い。


天幕へ戻る途中、数人の生徒が小声で話しているのが聞こえた。


「今日、光上がったよね」

「うん……」

「やっぱ、ダメなんじゃない?」

「精霊、散ったって……」


誰も少女を責めてはいない。

責めてはいないのに、空気は責める形になる。

"使った"ことが印になる。


エイドはその輪に入らなかった。

入ったら言い返してしまう。言い返したら、空気が硬くなる。

硬くなった空気は、もっと危ない。


自分の天幕に戻り、腰の筒を握った。

閃光玉はまだある。

あるのに、さっきの光が瞼の裏に焼き付いている。


(迷うな)


エイドは自分に言い聞かせる。

迷うのは、助けを遅らせる。

助けたいなら、迷うな。


砦の外で、風が一度だけ止んだ。

止んだことが、はっきり分かった。

そして、ほんの少しだけ――風が笑った気がした。


閃光は消えた。少女は生きている。

けれど煙は残る。森の奥で、人を割らせにきた何かがまだ動いている。

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