第13章 解錠
朝の光は、寮の窓からまっすぐ差し込んでいた。
夏の匂いがする。木の乾いた匂いと、遠い港の潮の匂い。風が薄く動いている。
昨夜、リュミエルから聞いた言葉が、頭の隅に残っていた。
魔力武器。
契約精霊が、自分の魔力を“形”として引き出すもの。鍛冶も工房もいらない。物質ではない。けれど、手の中に確かな重さとして残る――そういうもの。
寝る前に理解したつもりでも、朝になると現実味が増す。
現実味が増すと、考えが散りやすい。エイドはそれを自覚している。
だから今日は、順番を決めた。
強くなりたい、とか、勝ちたい、とか、そういう言葉を先に置かない。
自分が何をしたいのか。
何ができるのか。
あの契約の夜に、何を願ったのか。
それだけを、ひとつずつ並べる。
地下修練場は冷たかった。石の匂いが濃い。
許可制になってから、扉の開閉も、教師の出入りも、以前より静かになった。人の気配が減ったぶん、空間が広く感じる。
訓練はいつも通りだ。
ローガン先生は余計な言葉を足さない。体で示して、体で直させる。槍の扱いは、足の置き方と立ち位置が先に来る。腕は後だ。
終わるころには、腕より足が重くなる。
汗が落ちる前に息が整っている。動きが整ってきた証拠でもある。
「今日はここまでだ」
「はい。ありがとうございました」
礼をして、いつもならそのまま戻る。
けれど今日は、エイドは残った。
木槍はすでに戻してある。
修練場に残っていいのは、武器を振り回すためじゃない。頭を整えるためだ。誰もいない時間に、ひとりで考えをまとめるため。
エイドは壁際に腰を下ろし、目を閉じた。
呼吸を落とす。胸の奥のざわつきを小さくする。
――何をしたい。
浮かぶのは、派手な勝利じゃない。
光を大きくして街を白く塗ることでもない。
早く動きたい。
間に合いたい。
誰かが怯える前に、前へ出たい。
守る、という言葉は簡単だ。
簡単すぎるから、いつも曖昧になる。
守るために、何をするのか。
守るために、どこまで踏み込むのか。
エイドは、契約の夜を思い出した。
光が濃くなり、周囲の息が止まり、自分だけが静かになった瞬間。
あのとき自分が願ったのは、世界を変えることじゃない。
誰かの前に出ることだ。
――助けたい。
声には出さず、心の中でだけ確かめる。
助けるために必要なのは、速さだ。走る速さ。踏み込む速さ。判断する速さ。
ただ速いだけじゃ足りない。
速さは、目的が揃っていないと散る。
だから、形が欲しい。
槍がいい。槍が馴染む。
木槍の感触が手の中に残っている。長さ、重心、突く角度。足で距離を作る感覚。槍は、立ち位置を作る武器だ。
その槍に、光を組み込む。
眩しさで押すのではなく、狙ったところへ届かせる。届いて、通して、断つ。
そういう光。
そこまで考えたところで、空気の密度が揃った。
冷えた空気が、少しだけ滑らかになる。
見えない糸が、一本通る。
エイドは目を開けた。
いつの間にかリュミエルがいる。
歩いてきたわけではない。ふっと、そこにいる。
足は床に触れているが、立ち方が軽い。必要ならすぐに浮ける、という合理の姿勢。
こちらの考えを見透かしたような安心したような顔をしていた。
「……聞こえてた?」
返事はない。
代わりに、光が生まれた。
床の中央ではなく、少し前。
白い糸のようなものが空気に現れ、絡み合い、束になっていく。眩しくない。目を刺さない。熱もない。ただ、輪郭だけがはっきりしていく。
それは槍の芯だった。
芯が伸びる。柄が整う。穂先が定まる。
木槍の形とは違う。より突くための形。より速く届く形。槍というよりランスだ。
流線型で、無駄がない。
空気の抵抗を減らすために、手元から穂先へ向けて自然に細くなる。
持った瞬間に“前へ出る”ことが分かる形。
そして、柄のところどころに、金色の意匠が見えた。
飾りではない。輪でもない。
小さな錠――金の錠が、十個も埋め込まれていた。
エイドは息を止めた。
「……錠?」
そこで初めて、リュミエルが口を開いた。
「あなたが散らさないように」
リュミエルは淡々と言った。
「形にした。速さも、届く先も」
「作ってくれたんだね、昨日は――」
「作れるよ。あなたの気持ちがまっすぐだったから」
そう言って、リュミエルは錠に指先を触れた。
触れただけで、錠の気配が強くなる。存在を主張する。
「でも、強すぎる」
リュミエルの声が、少しだけ低くなる。
「だから錠をした」
強すぎる。
リュミエルの魔力は規格外だ。欠落していてもなお、学校の安全装置の外側にある。そんなものを武器にすれば、扱い方を間違えた瞬間に壊れるのは周囲だ。
エイドはゆっくり手を伸ばした。
ランスは拒まない。手の中に落ちてくる――というより、手が“受け止める”。
物質じゃないのに、重い。
腕の重さではない。握った瞬間、胸の奥が重くなる。
力を持つ重さだ。
「条件ってことか」
エイドが言うと、リュミエルは頷いた。
「これは、あなたと私の意思が噛み合うときだけ力を出す」
「……俺が使いたい時に使えないことがある?」
「あるよ」
即答だった。
「だから錠。あなたが扱えるかどうか、私の意思で解錠されていく」
“私の意思”。
それは支配ではない。
従わせる仕組みでもない。
ただ、精霊が精霊として“危険を通さない”仕組みだ。
エイドは握りを少し強くした。
その瞬間、ランスがわずかに重くなる。
力が乗ったのではない。乗せ方が違う、と言われた気がした。
「最初の条件は?」
問いは自然に出た。条件があると言われたら、知りたくなる。
リュミエルはすぐには答えなかった。
エイドを見て、呼吸の深さを見て、心の向きを見ているようだった。
そして、ひとつだけ告げた。
「誰かを守るために振るうこと」
短い。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、錠の一つがかすかに鳴った。
金属音ではない。
魔力の引っかかりがひとつ外れる感覚。
ランスの芯が、少しだけ澄む。眩しくならないまま、通りがよくなる。
エイドは息を吐いた。
「……他は?」
「それはこれからね。焦らないで」
リュミエルは淡々と言う。
「時がくれば、自ずと開くから」
「時って、いつだ」
「必要になったとき」
必要になったとき。
それは、守るだけでは足りない状況が来るということでもある。
エイドはそれを口にしない。口にしたら、また考えが散る。
エイドはランスを構えた。
足を一歩、前へ出す。腕ではない。足で位置を作る。
穂先が前を向く。
突く――その動きの途中で、意識だけを先に走らせた。
「……」
穂先の先、空気がきゅっと締まる。
白い点が生まれる。眩しくない。火花でもない。
けれど、周囲の影がほんの少し薄くなる。そこだけ、光が“場所”を奪う。
白い点は、呼吸一つぶんで形を変えた。
点が、針になる。
針が、矢になる。
矢が、槍の穂先に沿って一直線に揃う。
次の瞬間――光が飛んだ。
速い。音が追いつかない。
視線が追うより先に、壁へ到達している。
乾いた“ッ”という短い衝撃音が遅れて来て、
壁の石が、内側から押し広げられるように凹んだ。
凹みの縁が、薄く白い。
焼け焦げではない。煤でもない。
石の表面が、磨かれたみたいに滑らかになっている。
光が通った場所だけ、余計なものが削がれた――そんな跡だった。
エイドは息を飲む。
弱く放ったはずなのに、威力が出る。
威力というより、抜けがいい。壁に当たった跡が綺麗だ。
“押す”のではなく、“通して削る”。
それが光の強さだと、初めて分かる。
リュミエルが静かに言った。
「今のは、あなたの意図がそのまま形になった」
「詠唱は?」
「いらない。あなたが迷わなければ」
迷いがあれば散る。
散れば光は太り、太れば危険になる。
速く、細く、狙った場所だけを通す――そのために、意識が必要になる。
エイドはランスを下ろした。
握りを緩めると、重さも一緒に落ち着く。今の出し方が“通った”という感触だけが、手のひらの奥に残った。
「今日はここまでね」
リュミエルの声に、エイドは頷いた。
手の中の感触が、ふっとほどける。
ランスは輪郭を失い、細かな光の粒になって散った。粒は床に落ちる前に空気へ溶け、修練場には何も残らない。
――壁に残ったのは、人ほどの大きい凹みだけだった。
リュミエルは、窓もない地下の天井を一度だけ見上げるような仕草をしてから、静かに言った。
「……本当は、そんな時は来ない方がいいのだけどね」
エイドは返せなかった。
返したら、受け取った覚悟が散る。散らしたくない。
今は、一つだけでいい。
守るために振るう。それが噛み合ったときだけ、ひとつ開く。
その仕組みを、手の中に残った重さとして覚えていけばいい。
――と。
背後で、扉の気配がした。
閉まっていたはずの重い扉が、静かに開く音。
エイドが振り向くより早く、空気が変わる。
修練場を管理する教師の“気配”だ。ここで長くやっている人間の、嫌な勘の鋭さ。
管理教師は中へ入ってきて、壁の凹みを一目見た。
次に、床の中心。
最後に、エイドの顔。
「……またお前か」
声は大きくない。
むしろ低い。低いほど、逃げ場がない。
エイドは背筋を正した。
言い訳はしない。まだ何も壊してはいない。けれど、凹みは凹みだ。
管理教師は歩いてきて、凹みに指を当てる。
触って、確かめて、顔を歪める。
「ここは何だと思ってる。壁にこんな凹みを付ける場所じゃない」
次にその視線が床を走る。
刻印のある場所へ向けて――向けたところで止まる。止まったのが余計に怖い。
管理教師は、エイドとリュミエルを交互に見た。
リュミエルは何も言わない。ここで口を開けば目立つことを知っているみたいに、静かに立っている。
「許可が要るのは“危険だから”だ」
管理教師は低いまま続けた。
「危険じゃないなら、凹みを残すな。危険なら、そもそも一人でやるな」
「……すみません」
エイドが短く言うと、管理教師は一度だけ鼻で息を吐いた。
「謝るのは後だ。——次からは、やるなら、やるなりの場所と手順を選べ」
説教は短い。短いから刺さる。
管理教師は踵を返しかけて、もう一度だけこちらを見た。
「……いいか。お前の“試し”は、ここにいる私の仕事を増やす。忘れるな」
扉が閉まる。
音が吸われる。修練場の静けさが戻る。
エイドは息を吐いて、壁の凹みを見た。
胸の中は不思議と落ち着いていた。
強さを誇ったわけじゃない。
ただ、形にできた。守るための速さを――少なくとも、その入口だけは。
エイドは足の置き方をひとつ整え、出口へ向かった。
夏の匂いのする階段を上がる。
次は、凹みを残さない速さと精度を。
残さずに届く、守るための速さを。
それを“整える”ところから始めようと思った。




