第12章 夜の会話
夕方の訓練場は、夏の熱気をまだ抱えていた。
陽が傾くほどに石床の熱が戻り、汗の匂いが薄く残る。けれど風は、どこか乾いてきた。肌に触れる空気が、ほんの少しだけ軽い。
槍の柄を握る手が、前よりも迷わなくなっている。
エイドは息を整えながら、足裏で床を探った。
――腕力で勝つな。足で勝て。
ローガン先生の言葉が、頭の中で反復される。けれどそれは、もう「教訓」ではなくなりつつあった。
今なら、分かる。
腕力で勝とうとすると、相手の間合いに入る。
槍は長い。長いからこそ、相手より先に「立ち位置」を取ったほうが勝つ。
相手が踏み込むなら、その斜め前を取る。
相手が避けるなら、避けた先の地面を先に押さえる。
槍先よりも先に、足が勝つ。
エイドは一度、突きを止めて槍を引いた。
呼吸が荒い。だが息切れは、前ほど不快ではない。身体が、戦いの中で考えることに慣れてきている。
「……今の、ちょっとだけ良かった」
背後から声がした。
リュミエルだ。エイドの背中の位置に、わずかに浮くように留まっている。近いのに邪魔にならない距離。槍を振るえば、彼女がそこにいることを忘れるくらい自然な位置だ。
「ちょっとだけって」
「うん。ちょっとだけ」
褒めているのか、ただの事実なのか分からない口調。
それでも、エイドの胸の奥が少し軽くなる。
「槍は、立ち位置と間合い……か」
「腕力で勝とうとすると、すぐ疲れるものね」
リュミエルは淡々とそう言って、訓練場の壁際に視線を流した。
教官たちのいる場所。監視ではなく、見守り。だが見守りの中には「危険」の線がある。
エイドは槍を下ろし、汗を拭った。
槍を握ったまま考えると、思考が戦いに寄り過ぎる。だから一度、道具を床に立てかけ、息を整える。
秋の禁測地。
卒業試験。
その言葉が、いまは遠いようで、近い。
戦いの間合いが、少しは分かってきた。
魔法も、整えれば出る。
――それでも、足りない。
足りないものが何か、分からないのが怖い。
分からないまま近づいていくのが、もっと怖い。
その夜、寮の部屋は静かだった。
窓の外の蝉の声が、少しだけ弱くなっている。夏はまだ終わっていないのに、夜はどこか次の季節の準備が始まっている気がする。
エイドはベッドに横になったまま、目を閉じていた。
眠れないわけではない。
眠れるのに、頭が勝手に動いてしまう。
禁測地で必要なのは、戦闘だけじゃない。
迷わないこと。
迷っても戻れること。
仲間を守る動き。
精霊に近づき過ぎない距離。
――俺は、何ができる。
考えているうちに、胸の内側がざわつく。
自分でも、うるさいと思う。
「……ねえ、エイド」
暗い部屋の中、声がした。
エイドが目を開けると、リュミエルが枕元にいた。
灯りを点けていないのに、彼女の輪郭だけはわかる。薄い光があるからではなく、エイドの目が「そこにいる」と知っているからだ。
「起きてた?」
「起きてるというか……」
リュミエルは言葉を探して、少しだけ眉を寄せた。
「あなた、さっきからずっと、考えごとしてる。うるさい」
うるさい。
精霊に言われると、妙に刺さる。
「……ごめん」
「謝らなくていいの。でも、頭の中が渋滞してる」
「渋滞って……」
「止まってるのに、動きたいがたくさんある感じ」
妙な例えなのに、的確だった。
エイドは苦笑して、枕を抱え直す。
「禁測地のこと、考えてた」
「ふうん」
リュミエルはエイドの胸のあたりを指先で軽く示した。
「ここ。引っかかってる。足りない、足りないって」
エイドは息を吐いた。
言葉にすると余計に情けなくなる気がして、黙っていたところを、見抜かれた。
「……足りないものが分からないんだ」
「分からないなら、整理すればいい」
「整理?」
「何が欲しいのか。何ができるのか。何を捨てるのか」
リュミエルの口調は、やけに実務的だった。
精霊というより、昔誰かと暮らしていた人の言葉に近い。
エイドは、少し躊躇ってから言った。
「リュミエル。契約した精霊ってさ……人を強くする方法ってあるのか?」
「あるよ」
即答だった。
「先生は……たぶん危ないからって、教えたがらない」
「うん。あの先生は正しい」
「正しいのかよ」
「危ないものは危ないもの」
納得しかけて、納得できない。
エイドが黙ると、リュミエルは小さく息をついた。
「でも、教えてあげるわ」
「……え」
「あなた、うるさいから」
理由がひどい。
だがリュミエルは真面目な顔だった。
「契約精霊はね。魔力を、具現化できるの」
「具現化?」
「魔力武器。――私の魔力を、あなたの手に渡す形にする」
エイドは上体を起こした。
寝る前のおとぎ話じゃない気がする。
「作れるの?」
「作れるよ。材料は魔力だけ。必要なのは、イメージ」
「イメージ……」
「あなたが“こうしたい”って思う形。私が“こうする”って思う形。その二つの一致が、具現になる」
リュミエルは指先を立て、空中をなぞる。
そこに何かが浮かびそうで、浮かばない。まだ出さない。出せば、話が別の方向へ跳ねるのを知っている。
「でも、それって……」
エイドは言葉を選んだ。
「リュミエルの魔力で作ったら、どうなるんだ?」
「うーん……」
リュミエルは、歯切れが悪くなる。
「たぶん、今のあなたには扱いきれないと思う。扱えなければ壊れる。あなたが。周りも。――だから先生は止める」
怖い話を、怖くない声で言う。
それが余計に怖い。
「じゃあ、なんで教えたんだ」
「作るとは言ってない」
リュミエルが首を傾げた。
「知るだけ。選べるようにするだけ」
そして、エイドの目を見て言った。
「まず、整理」
「何をやりたいか。何を守りたいか。何を、できるようになりたいか」
「それがまとまったら、武器はただのイメージになる。イメージだけなら、危なくない」
エイドは、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。
力の話をしているのに、落ち着く。
それは多分、「未知」が少しだけ言葉になったからだ。
「……ありがとう」
「うん」
リュミエルは満足そうでもなく、当然のように頷いた。
それから、少し間を置いて、彼女が言った。
「ねえ、秋の禁測地って、どんなところ?」
「……そっちのが気になるのか」
「気になる。精霊が多いんでしょ」
エイドは枕を抱えたまま、天井を見る。
禁測地の説明は、授業でも聞いた。先輩からも聞いた。
けれど、説明するのは初めてかもしれない。
「未契約の精霊が多い」
「精霊にとって居心地がいい大自然がある」
「だけど、人間には危険だ」
リュミエルは楽しそうに目を細めた。
危険という言葉の意味が、彼女には少し違うのだろう。
「禁測地は、級で分かれてる」
「第三級から第一級まで」
「数字が小さいほど、強い精霊がいる」
「強い精霊」
リュミエルが繰り返す。
「強い精霊は、人に優しくない」
エイドは言った。
「ほとんど排他的だ。近づくと、追い払われる。下手したら殺される」
「精霊が?」
「精霊が、というより……自然ごとだな」
言いながら、エイドは少しだけ眉を寄せた。
「方位が分からなくなる。霧もよく出る。変なところで道順が分からなくなる。戻れなくなる」
「霧?」
「霧。――視界だけじゃない。距離感も狂う」
精霊が多い場所は、人の感覚が当てにならなくなる。
それを「試験場」にするのは、魔法学校が魔法学校である所以だ。
「三級は、一番安全」
エイドは続けた。
「卒業試験は基本そこ」
「だから最適って言われてる」
ただ――と、胸の内側で小さく釘を刺す。
「本来なら、俺は禁測地に行く意味がない。もうリュミエルと契約しているから」
エイドは言った。
「じゃあ、なんで行くの?」
「行かないと卒業できない」
エイドは短く答えた。
「禁測地に行かずの卒業はないって。規定はみんなと同じだ。……それに、俺だけ別の試験があるらしい」
「詳しくは、まだ聞かされてない」
「じゃあ、安心?」
リュミエルが首を傾げる。
エイドはすぐに首を振った。
「危険がまったくないわけじゃない」
「三級でも、下手すれば死ぬ」
「精霊が多いってことは、気まぐれも多い」
リュミエルは、少しだけ楽しそうに言った。
「気まぐれは、私もそう?」
「……違う」
「違うの?」
「お前は……分かっていってる」
エイドがそう言うと、リュミエルは小さく笑った。
声を出さない笑い。喉ではなく、気配だけが揺れる。
「高学年になると、戦闘魔法が増える理由が分かった?」
エイドが言う。
「うん。危険があるから」
「それだけじゃない」
エイドは言葉を選びながら続けた。
「戦うためだけじゃなくて……逃げるためでもあるんだ」
「切り開くためじゃなく、撤退するため」
槍は足で勝つ。
魔法も、足で勝つ。
前へ出るだけが勝ちじゃない。引くことも勝ちだ。
エイドはふと、息を吐いた。
また考え始めている。
けれど今度は、少し整理されていた。
「……俺、禁測地に向けて」
「何が足りないか、考えてた」
リュミエルは、眠そうに目を細めた。
「考えるのはいい」
「でも、渋滞はだめ」
「じゃあ、どうすればいい」
エイドが聞く。
リュミエルは、当然のように言った。
「ならべること」
「やりたいこと、守りたいこと、怖いこと」
「順番に並べる。それが整理」
精霊に言われる助言としては、あまりにも現実的だった。
けれど、その現実的さが、いまは助かる。
「……明日、考えてみる」
「うん、今はおやすみ」
リュミエルは満足したように頷いた。
そして、ベッドの端に軽く腰掛けるような仕草をして、言った。
「秋の禁測地。楽しみ」
「お前は楽しむな」
「でも居心地いいんでしょ」
「居心地いいのは精霊だ」
「じゃあ、私のために行くの?」
「……違う」
エイドは言いかけて止めた。
違う、と言い切るほど簡単でもない。
リュミエルがそこにいることが、もう「特別」ではなくなりつつある。
けれど「当たり前」にするには、まだ足りないものがある。
それを埋めるために、秋へ向かう。
足で勝ち、戻るための強さを身につける。
エイドは目を閉じた。
今度は、少し眠れそうだった。




