第11章 執政院
夏の昼は、街の輪郭を乾かす。
港から吹く風は湿り気を削ぎ、石畳は熱を抱いたまま影だけを冷やす。
――人と物と思想が交差する街の中央に、中央執政院はあった。
装飾は控えめで、実用に寄せたレンガ調の建物だ。
豪奢さよりも帳簿と記録を優先する、いかにも交易の街らしい箱。
その奥の会議室に、森の長老であり学園長でもある男が座していた。
エルヴァン学長は、背もたれに体を預けない。
椅子に座っていても、森に立っている時と同じ姿勢だ。重心が揺れない。視線だけが、相手の動きを追う。
扉が開く音は静かだった。
法衣の男が入ってくる。教会神官長、プラム。布の擦れる音も抑えられ、歩みは均等。部屋に入った瞬間、空気の温度が一段落ちたように感じられた。
挨拶は短い。
名を呼び合うだけで、余分な言葉はない。長く続ければ、それ自体が立場になる。
窓の外で、荷車の軋む音がした。遠い港の鐘がひとつ鳴る。
街は、いつも通りに動いている。いつも通りのふりをしながら。
「最近だ」
エルヴァン学長が口を開いた。声は低く、穏やかで、今のこの部屋にふさわしい。
「生徒が、戻らない日があった。――数人だ」
断定はしない。
だが、数を伏せることで逆に重みが出る。
プラムは眉一つ動かさず、うなずいた。
否定も肯定もしない。まずは“聞く側”の位置を取る。
「生徒は、街の住民でもあります」
「あなたが心配されるのは当然でしょう」
“学園の生徒”ではなく“街の住民”。
どの枠で話すのかを、先に提示してくる。
エルヴァン学長は視線を落とさない。
「心配で済む話なら、あなたをここへは呼ばないよ」
一拍。
プラムの口角がわずかに上がる。それは笑みではなく、礼儀の形だった。
「では、なんの要件でしょうか」
促され、エルヴァン学長は机上の紙束に指を置いた。
薄い記録だ。だが、薄い段階こそ危うい。形になる前の動きは、証拠にならない。
「“保護”という言葉が、街で増えた」
「祈りの列と一緒に、同じ匂いが残っている」
匂いの名は出さない。
成分も効果も言わない。ただ“同じ匂い”。牽制として十分だった。
プラムは小さく息を吐いた。
声の温度は変えない。
「街は、夏です」
「港も市場も落ち着きがない。人の心も疲れる」
「落ち着きを取り戻すために、癒しの香を焚いた。それだけのこと」
“それだけ”。
二語で済ませる言い方が、逆に引っかかる。
エルヴァン学長は、そこで初めて机に指を置いた。指先が紙の端を揃える。
整える動作は、感情を整える時にも出る。
「落ち着きを必要とするのは、大人だ」
「未成年に向けて焚く必要はなかろう」
プラムは首を傾げた。
反論ではない。論点を測る仕草だ。
「彼らは不安そうでした」
「目が泳ぎ、足取りが定まらない。――手を差し伸べただけです」
“差し伸べた”。
その言葉が、囲う動きと紙一重であることを、互いに理解している。
エルヴァン学長は声を荒げない。
「差し伸べるなら、学園に連絡が来るはずだ」
「連絡がないのは、連絡が不要だとそちらが判断したからだ」
プラムは一拍だけ黙った。
この場に最初から名前を付けない理由を、二人とも知っている。
名を付けた瞬間、抗議か協議かどちらかに固定される。固定は、引けなくなる。
「どうやら誤解があるようです」
プラムは穏やかに言った。
「私が本日呼ばれたのは協議のつもりでした」
エルヴァン学長は即座に返す。
「こちらは抗議としてこの場を設けておる」
短い。
だが、線は引かれた。
沈黙。
窓の外で、誰かが水桶を運ぶ音がした。夏の街は、いつでも喉が渇く。
プラムが、少しだけ言葉を足す。
足すことで、相手を“会話の形”に引き戻す。
「学園は、街の一部です」
「街の平穏に教会が関わることは不自然ではありません」
エルヴァン学長は、同じ速度で返す。
「不自然かどうかは論点ではない」
「“どこまで”関わるかが重要だ」
プラムの微笑が薄くなる。
「どこまで、とは?」
「癒しは癒しです。救済は救済です。境界を引くほど、彼らは救われにくくなる。あなた方はすべてを救えるのですか」
“救い”の言葉は強い。
否定すれば悪に見える。だから教会は救いを掲げる。
エルヴァン学長は、その言葉を受け取ってから置き直す。
「救いは否定しない」
「だが、救いの名で子供の“選択”を奪うな」
プラムは、視線だけで問い返す。
奪った覚えはない、と。
エルヴァン学長は、淡々と続ける。
「生徒が自分で選んだと言うなら、なおさら学園に連絡が来る」
「連絡がないのは、選択の前に誰かが“整えた”からだ」
整えた。
攻めているようで、断定していない。匂いを刺す言い方だった。
プラムの目がわずかに細くなる。
怒りではない。機嫌でもない。刃を抜く準備の目だ。
「学園は、彼らを守ると言う」
「守るために、彼らの外の世界を狭めるのですか」
エルヴァン学長は首を振らない。
「狭めない」
「だからここで言っている。学園の外で教会が、生徒に“近すぎる”」
プラムの口角が、また礼儀の形に戻る。
「近すぎる、ですか」
「教会は開かれています。誰もが祈れる。扉を閉じるのは、あなた方のほうでしょう」
扉。閉じる。
言い回しは穏やかだが、学園が閉鎖的だと言っている。
エルヴァン学長は、そこを正面から否定しない。否定すれば泥沼だ。
「教会が開かれているなら、なおさら“顔”を明かせ」
「誰が、どんな意図で、生徒に近づいている」
プラムは肩を竦めない。神官長は安い動作をしない。
「意図など」
「祈りと、癒しと、救済です」
三つ並べると、正しさが増える。
増えるほど、影も濃くなる。
エルヴァン学長は静かに言う。
「その三つは否定しない」
「だが、行政は“結果”で動く」
その一言で、会議室が執政院になった。
祈りではなく、結果。救済ではなく、記録。
エルヴァン学長は続ける。
「生徒が戻らなければ」
「学園が動く」
「学園が動けば、街が動く」
「街が動けば、“秩序を守る者たち”が動く」
順番を並べる。
並べることで、脅しではなく手順になる。
「生徒を不用意に囲う動きが続けば、いずれそうなる」
「街の規則は、祈りより先に働くのだぞ」
プラムの目が、わずかに細くなる。
口調は丁寧なまま、刃だけが覗く。
「そのようなことをすれば、どうなるかは明白でしょう」
「弾圧と受け取られれば、本国が黙っているはずがない」
“本国”。
この街の外側をちらつかせる。
エルヴァン学長は視線を上げた。
「本国が動くなら、街も動く」
「ここは交易の街だ。潮と金と人が混じる。――一つの旗で揃わない」
プラムは微笑を保ったまま言う。
「混じるからこそ、芯が必要です」
「信仰は芯になれる」
“芯”。
支えにも、刺さる杭にもなる言葉。
エルヴァン学長は静かに返した。
「芯が欲しいなら、まず子どもに手を伸ばすな」
「導くなら、正面から来い。――名を名乗って」
プラムは頷いた。
肯定でも譲歩でもない。“聞いた”という形だけを残す頷きだ。
「我々は、来る者を拒みません」
「学園も同じでしょう。ならば、並んで歩けるはずです」
“並んで”。
甘い言葉だ。だからこそ危うい。
エルヴァン学長は、声を少しだけ落とす。
落とすことで、部屋の空気が締まる。
「並ぶのは構わない」
「だが、前に出るな。――この街のやり方を壊すな」
沈黙が落ちる。
石の壁が、言葉を吸う。
プラムは立ち上がった。
扉へ向かいながら、一度、エルヴァン学長に振り返り目で語る。
――精霊に敬意を払うと言いながら、魔術も扱う。
――共存を語りながら、どことの線を引ききれない。
――中途半端な者たちに、我々の一途な信仰が負けるはずがない。
そう信じている目だ。
エルヴァン学長は、怒りも笑みも見せずに言った。
「この街は、誰かの“正しさ”だけで回らない」
「違うままに並び、認め合う。――それがリーベのやり方だ」
扉が閉じた。
残ったのは、香でも祈りでもない、執政院に残りやすい硬い空気。
エルヴァン学長は、机の紙を一枚だけ持ち上げる。
薄い紙だ。
だが、薄いまま燃えることもある。
――教会は、精霊を欲している。
――そして欲の形が、少しずつ変わりつつある。
中位の精霊から、街そのものへ。
長老はそれを言葉にしないまま胸に置き、
次に来る夏の日々と、秋の試験と、
“最高学年が抜けた後の学校”を思い描いた。
まだ、決裂ではない。
だが、溝は確かに、深くなっていた。




