第10章 戻す手
放課後の鐘が鳴っても、教室の空気はすぐにはほどけなかった。
生徒たちは散っていく。
足はいつも通りなのに、言葉だけが遅れている。――歴史の話は、その場よりも後から効く。
ミレイは廊下の窓際で足を止めた。
外は明るい。港へ続く道に熱が立っている。夏の匂いがして、風は湿り気を帯びている。
「ミレイ」
背中から呼ばれて振り返ると、カトリナ先生が立っていた。
いつも通り背筋は崩れていない。けれど今日は、目が“真剣”な色をしている。
「少し、付き合ってちょうだい」
「はい」
返事をした瞬間、先生は一息だけ置いてから続けた。
「――あなた、裏手で風魔法の練習をしていたとき、一年生に声をかけられたことがあるでしょう」
胸が小さく跳ねた。あの裏手のことを、教師に把握されていた。
けれど次の瞬間には、ミレイの胸の奥にひとつの顔が浮かんだ。
制服がまだ固くて、肩に力が入ったまま、草の揺れを見ていた子。確か名前はコリン。怖さではなく、驚きで目を大きくしていた。
「はい。覚えています」
「あぁ、ごめんなさい。今は校則違反を咎めるわけじゃないの。それよりも、その子が昨日から家に戻っていないの」
言葉は静かなのに、内容が重い。
カトリナ先生は声を荒げない。荒げないからこそ、事実がそのまま刺さる。
「昨日の午後の授業が終わった後に姿が消えたの。街で最後に見られたのが――教会の近くだそうよ」
教会。
春に門前を騒がせた一件が頭をよぎる。
あのときは誰もが慎重だった。けれど時間が経てば、警戒は薄れる。
“見に行く”という言葉が、またただの好奇心の響きに戻り始めている。
慣れてきたぶん、好奇心に足が出る。
ミレイは頷いた。
「探し出します」
「ええ。まずは教会に行くわ。でもあなたが行くのは何も牽制じゃないわ」
先生は、柔らかい声で釘を刺すように言った。
「あなたはその子の顔を知っている。――それはその子が戻る足場になるの。その場所から引き剥がすんじゃなくて、帰れる場所がここにもあるって思い出してもらうことが大切なの」
ミレイは息を吸って、吐いた。
風の練習で覚えた呼吸だ。感情の前に呼吸を置く。
すると、窓際のミレイを挟むように、反対側から硬い足音が近づいてきた。
ローガン先生だ。軍人のような歩き方のまま、廊下の空気をまっすぐに裂く。
「状況は?」
カトリナ先生が短く答える。
「一年生が一人、昨日から帰っていない。教会の近くで消えた。――あなたも来るわね」
ローガン先生は頷くだけだった。
余計な言葉を足さない。現場の条件だけを受け取り、次の動きへ移る。
「わかった。行こう」
学園の門を出ると、街の熱が肌に貼りついた。
交易連邦の街は賑やかで、人の流れが途切れない。だからこそ、一人が消えるのも早い。
ローガン先生は速い。だが走らない。
追う者の形を作らないためだ。追えば、相手は“保護”の名で隠せる。
カトリナ先生がミレイの隣で言う。
「目を逸らさないで。――何があっても、言葉に怒りを乗せないこと」
「はい」
「怒りより大事なものが今はあるわ」
先生は優しく言った。
優しい言い方で怒りの存在を前提にする。それが教育者の強さだと、ミレイは知っている。
教会は市街の端にあった。
石造りの建物が、交易都市の雑音から少し外れた場所に立っている。門前に人だかりはない。
だから余計に、静けさが怖い。
ローガン先生が扉を叩く。
重い木の音が一度だけ響いた。
ほどなくして扉が開き、中から男が出てきた。
法衣。穏やかな顔。目は笑っているのに、身体は扉の幅を守っている。中を見せない立ち方だ。
「学園の先生方ですね。ようこそ。……何かお困りで?」
カトリナ先生が一歩出た。声の温度を変えない。
「生徒が一人、戻ってきていません。こちらで確認したところ、あなた方の教会の近くで目撃されています。――中にいませんか」
男は首を傾げる。答えないための仕草だ。
「私たちは、来る者を拒みません。ただ、信仰は自由でして」
「ここにいるのね。もちろん、あなた方の自由は守るわ」
カトリナ先生が即座に返す。
「けれど“自由”は、未成年の保護義務より上には来ません。私たちは、その生徒の保護者代理です」
ローガン先生が一歩だけ前に出た。
声は出さない。ただ、影が伸びる。戦場の圧は言葉より早い。
男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「……今一度、確認いたしましょう。お待ちください」
扉が閉まる。
短い沈黙の間、ミレイは呼吸を落とした。焦りの呼吸は相手に伝染する。伝染すれば、相手は“守るために閉じる”。
扉が開き、今度は若い女性が出てきた。
同じ法衣。手には薄い布。布の端が、覆いのように揺れている。
「先生方。……中に、生徒さんはいらっしゃいます。ですが少し気分が悪いようで。今日はここで休ませて――」
「すぐに連れ帰ります」
カトリナ先生が短く言う。結論だけ。
女性は困ったように目を伏せた。
「こちらにも務めが……救いを求めて来た人を、外へ放り出すわけには」
「救いを否定しないわ」
カトリナ先生は柔らかい声のまま、言葉を置いた。
「けれど、今あなた方がしているのは“救い”ではなく“攫い”に見えるわ。――生徒に会わせて」
女性は迷い、扉の向こうへ視線を送った。
それが時間稼ぎか葛藤か、ミレイには判断がつかない。けれど、手順は同じだ。
ローガン先生が続ける。
「ここで拒否すれば、学園は正式に抗議し、連邦の行政にも話を通す。……それでもいいのか」
脅しではない。現実を並べているだけの声だ。
女性は小さく息を吐き、扉を広げた。
中は静かだった。
香と磨かれた床の匂い。祈りの匂い。音が少ない分、香りが多い。
ミレイはその匂いを「教会の匂い」だとしか思わなかった。
落ち着く――というほどでもない。ただ、音が減るぶん、心が少し大人しくなる。そんな気がしただけだ。
けれど、カトリナ先生の表情だけがわずかに変わった。
眉を動かすほどではない。目の焦点が、香の層を一枚剥ぐように細くなる。
廊下の奥の小部屋に、その一年生が座っていた。
制服の襟が少し乱れている。目が赤い。泣いた赤ではない。眠れていない目だ。
ミレイの顔を見て、子は一瞬だけ固まった。
「……ミレイ先輩……?」
声が小さい。
“困惑”と言う名の声だった。
ミレイは距離を詰めすぎない。近づけば逃げ道になる。
同じ目線の高さまでしゃがみ、声を落とす。
「コリン、大丈夫?帰るよ」
子は唇を震わせた。
「……あれ?でも、私、ここで話を聞いて――」
「話はあと」
カトリナ先生がそこで初めて、少しだけ厳しさを混ぜる。
「学校を抜け出した時点で、あなたは“自由”ではなく“保護”の対象になっています。――それを忘れないで」
子の肩が小さく震えた。反抗ではない。理解の震えだ。
ローガン先生が出口までの導線を作るように前に立つ。
カトリナ先生が背後を塞ぐ。
ミレイが最後に残る。追われる形にならないように。
「歩ける?」
「……はい」
「じゃあ、立って」
子は立とうとして、膝がわずかに抜けた。
踏ん張りが利かない。ぼんやりとした目が、床と壁を行き来する。
――匂いのせいだ、とミレイは遅れて気づく。
“落ち着いている”のではない。判断が鈍っている。
ミレイは迷わず手を出した。
支えられながら子が立つ。ふらつくが、倒れない。
外へ出ると、街の音が戻ってきた。
現実の音が急にうるさい。
教会の扉が閉まる直前、若い女性が言った。
「……先生方。私たちは精霊を恐れているのではありません。大切だから、守りたいだけです」
カトリナ先生は足を止めず、背中で答えた。
「守りたいなら、奪わないことね」
短い一言だった。
それ以上は言わない。言えば争いになる。争いになれば、相手の望む“物語”になる。
学園へ戻る道すがら、子は俯いたまま言った。
「……私、悪いことをしたんですか?」
「悪いことをした」
ローガン先生が言った。
責める声ではない。事実の声だ。
「ただ、戻ってきた。それで今は十分だ」
ミレイは、その言葉が上級生の言葉だと思った。
厳しさを引き受けて、帰る場所を残す言葉。
門が見えてきた。
学園の高い壁の向こう、屋根の端に小さな影が見える。
瓦の影に溶けるようにして、リュミエルが黙って街を見下ろしていた。
彼女はここへ来ない。――来れば、それだけで均衡が壊れるのを知っているから。
ミレイは思う。
講堂で語られた“構造”は、もう目の前だ。人の善意が囲いに変わる瞬間。救いが確保に近づく瞬間。
それでも今日は――戻せた。
小さくても、これは勝ちだ。
*
その夜、学長室の灯りは遅くまで消えなかった。
エルヴァン学長は窓の外の暗さを一度見てから、机に視線を戻した。
机の上には報告が一枚。紙は薄いのに、内容が重い。
カトリナ先生が立っている。
ローガン先生は壁際。立ったまま、動かない。
「ここ最近、教会が明らかに過剰な干渉をしてきています」
カトリナ先生が言う。声は冷えていない。冷やさない分、言葉が刺さる。
「今日の件は、あともう一歩遅ければ――生徒は“保護”の名で囲われたまま、戻らなかった可能性が高いです」
ローガン先生が短く頷く。
「もはや拉致です」
エルヴァン学長は眉を動かさない。表情を変えないまま、息だけを少し深くした。
「それだけは許せん、厳重な抗議を行い、しかるべき対処を行おう」
その言い方は怒りではなかった。
教育者が怒りを“燃やさずに持つ”ときの声だった。
カトリナ先生は、報告を一つ増やすように言った。
「それと――教会の中で嗅いだ香です。ミレイも気づたかもしれませんが。普通の香の形をしているけれど、薬草の調合としてははっきりしていました」
ローガンはそこで初めて、胸の奥が冷える。
“教会の匂い”だと思っていたものに、意味があった。
「人を落ち着かせる香。過度に嗅げば安心感を与える分、……判断力を奪う類のものです」
ローガン先生の目が細くなり、カトリナ先生は続ける。
「完全に判断力を奪うわけではないですが、“帰る”という選択を弱くする。――未成年に使うには悪質です」
エルヴァン学長の指先が、机を軽く叩いた。考える癖だ。
「その場で指摘しなかったのは?」
「議論より生徒の保護を優先しました。私たちだけが指摘しても、彼らは“信仰の迫害”と“保護”にすり替え、証拠を消します」
カトリナ先生は即答した。
柔らかい声のまま、現実だけを切り取る。
エルヴァン学長は頷く。
「ありがとうございます。まずは生徒の心を癒してあげてください」
カトリナ先生が言葉を整える。
「最初は、光の精霊――中位精霊の確保が目的に見えました。けれど今は……街そのものへ手を伸ばしているように見えます。信仰の形を借りて人を動かし、生徒を動かし、こちらを試している動きです」
エルヴァン学長は窓の外を見た。
街の灯りが遠い。交易連邦の灯りは多い。多いから、影も濃い。
「目的が変わりつつある……か」
ローガン先生が言う。
「精霊の確保だけなら、もっと直接に来るはずです。今の動きは地盤崩しです。――街の支配に切り替えている可能性が考えられます」
エルヴァン学長は静かに頷いた。
「秋の卒業試験……禁測地行きの予定を変更しますか?」
カトリナ先生が問う。
エルヴァン学長はすぐには答えない。
延期すれば安全が増えるとは限らない。むしろ、別の穴が開く。
ローガン先生が先に口を開く。
「それよりも」
短い言葉の後、迷いなく続けた。
「最高学年が抜けた学校を狙っているかもしれない。禁測地へ行けば、学園の守りが薄くなる。……そこが狙いやもしれん」
カトリナ先生が息を吐く。
「なるほど…」
エルヴァン学長は頷いた。
「どのみち、万全を期す必要がある」
エルヴァン学長は二人を見た。
責任を押し付ける目ではない。役割を分ける目だ。
「ローガン先生。最高学年の訓練を、今まで以上に“現場仕様”に。戦闘力ではなく、判断力と撤収の手順を固めてください」
「承知しました」
「カトリナ先生。教会の動きは、逐一把握するようにしてください。――信仰を取り締まらない。しかし、生徒は守るようお願いします」
「ええ、学長」
エルヴァン学長は最後に、静かに言った。
「――誰一人として生徒を奪わせない」
窓の外の闇は深い。
だが、学長室の灯りはまだ落ちない。
今後へ向かって、歯車が一つ、確かに噛み合った。




