第9章 分かれた理由
エイドが教室へ入ると、いくつかの視線が当たり、すぐにほどけた。探る目ではなく、戻ってきた者を見る目だ。
空気が止まらない。それだけで、胸の奥が少し軽い。
「エイド、久しぶり。今日はこっちなの?」
ミレイが、いつもの調子で言った。
慰めも、腫れもの扱いもない。だから助かる。
「うん。今日は、俺にも関係があるって」
「ふうん。じゃあ寝ないでね」
「寝ないよ」
軽く返して席に座る。机の木目が、いつも通り目に入る。
ホームルームが終わるころ、廊下が少しざわついた。全校が講堂へ向かう合図だ。
椅子を引く音が重なって、流れができる。
講堂は、ひとつ上の空気を持っている。
ざわめきが勝手に膨らまない場所。声を荒げなくても集団が整う場所。
壇上に立っていたのは学長ではなかった。風紀と教務を兼ねる教師――カトリナ先生だ。
背筋がまっすぐで、青い髪はきっちりまとめられている。
小さな眼鏡の奥の目は感情を見せない。けれど冷たくもない。必要なところだけを切り取って置く人の目だった。
先生は生徒が座り切るまで待って、静かになったところで口を開く。
「静かに。……みんな、いい子ね」
その一言が、講堂をぴたりと沈めた。
カトリナ先生は黒板の前へ立ち、チョークを取る。
「今日は本題に入る前に、少し歴史の授業をします。難しい話にしないわ。――あなたたちが、これから巻き込まれないための話よ」
“巻き込まれないため”。
説教ではなく、必要な分だけ渡す口調だった。
先生は黒板に縦線を三本引いた。四つの枠ができる。左から順に迷いなく書く。
宗教/交易/魔法/魔術
「あなたたちは、宗教国家と魔法使い側の緊張だけを先に覚えがち。目立つから。でも、順番が違うの」
チョークが“魔法”と“魔術”を軽く叩く。
「先に分けるべきは、魔法と魔術。ここを混ぜると、他の全部が曖昧になります」
講堂が静かになる。
エイドは指先を組んだまま、視線だけを前へ置いた。
「魔法は、精霊を隣人として扱います。呼びかけて、応答を得る。距離と手順を守りながら、共存を目指した……そういう技術よ」
先生は“魔法”の枠に語を足していく。
距離/手順/応答
「距離というのは、ただ離れることじゃないの。刺激しない、追い詰めない、領域に踏み込みすぎない。――あなたたちが初等教育で叩き込まれた『精霊との距離感』は、まさにそれね」
次に“魔術”を指す。チョークが少し強く黒板に当たった。
「それに対して魔術は、精霊を介さずに現象を再現しようとしたの。術式で魔力の流れを決めて、世界を発展させてきた。簡単。早い。便利。……だからこそ危うい」
“危うい”のところだけ、先生の声がほんの少し冷える。
けれど、否定ではなく――まず受け止める。
「魔術は“便利”よ。否定はしないわ。
私たちの暮らしを明るくして、病を減らして、港を安全にして、冬を越えやすくした。私たち交易連邦がここまで大きくなれたのも、魔術が運ぶ技術の恩恵があったから」
カトリナ先生は、そこで少しだけ言葉をゆっくりにした。
「でもね。発展には、代償が混ざることがあるの。
魔術は、人間にとって都合のいい環境を作る。港の水位を安定させ、街路灯を絶やさず、道を整備していく。――街は安全になる。物流は止まらない。冬でも人が動ける」
カトリナ先生は、そこでほんの少し言葉を落とした。
「けれど、その便利さは“自然”を削ることに繋がるわ。
川の流れ、木々の茂み、土の匂い――そういうものが弱くなると、精霊は住みにくくなる。近づかなくなる。あるいは近づくほど傷つく」
先生は断定で責めない。けれど、逃げ道も与えない。
「だから魔法使い側が警戒したのは、魔術の強さそのものじゃないの。
人間社会が発展するほど、精霊が遠ざかる構造――そのほうよ」
カトリナ先生は続ける。
「この魔術を国家の基礎に据えたのが、ヴァルグラント魔術帝国。帝国は効率と統制を愛した。『同じ結果を、同じ手順で出す』ことを是としたのね」
先生は“魔術”の枠に語を足す。
固定/統制/効率
「対して、魔法使い側――アルディア魔法評議国は、精霊との共存を守ろうとした。守ったのは感情じゃない。秩序よ。自然が壊れれば、人間も壊れる。精霊を乱暴に扱えば、いずれ人間の社会も乱暴になる……そう考えたの」
先生の言葉は、善悪で切らない。選んだ理念の違いとして切る。
「だから最初の大きな亀裂は宗教ではありません。魔法と魔術。アルディアとヴァルグラント。――ここが最初」
誰かが小さく息を吐いた。理解したときの呼吸だ。
「じゃあ宗教はいつ出てくるのか。……魔法使いたちの内部分裂よ」
先生は“宗教”の枠に、短い語を積む。
救済/教義/統一
「アウレリオ神聖精霊国の成立。これは“魔法の内側”から生まれたものだったの」
講堂の空気が少しだけ変わる。宗教が外から来たのではなく、内側から割れたと言われると、話が急に近くなる。
「精霊は高貴であり、理解できない。だからこそ『正しい意味』が欲しくなる。『これは神意』『これは救い』――そう言い切ってくれる言葉は、人を支えた」
先生の口調は少し柔らかい。否定から入らない。
「でも、救済はときに“管理”に変わる。精霊を守るために囲い、人を正すために縛る。善意のまま、できてしまう」
そこだけは言い切りだった。
「アルディアが距離と手順で共存を守ろうとしたのに対して、アウレリオは統一された正しさで人を守ろうとした。……折り合わないわ。精霊を“他者”として尊重する態度と、精霊を“象徴”として崇める態度は、近いようで遠い」
先生は話を“交易”へ移す。
「そして、わたしたちの国。マリネア交易連邦」
その名が出た瞬間、講堂の空気が少し現実に戻る。自分たちの話だ。
「マリネアは、理念で中立を名乗ったわけじゃない。どの国家との中間にある島群で生き残るために、すべての国と取引関係を維持し続けた。均衡を崩さないことが、最も効率のいい戦略だった」
先生は淡々と続ける。
「だから、連邦の街は同じ国の中でも“色”が違うの。……街ごとに、台頭している力が違う」
交易の枠の下に、先生は四つの印を足した。
魔術/魔法/商人/均衡
「魔術が台頭している街もある。たとえば港湾都市ディオラ。魔術師ギルドが港の実務を握っていて、物流と防衛の“都合”が政治になる」
「商人が台頭している街もある。商都ベルカン。魔法も魔術も“サービス”として扱われる。使えるものは使う、使えないものは捨て置く――冷たいようで、案外しぶといのよ」
先生はそこで一拍置き、少しだけ笑う。
「そして、うまく折り合いをつけている街もある。自由都市ノルド。魔術師と魔法使いと商会が、互いの利点を潰さずに取り分を調整している。……美しい理想じゃないわ。傷が増えると儲からないから」
現実的なのに、嫌な感じがしない。生き方として提示されているからだ。
先生の指先が“魔法”の枠を軽く叩く。
「魔法使いが台頭している街もある。精霊との距離を守り、長老会が都市の運営を行う。――リーベは、そこにあたるわね」
リーベ。街の名。
エイドの胸の奥が、ほんの少しだけ固くなる。誇りというより、責任の形に近い。
「リーベに魔術師ギルドが“ある”理由」
先生は言う。
「交易連邦は様々なものが混ざる国。貨物だけじゃない。思想も信仰も技術も、一緒に運んでくる。だから港には魔術の手が入り、学園の高台には魔法の手順が残る。――そうして私たちは今日まで発展してきたのよ」
先生はそこで声の温度を少し変えた。
歴史の解説から、生活の指導へ滑らかに移る。
「ここまで話したのは、歴史が好きだからじゃないわ。……理由があるの」
講堂の空気がわずかに固くなる。
「最近、学園の外へ――アウレリオの教会へ、むやみに近づいた生徒がいました。見学したい、話を聞きたい、集会を見たい……そういう軽い気持ちでね」
先生は否定の言葉を足さない。事実だけを置く。
「結果、帰校が遅れた子がいるの。連絡がつかなくなった子もね。……もちろん抗議したわ。保護も要請した。戻った子もいる。けれど」
“けれど”の一言で、現実が講堂へ落ちた。
「“遅れた”というだけで、あなたたちの生活は簡単に崩れるの。噂じゃない。生活の話よ」
誰かの喉が鳴った。
怖がらせるための言葉ではないのに、怖い。現実だから。
「信仰を禁じたいわけじゃないの。私たちは思想を取り上げない。――ただ、順番を間違えないでほしいのよ」
先生の声は柔らかい。だから余計に刺さる。
「学校の日に学校を抜け出すのは校則違反。興味本位で近づいて、巻き込まれて、後から『知らなかった』は通用しない。
そして何より……救いという言葉は、弱っている時ほど甘く聞こえる」
甘い、という言い方が妙に生々しい。宗教を敵にしていないのに、距離を誤る怖さだけが残る。
先生は話を“今”へ繋げた。
「さて。この秋、第3級禁測地で卒業試験があるわ。最高学年は二か月ほど不在になる予定です」
ざわめきが走る。下級生の不安が目に見える速度で膨らむ。
先生はそれを叩かない。落ち着けとも言わない。
代わりに、責任の置き方を示す。
「その間、上級生は下級生をよく見ること。監視しろ、という意味じゃないのよ」
言い方が、凛として柔らかい。芯がある。
「見て、声をかけあって、止めるべきところは止める。それだけ」
“それだけ”と言いながら、その難しさを先生は分かっている声だった。
「私たちはときどき“外の世界”に触れたくなるわ。外の言葉を聞きたくなる。……その好奇心自体は悪くないわ」
否定されなかったことへの安堵が、講堂に小さく広がる。
「でも、好奇心に足が出る瞬間がある。その一歩だけで、戻れなくなることがあるの」
先生はそこで、言葉を少しだけ柔らかく戻した。
「だからお願い。上級生は、下級生が踏み外す前に手を伸ばして。下級生は、上級生の声を“監視”だと思わないで。……守るための声よ」
“お願い”。
権威で押さず、共同体で整える。先生のやり方だった。
「守るのは秩序ではありません。学園です。帰ってくる場所を残す。――それが、ここにいるみんなの仕事」
そう言って、先生はチョークを置いた。
「以上。講堂を出るとき、走らない。廊下で騒がない。……そして、学園の外へ勝手に出ないこと。よろしいわね?」
返事が揃う。先生は小さく頷いた。
講堂を出ると、空気がふっと緩む。椅子が鳴り、紙が揺れ、日常が戻る音がした。
それでも皆がすぐ冗談へ逃げない。言葉がまだ定まっていない。
ミレイが横に並ぶ。
「授業にしても連絡にしても、分かりやすかったわね」
「……頭の中が整理された」
「よかった。あなた、いつも一人で頭を抱えるから」
「抱えてない」
「抱えてる」
言い返そうとして、エイドはやめた。ミレイに言われると否定しきれない。
廊下へ出ると、窓の外の光が強い。夏の名残がまだ空気にある。
エイドは無意識に上を見る。
屋根の端に、リュミエルがいた。
瓦の影に溶けるようにして、ただ立っている。視線は街の方へ。港の白、遠くの森の濃さ。目が珍しさで静かに動く。今日は自由に景色を楽しんでいる。
――ああいう自由を、壊したくない。
囲って動けなくするのではない。
ただ、誰かの都合で引きずられないように。
屋根の上のリュミエルがこちらを見下ろした気配がした。声は届かない。言葉もない。
けれど、胸の内で繋がるものがある。
「禁測地、秋だってね」ミレイが言う。
「うん。準備だな」
「準備。あなたは訓練で、私は授業で」
ミレイの言い方はいつも通りだ。言葉を課題に変えるところで止まる。だから崩れない。
エイドは一度だけ手を握り直し、歩幅を上げた。
今日もまた、積むために。




