第8章 槍の間合い
地下へ降りる階段は、夏が近づくほど空気が重くなる。
地上の熱が石の間に残り、冷気と混ざって湿る。息を吸うと、肺の内側が少しだけべたついた。
許可を取った修練場の扉が開く。
訓練用に、私闘防止結界は落としてある。
今日のここは、暴発を止める場所じゃない。正式な訓練の場所だ。
ローガンはすでに中央に立っていた。
外套は脱いでいる。袖をまくり、木製の武器を二本、壁に立てかけている。
エイドは木槍を見て、足を止めた。
「……槍ですか」
ローガンは頷きもしないで言う。
「お前の手に一番残るのが、それだ」
「剣も悪くない。だが、お前は無駄が増える」
「槍は無駄が減る。間合いが取れる。お前の迷いが少ないと判断した」
エイドは木槍を取る。柄が長く、槍先があるはずの部分には木が布で巻かれていた。
柄は少し太い。握ったとき、掌のどこに力が乗っているかが分かる。木剣より、手首が勝手に動かない。肩が上がりにくい。
「構えろ」
エイドは槍先をまっすぐ前へ出す。
足幅を調整する。左足を半歩前へ。膝を落とす。肩の力を抜く。息を吐く。
ローガンは木剣を持つ。
前回までの打ち合いと違う。剣の間合いは近い。槍の間合いは遠い。
遠いぶん、動きが見える。見えるぶん、誤魔化しが効かない。
「いくぞ、まずは防御だ」
ローガンが踏み込む。
エイドは槍を引かない。槍先を残したまま、柄の根元だけを動かす。
受けるのではなく、ずらす。ずらして、次の角度を作る。
木剣が槍の柄に当たる。乾いた音が響く。
槍の柄が弾かれ、手の内が震える。
エイドは震えを逃がす。肘を固めない。肩で受けない。足で支える。
ローガンがもう一歩踏み込む。
剣の届く距離へ来る。槍が長いぶん、詰められると苦しい。
エイドは一歩引くのではなく、半歩だけ横へずれる。
槍先を相手から外さないまま、足だけで角度を変える。
間合いがずれる。剣の軌道が変わる。
ローガンが言う。
「今のだ」
「槍は、腕で勝つな。足で勝て」
「詰められたら、距離を戻すな。角度を変えろ」
エイドは短く息を吐く。
動けている。頭が追いついている。
それだけで、前よりずっと楽だ。
「よし、次は魔法を戦闘の中に織り込め」
背中に、気配が寄った。
リュミエルは隣に来る。
ただし前へは出ない。出れば、それだけで戦いが壊れるのを知っている。だから、エイドの背中の位置に浮遊するように留まる。
リュミエルが戦うときは、少しだけ浮く。床から指一本ぶんだけ距離を取る。
それだけで移動が速くなる。靴底が擦れない。踏み込みに巻き込まれない。
エイドの槍先の延長線を避けるように、背中の斜め後ろに位置を取った。
槍の柄が返る場所。踏み込みの足が来る場所。そこを外して、同じ速度で付いていける。
影が揺れないように、呼吸も音も薄い。
リュミエルも、戦う姿勢をとった。
体を起こし、視線をローガンへ据える。
口は開かない。代わりに、エイドの意図が動く瞬間を待つ。
ローガンが言う。
「詠唱が要らない。お前の強みはそこだ」
「思ったものがそのまま形になる。——今のお前たちは自分たちの意図を共有できているからだ」
エイドは頷く。
自分が“言葉”を出すより先に、意識が走る。走った意識を、リュミエルが拾う。拾ったものを、光にする。
それができるのは、リュミエルが「人の意図」を組みやすいからだ、とローガンは言う。
人と生きた中位。経験が残っている。低位の精霊より、エイドの意味を掴むのが早かった。
ローガンが踏み込む。
エイドは槍を前へ出したまま、頭の中で一つだけ決める。
——目を奪う。
——一瞬でいい。
リュミエルが動く。
眩しい光ではない。
白い板のような光が、ローガンの視線の高さに薄く出る。幅は肩幅ほど。厚みはない。瞬間だけ現れて、消える。
ローガンの目は、逸れない。
光を“見ない”。見なくても、そこに何かが出たことは分かる。
木剣の軌道が、ほんのわずかに浅くなる。
止まったのではない。避けたのでもない。
——「余計なもの」が増えた瞬間、人は“守りの余白”を作る。
エイドはその余白に合わせて突く。
槍先が肩口へ届く。ローガンは木剣で払う。払った瞬間に、槍を押し返して距離を作る。
ローガンが言う。
「普通の戦士なら一拍だけ“反応”が出る。今のはそれを狙ったな」
「派手にするな。小さく、確実に。——攪乱は視線じゃない。相手の判断を遅らせる」
エイドは「はい」と短く答える。
派手にすれば、また自分の判断が揺れる。派手にすれば、自分の“基準”から外れる。今やっているのは、最小限の力で勝つための形だ。
ローガンが次の指示を出す。
「幻影を入れろ。輪郭だけでいい」
「相手に“判断”を一つ増やせ」
エイドは槍を構えたまま、頭の中で角度を決める。
——自分の右に、半歩。
——同じ動き。
ローガンが踏み込む。
その瞬間、リュミエルが光を出す。
エイドの右側に、薄い人影が一つ立つ。実体はない。輪郭だけ。床に影は落ちない。動きだけが、遅れて付いてくる。
ローガンは迷わない。
木剣の位置を一寸だけ変える。
“本体だけを斬る”軌道から、“どちらにも対応できる”軌道へ。
角度が浅くなる。
浅くなる分、攻めが鈍る。
——それが、増えた判断の代償だ。
エイドは槍を下から入れる。
ローガンは受ける。受けたとき、幻影が同じ動きを遅れてなぞる。
木剣が「触れなくていいもの」に触れそうになる。触れそうになるだけで、手元の力が散る。
ローガンが、声だけで言った。
「それだ」
「相手が嫌がるのは“気を取られる”からじゃない」
「次の手を決める前に、余計な判断が一つ増えるからだ」
そして、すぐ続ける。
「今の形なら——お前は次にこう動け」
「攪乱を置いた瞬間、槍先を追うな。槍先は“置け”。お前の足で、相手の逃げ道を潰せ」
ローガンが距離を取って、右手を軽く上げた。
「次は、俺も精霊を出す」
ローガンの肩口に、赤い光が浮かぶ。
火の精霊――フレア。炎の玉。小さい。だが熱がある。近くの空気が少し揺れる。
「火は速い」
ローガンが言う。
「避けるか、遮るか、先に動くか。判断を落とすな」
エイドは槍を構え直す。
視野を広げる。ローガンの剣。足。肩のフレア。自分の槍先。
全部を同時に見ようとすると、何も見えなくなる。
だから優先を決める。いま一番危険なのは何か。いま一番動くのは何か。
ローガンが動く。
フレアが火を吐く。小さな炎が、直線で飛ぶ。熱が先に来る。
エイドは槍の柄を横へ払って、炎の線を弾く。木が焦げる匂いがする。
弾いた瞬間、ローガンの木剣が来る。剣が、槍の内側へ入ろうとする。
エイドは足を動かす。
槍先を置く。槍先がローガンの胸の前に残る。
残った槍先が、剣の踏み込みを止める。
ローガンは止まらない。
止まらないまま、剣を槍の柄に当てる。
当てて、押す。押して、槍の角度をずらす。
ずれた角度に、フレアの火がもう一度走る。今度は曲線だ。逃げ道を潰す。
エイドは視野を広げたまま、身体を二つに分ける。
槍を捌く自分と、火を見る自分。
同時に動く。遅れない。
遅れないために、余計なことをしない。
リュミエルが背中の位置で動く。
エイドの意図が走った瞬間に、光が生まれる。
槍先の延長線に薄い光が伸び、ローガンの足元の影をずらす。
影がずれた分だけ、踏み込みの位置が半歩だけ狂う。
ローガンは狂いを受け止める。
受け止めたうえで、次の手を重ねる。
剣の軌道が変わる。火が変わる。
戦いが、少しずつ“同時並行”になっていく。
エイドは、息を吸う。
吸って、吐く。
息が荒れない。荒れないから視野が狭くならない。
視野が狭くならないから、判断を落とさない。
ローガンが一歩引いた。
フレアが火を引く。熱が収まる。
「止め」
ローガンの声で終わる。
エイドは槍を下ろして、肩の力を抜いた。
掌が少し痛い。握った場所が熱を持っている。
けれど、その痛みが「形になった」証拠みたいに残っている。
ローガンが言う。
「剣を見ろ。火を見ろ。精霊を見ろ」
「全部を見ろ。ただし、全部を同じ重さで見るな」
「お前は今、それができかけている」
エイドは短く返した。
「……はい、先生」
修練場を出ると、階段の上から地上の明るさが落ちてくる。
夏の匂いがする。土と草と、港の潮が混ざった匂い。
エイドは掌を見る。
木槍の粗さが残っている。握った場所が少し赤い。痛みはある。だが、その痛みが「形になった」証拠みたいに残っている。
リュミエルが隣に並ぶ。
いつも通りの距離。だが、今日は少しだけ違う。
「次は、もっと速く拾える」
リュミエルが言った。
エイドは頷く。
「……頼んだ」
「うん」
言葉は短い。
短いままで、できることが増えていく。
廊下の先で、生徒たちの足音が響いていた。
授業へ向かう音だ。




