第7章 余波
寮の廊下は、朝から少し湿っていた。
窓の外は明るいのに、空気は重い。水桶の縁に残った一滴が、いつまでも落ちない。食堂から漂う焼いたパンの匂いも、いつもより甘く感じた。
――校門前で人が集まった騒ぎから、数日。
門はもう静かだ。教師が立つ影も、以前と変わらない。騒ぎは引いた。引いたはずなのに、学園の中に残ったものは、まだ乾いていない。
エイドは洗面の水で顔を洗い、袖口で口元を拭う。そういう「普通の動作」を一つずつ積むと、頭の中が静かになる。
なるはずだった。
廊下を歩く足音が、リュミエルの気配で一瞬だけ揺れる。誰かが立ち止まり、誰かが言葉を飲み込む。視線が集まって、すぐに逸れる。そんな小さな波が、今日も何度か起きた。
リュミエルは隣に立っている。
隠れるでもなく、避けるでもなく、ただそこにいる。薄くしようともしない。できない部分もあるし、する必要もない、とでも言うみたいに。
「今日は、暑いね」
リュミエルが廊下の光を眺めた。
「……夏が近いからかな」
「夏って、人が増える季節?」
「……増える、っていうより、動く、かな」
エイドは言いながら、言葉の選び方が変になっていることに気づく。数日前から、何かが「動いた」のは、人だけじゃない。空気の距離も、校舎の沈黙も。
食堂の扉を抜けると、朝のざわめきが一度大きくなる。椅子の脚が鳴り、器が触れ合う音が散る。その中で、エイドとリュミエルの横を通る視線だけが、妙に明瞭だった。
ミレイは、窓際に座っていた。背筋がまっすぐで、食べる速度も無駄がない。エイドが近づくと、視線だけで「こっち」と示す。
「眠れた?」
「……まあ」
「校門の話、まだ残ってるね」
ミレイの声は淡い。騒ぎの大きさを言わない。残っている事実だけを置く。
エイドは返事を探して、結局やめた。パンをちぎる。指先が少しだけ湿っている。
「今日、何かある?」
「たぶん、先生が言う。……数日前から、上級生だけ呼ばれてるでしょ」
ミレイが言う。確かに、ここ数日、廊下で短い呼び止めが増えた。掲示ではなく、口頭で。残らない形で。
校舎に入ると、廊下の空気は少し冷える。
角を曲がったところで、教師が数人を呼び止めていた。上級生だけだ。名前を呼ばれるのではなく、視線で集められる。言葉は短く、声は抑えられている。
「いいか。門で何を言われても応対しない」
教師はまずそれだけを言った。
「外の者は教師が対応する。生徒は中を守れ。――下の学年が外に引っ張られそうなら、止めろ。守れ」
守れ、と言ったが、守り方は決めつけない。拳を作れという意味じゃない。声を荒げろという意味でもない。行動を整えろ、という意味だ。
教師は視線を巡らせ、余計な名前を出さずに続ける。
「ここには、ここで学ぶ者がいる。等しくだ。誰か一人を特別にしない。……それだけは忘れるな」
淡々とした言い方が、逆に強かった。
上級生たちは小さく頷く。ミレイも同じように頷く。ここにいる者たちの頷きは、数日前の門前で何かを“背負った”頷きではなく、明日を守るための頷きだった。
教師は最後に一度だけ目を細めた。
「――余計なことはするな。必要だと思うことだけやれ」
言い終えると、教師は踵を返す。言い訳もしないし、恐れを煽りもしない。手順だけを渡して去っていった。
教室に入ると、一瞬だけ、空気が止まる。
誰もが挨拶を忘れたわけではない。雑談が消えたわけでもない。ただ、エイドが扉をくぐった瞬間だけ、まるで糸が張ったみたいに一瞬だけ静かになる。
そしてすぐ、元に戻る。
エイドはそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。戻るということは、みんなが「戻り方」を覚えたということだ。見てしまう。逸らす。いつもの会話へ戻る。――それを、学園は数か月かけて身につけた。
エイドは席に座り、息を整える。
ミレイはいつも通り教科書を開く。机の角を揃える。その動作が、教室の“普通”を押し戻していく。
ホームルームが始まると、担任のローガン先生は連絡事項を淡々と読み上げた。声は平坦で、余計な温度はない。数日前の門前の話も、今日の誰かの噂も、ここには持ち込まれない。
その間、リュミエルはいない。
屋根の端、瓦の影。日の光に溶けるように腰を下ろして、校舎の上から学園を見下ろしている。授業の場に立てば邪魔になることを、彼女も分かっている。だから、ここでは距離を取る。――隠れるためではなく、生活を壊さないために。
ホームルームが終わると、教室の空気がほどけた。
生徒たちは次の授業へ、椅子の脚を鳴らしながら動き出す。廊下へ流れる足音が増える。今日の一日が、ようやく前へ転がり出す。
エイドだけが、流れから外れる。
訓練だ。
教室を出て階段を降り、人気の薄い踊り場まで来たところで、上から小さな影が降りてきた。
光が落ちるのではない。人が軽く着地するみたいに。瓦の匂いを少しだけ連れて、リュミエルが隣に立つ。
「終わった?」
「……うん。今から訓練」
「一緒に行く」
当たり前みたいな言い方だった。エイドは頷く。
廊下の角を曲がると、授業へ向かう生徒の流れが見えた。ミレイもその中にいる。目が合って、ミレイは小さく顎を引く。言葉はない。それで十分だった。
エイドは流れと逆へ歩き出す。
地上の明るさが背中に残り、階段を降りるほど学園のもう一つの顔が濃くなる。訓練の匂いが近づく。リュミエルの足音はほとんどしないのに、隣にいる重みだけは、確かだった。
・・・
昼前、ミレイは――廊下でざわめき声が聞こえてきた。
大きな騒ぎではない。笑い声が少し高いだけだ。けれど、その中心が「外」ではなく、教室の扉の前に寄っているのが分かった。新入生が数人、鞄の紐を指で弄びながら、落ち着かない顔で集まっている。
「……礼拝、今日もあるらしいよ」
誰かが、声を落として言った。
「教会で。光の精霊を信仰してる人たちの集会」
「見に行ってみたくない? ちょっとだけ」
新入生は慣れてきたぶん、好奇心に足が出る。――だから余計に厄介だった。
校則を破ると宣言しているわけではない。ただ、“抜け道”を探すときの目をしている。
「授業、戻ったら間に合うでしょ」
「先生に言うと止められるから、内緒で……」
数日前の騒ぎはもう引いている。だからこそ、気持ちだけが軽くなる。軽くなると、校則の重さを忘れてしまう。
新入生の一人が笑いを含ませた。
「信者さんたちって、どんな感じなんだろ。……本当に、光の精霊様って言うのかな」
その興味は悪意じゃない。
けれど、悪意じゃないものほど、止めにくい。
ミレイが廊下の角に立った。
「――話、聞こえてたわよ。戻って」
声は大きくない。命令でもない。けれど、足を止めさせるだけの静けさがある。
新入生の一人が、少しだけ肩をすくめる。
「え、ちょっとだけだよ。教会を覗くくらい……」
ミレイは眉も吊り上げない。
「別に信仰を止めたいわけじゃない」
最初にそこを置く。
ただ、譲らない場所だけをはっきりさせる。
「でも今日は授業の日。学校を抜け出すのは校則違反。――それに、興味本位で近づいても、誰も守れない」
新入生は口を開きかけて、閉じた。
“巻き込まれる”という言葉が、言わずとも刺さった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。――授業に戻ろう」
ミレイは“戻る”という動詞で終わらせた。正しさで押さない。行動で整える。
群れが解ける。廊下が元の流れに戻る。
・・・
午後、新入生が運んできた紙束が、廊下の段差で傾いて、散った。
慌てて拾おうとして、さらに崩す。
エイドは反射で近づいた。
「……大丈夫?」
新入生は顔を上げ、固まる。数秒、迷っている。近づいていいのか、避けるべきなのか。答えがないから、立ち止まる。
エイドはその沈黙を急かさない。紙束をまとめる。端を揃える。淡々と手を動かす。
「ありがとうございます……先輩、やさしいんですね」
言葉が出たあと、新入生は少しだけ安心した顔になった。自分の言い方が間違っていないか、恐れている顔でもあった。
エイドは小さく息を吐き、軽く笑う。
「……普通だよ。……まあ、そういう立場だし」
「最高学年だから?」
「……そうだ」
言い過ぎない。誇らない。否定もしない。ちょうどいいところで止める。
リュミエルはそのやりとりを、少し不思議そうに見ていた。
「あなたは、今……何も考えずに、助けた」
「手で拾っただけだ」
「でも、あの子は感謝してた」
リュミエルが言うと、それが“事実”になった。
エイドは紙を渡し、紙束を新入生の腕に乗せる。肩を叩くほど馴れ馴れしくしない。距離を間違えない。
「気をつけて」
新入生は何度も頷いて、去っていった。
エイドは席に戻りながら、ふと自分の手を見る。魔法は出ていない。けれど、今日はたしかに何かを“整えた”。
リュミエルが隣に戻る。
隣に立つだけで世界が少し揺れる存在が、今は静かにそこにいる。揺れを消すのではなく、揺れの中で立つ練習をしているみたいに。
・・・
夜、寮の談話室は灯りが柔らかかった。
窓の外は暗い。遠くで港のほうの音がする。日中の熱が壁に残っていて、椅子に背を預けると少し温かい。
エイドは机に肘をつき、指先を組んだ。今日一日、何かをしたというより、何もしないために気を張っていた気がする。
リュミエルが向かいの椅子に腰を下ろす。椅子の脚が小さく鳴った。
「疲れた?」
「……いつものこと」
短く答えると、少しだけ楽になる。
リュミエルは頷いた。
「今日は、みんなの目が……すこし硬かった」
「……俺じゃなくて、“光”を見てるんだ」
口にしてしまうと、胸の奥がひりついた。言うべきじゃない気もした。言ってもどうにもならない気もした。
でも、リュミエルは否定しなかった。
「あなたが、精霊を持ってるから?」
「……たぶん」
「じゃあ、あなたは?」
リュミエルは問い返した。責める声ではない。分からないから確かめる声だった。
エイドはすぐに答えが出ない。自分のことを説明するのは苦手だ。説明した瞬間に、像が固まってしまう気がする。
だから、少しだけ違う言い方を選ぶ。
「……俺は、ここで勉強したいだけだ」
「それは、分かる」
リュミエルは静かに言った。
「人は、勝手にイメージを作るよね。自分の中に理解を作るほうが安心するから」
その言い方が、妙に現実的だった。リュミエルは人のことを分からないのではなく、理解の仕方が違う。刺さるところを避けないで、刺さる理由を拾っていく。
「……だから、学長が止めたんだろ」
「うん。止めた。――あなたを守るために」
「……」
守る、という言葉は苦手だ。守られると弱くなるみたいで嫌だ。けれど今日、ミレイが新入生を“戻す”ことで守ったのも事実だし、エイドが下級生を支えたことで守ったのも事実だ。
守りは、弱さの証明じゃない。むしろ強さだ。
リュミエルが言う。
「私は、まだ……上手くできない」
「何が」
「あなたが疲れる場所を、避けるの」
エイドは苦笑した。
「それは、俺も上手くできてない」
一瞬、二人の間の空気がほどける。
リュミエルは、ほどけた空気の中で言った。
「でも、覚える。――あなたとのこの生活の速度を」
基準の話ではない。けれど、同じ話の続きだった。
エイドは頷いた。
「……頼む」
・・・
同じ夜。
別の場所では、灯りの色が違った。
紙の上に、整った文字が並ぶ。言葉が選ばれ、削られ、磨かれていく。事実は、報告という形に変わる。
プラムは筆を止めず、淡々と書き続けた。
「……民の求めは強い。教会の集いは、衝動ではなく祈りに近い」
言葉を置き換える。善意を、価値へ変える。
「学園は拒む。隔離を嫌い、監視を嫌い、等しさを掲げる」
等しさ。便利な言葉だ。こちらの側から見れば、傲慢にもなる。閉鎖にもなる。守りにもなる。
プラムはそこに活路を見出す。
「制度だけでは間に合わない、彼は精霊の制御を完璧にしてしまう」
筆先が少しだけ重くなる。
次の行は、声に出さずに書いた。
必要なのは“議論”ではない。
――ならば、制度ではない手を使う。
名を捨てた者たち。責任を残さず、結果だけを持ち帰る者たち。祈りのために顔を捨て、夜の顔で動く者たち。
プラムは報告書を折り、封をした。
窓の外は静かだった。静かな夜ほど、よく進む。
「祈りは、火をつけるには十分だ。
だが、欲しいのは熱ではない。――光の精霊そのものだ。」
誰にともなく呟いて、プラムは灯りを落とした。




