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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
21/26

第6章 善意の騒動


初夏の朝は、風がよく通る。


校舎の窓を開けると、湿った匂いに混じって潮の気配が入ってくる。リーベは港の街だと、こういう時に思い出す。

その穏やかさに似合わないざわめきが、門の方から上がっていた。


「……なんか、声がする」


ミレイが机から顔を上げる。耳だけで状況を測る声だった。

エイドも立ち上がって窓辺に寄り、門の方を見下ろした。


人がいる。

数がいる。

そして、白い布がいくつも揺れている。


祈りの白――そういう種類の白だ。日差しの白ではなく、手に取った正しさの白。


「……来たね」

ミレイが小さく言った。


エイドは答えられなかった。答えが分かってしまいそうだったからだ。


隣のリュミエルは、窓の外を眺めて首を傾げた。


「みんな、どうしたの?」

「……会いに来たんだ」


言った瞬間、胸が少しだけ重くなる。

会いに来た、という言い方は優しい。だが、優しさだけで人は集まらない。集まった善意は、押す力になる。


門の方から上がる声は、ここまでくると「言葉」ではなく「熱」だった。何を言っているかまでは聞き取れない。けれど、ひとつの願いが寄り集まって、数になっていく圧だけが伝わってくる。


廊下を、教師が足早に通り過ぎた。

その後ろを、ローガンが無言で追う。足音が少ない。状況の中心に先に立つ者の歩き方だ。


教室の扉口で、ローガンが一度だけ振り向く。


「門へ行く。お前は動くな」


それだけ言って、ローガンは踵を返した。ただ、これ以上の燃料を足さないための判断だった。


エイドはただ頷いた。

「……はい」


ローガンは視線をミレイにも一度だけ投げ、何も言わずに去った。言わないことで「同じだ」と伝える。


ミレイは窓の外を見たまま、低く息を吐く。

「出たら、余計に騒がれるだろうからね」


「……分かってる」


分かっている。だから、ここにいる。

それでも、窓の外の白は近い。近いのに触れられない距離が、余計に息苦しい。


そのとき、リュミエルが静かに立ち上がった。

「ちょっと、見てくる」


「ここから見えるだろ」

エイドが言うと、リュミエルは首を振る。


「ここからだと、“人の気持ち”が分からない。近いけど、遠い」


言い終える前に、彼女は教室の外へ滑るように出た。気配が薄い。視線に引っかからない歩き方は覚えつつある。――まだ、完全ではない。


――屋根の端、瓦の影に溶けるようにして、リュミエルは黙って門前を見下ろしていた。


門前は、すでに教師が数人で線を作っていた。


ローガンが立つと、街の群衆の熱が一段上がる。上がるが、越えない。越えさせないための線だ。

門の外側には、街の人々。知らない顔ではない。市場で見た女、酒場で見た男、荷運びをしている青年。日常の中の人間が、今日は「群れ」になっている。


先頭に立つ年配の男は、穏やかな笑みを崩さない。穏やかさを保てる者は、群衆の中で強い。


「先生方。恐れる必要はありません」

男は両手を開いて見せる。武器も悪意もないという仕草だ。

「我々はただ、敬意を捧げたいのです。――光の精霊様に」


その呼び名が出た瞬間、ローガンの胃の奥がわずかに重くなる。

“様”は、善意の形をして距離を壊す。距離が壊れれば、孤立が生まれる。


教師の一人が静かに返す。

「学園は見世物ではありません」


「見世物などと!」

男はすぐ否定する。否定の速さが、用意された言葉だと告げている。

「違うのです。我々は善意で――」


善意という言葉が出た瞬間、周囲の頷きが揃う。

揃う頷きは、正しさの暴力になる。


門の内側で、教師の指先が冷えた。

ここで生徒の名を出せば、それが合図になる。誰かを呼べば、群れは「許可された」と誤解する。誤解は、次の行動に変わる。教師たちはそれを知っていた。だからこそ、言葉を慎重に選ぶ。


――講堂で、学長が止めた“神格化”の芯が、いま門前で形になって押し寄せている。


そのとき、空気が一段だけ静かになった。


静かになる前触れはなかった。

ただ、静かになった。

人の群れが無意識に道を空けるように、視線が一点に寄る。


エルヴァン先生が来た。


学長は急がない。急がないのに、到着した瞬間に場の主導権を取り戻す。

大声を出さない。大声を出さないまま、門前を“学校の空気”に変える。


「ここは学校だ。お帰り願おう」


一言目は、それだけだった。


男が礼儀正しく頭を下げる。

「学長先生。お噂は伺っております。我々は決して――」


「噂に惑わされてはいけない」

エルヴァン先生は柔らかく言った。叱ってはいない。だが逃げ道が減る言い方だ。

「甘い言葉を言う者ほど、人を雑に扱う。君たちは雑に扱っているつもりはないだろう。だが、結果は同じになる」


男の笑みが僅かに固くなる。

固くなるが、すぐに戻す。戻せる者が先頭に立っている。


「我々はただ、ひと目」

「“ひと目だけ”が群れになると、ひと目では済まなくなる」


先生は門の外側をゆっくり見渡した。誰か一人を責めない。群れ全体を“構造”として見ている。


「願いは人間らしい。だが学校で願いを通す方法は決まっている。願いが群れになった瞬間、その願いは他人の居場所を奪う」


居場所。

その言葉に、教師たちの肩の力がほんの少し落ちる。学長が、責任の中心に立った。


先生は続ける。


「この学園では、生徒を象徴にしない。神格化しない。隔離もしない。ここにいる者は皆、学ぶためにいる」


名前を出さない。

“あの子”とも“その精霊”とも言わない。

個人を指さないまま、態度だけを正す。


「誰かを“特別な呼び名”で括るな。括った瞬間、その者は君たちの都合に合わせた像にされる。像はやがて、誰かを傷つける」


門の外側がざわりと揺れる。

反発ではない。理解できてしまう揺れだ。理解できてしまうからこそ腹が立つ揺れ。


男が言葉を変える。

「ならば、学園に協力を。治安のために、秩序のために。我々は――」


「不要だ」

先生は即座に言った。即答なのに、冷たくない。

「協力は借りになる。借りができれば、次は“お願い”が来る。お願いが来れば、断った者が悪になる。学園はその構図に乗らない」


男の笑みが、今度は戻りきらない。

戻りきらないまま、礼儀を保つ。


「……承知しました。では、せめて祈りだけでも」

「祈りは、各自の胸の内で済ませなさい」


先生は声を荒げない。

荒げないまま、線を引く。


「門は開けない。ここは学校だ」


しばらく沈黙が落ちる。

沈黙の間に、群衆の中で誰かが小さく呻いた。


「……でも、光の精霊様は――」


その一言が、最後のひと押しになる。

ローガンは、群衆の“押し方”の巧さに息を吐いた。


「……押し方が上手い」


押されているのは門ではない。

学校の線でもない。

“ここにいるはずの誰か”の居場所だ。


エルヴァン先生は、門の外側をゆっくり見渡した。

そして、最後に一つだけ言う。


「君たちが善意であることは疑わない。だからこそ言う。善意で人を一人にするな」


その言葉で、群衆の勢いが一段落ちた。

落ちるが、消えない。消えないものが残る。善意は引いても、記憶として残る。


年配の男が、丁寧に頭を下げる。

「……失礼しました。学長先生のご判断に従います」


従う、と言う。

従う、と言うこと自体が、次の材料になる。

エルヴァン先生はそれを分かった上で、表情を変えない。


群衆が散り始める。散りながら、振り返る。振り返りながら、口々に小さく言う。


「見たかっただけなのに」

「悪いことじゃないだろう」

「正義の光なんだ」


怒りではない。

自分の善意を守る声だ。善意は、時に本人にとって一番大事なものになる。


門前が落ち着いたあと、ローガンはようやく息を吐いた。

汗が背中に張りついている。訓練の汗ではない。心が熱を持った汗だ。


「……エルヴァン学長」

ローガンが言うと、エルヴァン先生は振り向かずに返した。


「君が悪い顔をする必要はない。悪いのは君ではなく、距離の取り方だ」


教育者の言葉だった。責めない。だが譲らない。


ローガンが短く言う。

「次は、同じ形では済まないかと」


エルヴァン先生は、それにだけ小さく頷いたように見えた。

ローガンは踵を返した。


教室の窓辺で、エイドとミレイはまだ動けずにいた。


門前の輪は解けた。白い布は散った。

それでも、残るものがある。声の残り香。視線の残り熱。善意が作った像の手触り。


そこへ、リュミエルが戻ってくる。いつものように静かに、いつもの距離へ。


「……見せたら、だめだった?」

小さな声だった。彼女が誰かを怖がる声ではない。人の距離を量り損ねた時の声だ。


ミレイが即答する。

「だめ。……見せたら、隣が“隣”じゃなくなるわ」


その言い方が、いちばん現実だった。


エイドは、窓の外を見た。初夏の風が木を揺らす。風は気持ちいいのに、胸の奥は少し冷えたままだ。


善意の群れは、今日で終わらない。

終わらないからこそ、今日の線引きが必要だった。


教師たちは歩き出す。校舎へ戻る背中に、視線が残っている気がした。

視線は触れない。触れないから長く残る。

そして長く残るものほど、次の騒動を呼ぶ。

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