第5章 自分の居場所
初夏の空気は、まだ決めきれない顔をしていた。
朝は涼しく、昼は蒸す。雲が切れると日差しだけが先に夏になって、石畳の照り返しが足裏に張りつく。窓を開ければ青草の匂いが入り、閉めれば制服の中に熱が溜まる。廊下の端に立つだけで、汗が「ここにいる」と自己主張してくる季節だ。
その季節の始まりを、エイドは息の苦しさで知っていた。
「もう一本」
ローガンの声が、空気の湿り気を切る。短い。情がない。だから逃げ道もない。
エイドは木の棒を構え直した。乾いた木なら滑ったはずだ。今日は湿っている。掌に吸いつき、吸いついた分だけ指が固くなる。固いと肩が上がる。肩が上がると呼吸が浅くなる。浅くなると、足が遅れる。
——遅れるな。
頭の中で命令が増える。命令が増えるほど、体は動かなくなる。
ローガンが踏み込んだ。
棒と棒がぶつかった。音は軽いのに、衝撃だけが重い。腕が痺れる。受けるたびに、腕の内側がじわじわ熱くなる。熱は痛みに変わり、痛みは焦りになる。
エイドは一歩下がった。
そこに、ローガンの棒が斜めに入る。避けるより先に体が固まった。固まった瞬間、棒が肩口を叩いた。打ち込まれたのではない。叩かれただけだ。叩かれただけなのに、膝が揺れた。
「終わりだ」
ローガンが言った。声色は変わらない。
エイドは膝に手をついた。息を吸っても肺が満ちない。空気が湿っているせいじゃない。体が、今までの無駄を全部露呈させている。
「……っ、は……」
呼吸が浅い。浅いまま、胸が痛い。胸が痛いまま、視界が揺れる。情けない、という言葉が先に出そうになって、喉で止まった。
ローガンは近づいてこない。近づかないことが、逆に逃げを許さない。
「立て」
短い命令。いつも通りの声で、いつも通りに背筋が伸びる——はずだった。
エイドは立とうとして、足が遅れた。遅れた分だけ、頭の中に疑問が湧く。
(……なんで、俺はこんなことをしてるんだっけ)
魔法学校だ。精霊と契約した。光の精霊が隣にいる。普通なら、棒を振り回すより先に魔法を練習するべきだ。
それでもローガンは、こういう訓練をするようになった。
「精霊がいなくても戦えるようになれ。巻き込まれても倒れるな」
以前言われた言葉が、息の隙間に刺さる。
巻き込まれる状況は選べない。精霊が出せない状況も選べない。精霊が出せる状況ですら、出していいかは選べない。
——あの夜の光が、頭をよぎる。
街を白く塗った光。自分の選択を間違いだとは思わない。思わない、けれど。あの後から、世界が少しだけ違う。
違う世界で、倒れないための訓練だ。
エイドは口を開いた。目上に対する、いつもの口調のまま。
「……はい、先生」
棒を握り直す。握り直した瞬間、指が固くなるのが分かった。分かったのに、抜けない。疲れていると、抜けない。
隣でリュミエルが、覗き込むように言った。
「指に力、入れすぎ。手首が固い」
「……分かるのか」
「分かるよ。力って、漏れるから」
漏れる。
その言葉が、胸の奥に残った。魔法も同じだ。漏れると、揺れる。揺れると、止めるのが難しくなる。止めるのが難しくなると、また余計が増える。余計は螺旋になる。
ローガンはエイドの足元を一度だけ見て、首を僅かに振った。
「余計に動くな。余計に動くと、余計に消耗する」
それから顎で棒を示す。
「次。魔法だ。握ったまま出せ。体勢が崩れたまま魔法を使う癖を、今のうちに殺せ」
エイドは頷いた。棒を握ったまま、意識を内側へ寄せる。魔力を整えて、狙った場所へ届かせる。
——届かせる。
そう思った瞬間、頭の中で勝手にもう一つが立ち上がる。
——止める。
止める不安が、届かせるイメージに絡んで、二重になる。二重になると、どちらも薄くなる。薄くなった分だけ、力で押してしまいたくなる。押せば結果は出る。結果は出るが、次が怖い。
リュミエルが静かに言った。
「今、二つ考えた」
エイドの眉が動く。
「……え」
「届かせるのと、止めるの。両方握ってる。だから揺れる」
リュミエルは淡々と言った。
「止めるのは、あとでいい。今は届かせるだけ」
エイドは一度息を吐いた。自分の中の“余計”が、音を立てている気がする。自分で余計だと分かるのに、捨てられない。それが一番腹立たしい。腹が立つと、また余計が増える。
ローガンが短く言う。
「イメージを重ねるな。一本にしろ」
リュミエルが言う。
「一本。まっすぐ。余計な枝を出さない」
エイドは頷いて、もう一度だけ同じ動作をする。
止める不安を握らない。止めるのは手順に預ける。二人の“基準”に預ける。今ここで握るのは、届かせる一本だけ。
——小さな魔力で、同じ結果。
光が弾けるのではなく、一本、細い線が通った。届いた先だけが、じわりと熱を持つ。
派手ではない。光が弾けることも、視界が白むこともない。けれど確かに、狙った場所だけが反応する。草が揺れるほどでもないのに、触れたことが分かる。押したのではなく、通した。余計な熱も、余計な反動も、ほとんど残らない。
エイドは気づく。
いつもの自分なら、ここで「効いたか」を確かめたくて、もう少しだけ足してしまう。足した分は安心になるが、同時に漏れになる。漏れは癖になり、癖はすぐに大きくなる。
——今のは、足さなくても届いた。
息が乱れない。肩が上がらない。指先だけが、軽く熱い。魔力が暴れて熱くなるのではなく、必要な分だけ流れた痕として熱が残る。そこに無駄がない。
通った線が、体の中にも一本残る。
胸の内側が、すっと軽くなる。
「成功」という軽さではない。「余計が落ちた」という軽さだ。
「……できた」
エイドが呟く。
「できたね」
リュミエルは嬉しそうでもなく、当然のように言う。針の揺れを読むみたいに淡々としている。
「今のほうが、あなたっぽい」
“あなたっぽい”。
その言葉が、妙に助けになった。強いからではない。増えたからでもない。
出すために力を押し上げたのではなく、出る邪魔をしていたものを外した感覚。
光の魔法は使えてた。届かせること自体は、前からできた。
けれど今、届かせ方が変わった。余計を削って、同じ結果を、軽く通す。形が洗練されていく。
制御が、成長に変わる。
そして成長は、“大きくなる”より先に、“澄んでいく”。
ローガンが言った。
「続けろ。今のを十回」
「はい、先生」
十回目が終わる頃には、指先が熱かった。蒸し暑さとは違う熱だ。無駄を削った分だけ、結果が体に乗る熱。無駄を削ったぶん、疲れ方も違う。息が上がるのではなく、芯が熱い。芯が熱いのは、ちゃんと使った証拠だ。
ローガンが棒を回収しながら言う。
「覚えておけ。制御は癖になる。いい癖は戦闘で生きる」
それは励ましじゃない。確認だった。
いざという時に立っているか、倒れているか——その差は、派手な力じゃなく、日々の癖で決まる。
校舎へ戻る廊下は、空気が少しだけ重い。
湿気のせいではない。人の気配の重さだ。足を止める者、目を逸らす者、妙にゆっくり近づく者。どれも同じ学園の仲間のはずなのに、距離が毎回違う。違う距離に合わせ続けると、自分が削られる。ミレイの言葉が、もう先に頭の中で鳴っていた。
「……えっと。あの……“光の人”…」
声がかかった。小さくて、やけに慎重な声だ。慎重なのに、距離が近い。
振り向くと、見覚えのある女子が立っていた。自分のクラスじゃない。廊下ですれ違うたびに見かける、隣のクラスの子。名前は——確か、ユーノ。呼ばれていたのを一度聞いた程度で、エイドはまともに話したことがない。
呼び方の瞬間、ユーノの目がわずかに泳いだ。自分でまずいと気づいた顔だ。
「……ごめん。えっと、エイド……? で、合ってるよね」
語尾が消えそうなくらい弱い。制服の袖口を指先でつまんで、離さない。勇気を出して来たのが、仕草だけで分かる。
エイドは喉の奥で息を飲んだ。
“光の人”——嫌だと思う呼び名を、口に出された。悪意がないのが余計にきつい。
「……うん、そうだよ」
返事は短くなる。短くすると角が立つと分かっていても、長くできない。
ユーノは小さく頷いて、言い直す。
「今日さ……大丈夫だった?」
言い方は優しい。けれど視線が、優しさの形をしていない。心配というより“確認”に近い。何が起きたのか、どこまで危ないのか、どこまで近づいていいのか。そういう距離の測り方をする目。
「変な聞き方だったらごめんね」
「私、隣のクラスだから……直接は何も知らないんだけど」
「……みんな、色々言ってて」
“みんなが言ってて”。
言葉が理由になってしまう。自分の気持ちじゃなく、周囲の話で近づいてきたと分かる。
エイドは返事を探したが、探す時間が許されない。沈黙は「何かある」と同義になる。
「……大丈夫だよ」
声は丁寧に整えた。丁寧さは壁になる。壁は冷たいが、今は必要だ。
「そ、そっか……」
ユーノは頷いた。頷いたが、そこで会話を終われない顔をしている。終わらせたいのに終わらせられない顔だ。
一拍置いて、彼女は小さく続けた。
「……あのさ」
「“光の人”って呼び方、私も良くないと思う」
「さっき、私も言っちゃったけど……」
「……ごめん。ほんとに」
謝罪は本物だ。けれど、謝ったからといって距離が戻るわけじゃない。
エイドは一瞬だけ言葉に詰まって、それを隠すように口を開いた。
「……ううん、平気だよ」
それ以上、何を言えばいいのか分からない。
「うん……」
ユーノは笑った。笑ったが、笑いが宙に浮く。気まずさだけが残る。
会話が成立しないまま、形だけの終わりが置かれていく。
「……じゃ、また」
“また”の約束だけが残る。次があるように言うのに、次の距離が決まっていない。決まっていない距離は、怖い。
ユーノは一度だけリュミエルをちらりと見て、それから逃げるように歩き去った。
背後で誰かが小さく囁いた。
「光の人……」
最近、その呼び方が増えた。
名前ではない。肩書きでもない。まして称号でもない。呼び名のようでいて、距離の置き方の宣言だ。人間として近づく代わりに、現象として扱う。現象なら、怖くても手が届かない。手が届かないなら、無責任に言葉を投げられる。
エイドはそれが、どうしても好きになれなかった。
“光の人”と呼ばれるたびに、エイド自身が薄くなる。自分の失敗も努力も、全部ひとまとめにされる。怖い、神々しい、危ない、救う、壊す。相反するものが同じ箱に放り込まれて、蓋だけが閉められる感覚。
リュミエルが小さく首を傾げた。
「今の、あなたのこと?」
「……そう呼ばれてる」
「嫌?」
「……嫌だな」
素直に言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。言わずに飲み込むと、もっと重くなると知ってしまったからだ。
「どうして?」
リュミエルは本気で不思議そうだった。
「人じゃなくなる感じがする」
エイドは言葉を探した。
「俺が、俺じゃなくなる」
リュミエルは少し考えてから言った。
「じゃあ、名前で呼ばれたい?」
「……うん」
曲がり角で、わざと雑な声が飛んだ。
「ねえ、光の人」
今度ははっきりと刺してきた。距離を詰める勇気がないから、言葉で刺す。刺して反応を見て、自分の安全を確かめる。
エイドが足を止めるより早く、つかつかとこちらに歩いてきたミレイが一歩前に出た。
「名前で呼んで」
声音は冷たいわけではない。ただ硬い。
「呼べないなら、話しかけないで」
相手は鼻で笑って去っていった。勝った顔をしていないのに勝ち負けがつく。その種類の面倒くささが残る。
エイドは小さく息を吐いた。
「……助かったよ」
「助けてない」
ミレイはさらっと言う。
「距離を整えただけ」
ミレイが続ける。
「反応に応じて自分を変えちゃダメ。相手の都合に合わせ始めると、どこまででも削られるわよ」
「……うん」
廊下の掲示板の前に人が集まっていた。新しい紙が増えている。連絡網。集合場所。合図。教師への通報経路。誰かが一人になったとき、どう繋ぐか。手順が増えている。
誰かを監視するための仕組みではない。誰かを置き去りにしないための仕組みだ。
「これ、先生たちが回すんじゃないんだ」
エイドがぽつりと言うと、ミレイが頷いた。
「自治、ってそういうこと」
リュミエルが小さく言う。
「優しいね」
「……優しいって言葉で合ってるのか分からないけど」
「合ってる。置いていかないって書いてある」
午後、招集がかかったのは、その日のうちだった。
「講堂に集合。全学年」
短い掲示。説明はない。説明がないから、余計に空気がざわつく。ざわつくのは不安のせいではなく、予感のせいだ。学園が、何かを言わなければならないという予感。
講堂へ向かう廊下で、エイドは何度も耳にした。
「光の人も来るのかな」
「来るでしょ、最高学年だし」
「本当に……光の精霊って……」
「——きれいだね」
その言葉の端々が、エイドの背中を冷やす。神格化。特別視。勝手に上に上げられ、勝手に落とされる。そういうのが一番危ない。エイド自身が危ないのではない。周囲が作る“像”が危ない。
その像は、人を救うためではなく、安心するために作られる。
安心するための像は、現実を壊す。
講堂の中は、熱かった。人の数だけ熱がある。息がある。ざわめきが梁に溜まり、落ちてくる。前列には新入生、後方には上級生。教師は壁際に立つ。全員が同じ方向を見る。
壇上に学長が立った。
魔法区森の長老、エルヴァン先生。契約の夜、あの場を収めてくれたその人は、場を支配しようとしないのに、視線だけで場を整える。逃げ道を残さない澄んだ目。
エルヴァン先生は最初にこう言った。
「この学園は、誰かを特別扱いしない」
ざわめきが一瞬で薄くなる。息を止めた音が見える気がした。エイドの胸が僅かに跳ねる。言い方が強い。逃げ道がない。
先生は続ける。
「ここにいる者は、誰も例外ではない。誰かを持ち上げて祭り上げるのも、恐れて遠ざけるのも、同じ誤りだ」
「“特別な呼び名”で人を括るな。括った瞬間、その人は現象になり、君たちの都合に合わせた像にされる。像はやがて、誰かを傷つける」
「学園は、守るために隔離はしない。監視のために精霊を使うこともしない。ここで守るべきは、力ではなく尊厳だ」
空気が揺れた。安堵と不安が同時に広がる。監視が増えないことに安堵する者もいれば、監視がないことに不安を覚える者もいる。そして、その揺れの中にもう一つ混ざる。特別扱いが消えることを惜しむ目だ。
先生は、その揺れを否定しないまま言葉を重ねた。
「最近、生徒の分断を狙う者たちが街にいるという話が入った」
「その狙いをくじくために、我々はここでの自治を強める」
「互いを縛るためではなく、互いを置いていかないために」
そこで先生は、一瞬だけ間を置いた。間が置かれると、講堂の空気が重くなる。重いのに、耳はよく聞こえる。こういうとき、人は本当に聞いてしまう。
「そして——人を神にしてはならん」
言葉が落ちた。
ざわめきが消える。消えた瞬間の静けさが、音として残る。
先生は淡々と言った。
「誰かを神に仕立てることは、誰かを人ではなくすることだ」
「人から外したものに、都合のいい期待を載せてしまう」
「期待は、失望へ変わることもある」
「失望は、時に人を暴力的にさせてしまう」
一つずつ、階段を降りるみたいに言葉が積まれていく。責める声ではない。事実を言う声だ。事実を言われると、逃げられない。
「精霊は道具ではない」
先生は続ける。
「救いの象徴でも、罰の象徴でもない」
「精霊を都合のいい物語に押し込めてはいけない」
「学園だけでなく一魔法使いとして、それを許さない」
午後の招集の理由が、そこで形になる。学園は、生徒の特別視や神格化がいかんだと思っている。だから言う。言葉にしなければ、空気は勝手に流れる。勝手に流れる空気は、いつか誰かを潰す。
先生は最後に言った。
「自治は、監視の代わりではない」
「自治は、互いの尊厳を守るための手順と捉えなさい」
「手順と合図は、自由を奪うためにあるのではない。問題に直面した際に迷いを減らすためにある」
宣言だった。責任の放棄ではない。責任の取り方を選ぶ宣言だ。
エイドの胸の奥の何かが、静かにほどけていく。
——ここに居ていい。
特別扱いされることが救いではない。特別扱いされないことが、ようやく救いになる。
隣でリュミエルが、ほんの小さく頷いた。
「守られる、じゃないんだね」
「……並ぶ、ってことだ」
エイドが答えると、リュミエルは目を細めた。
「うん。並ぶのは、好き」
講堂を出ると、日差しが眩しい。
眩しいのに、さっきより怖くない。怖くないのは、力が増えたからじゃない。手順が増えたからだ。言葉が揃ったからじゃない。基準が共有されたからだ。
そして、大人が線を引いたからだ。隔離ではなく、並ぶための線。神格化ではなく、人として並ぶための線。
「明日も訓練ね」
ミレイが言う。
「うん」
エイドは頷いた。
「無駄を減らす。……並ぶ」
リュミエルが笑った。
「いいね。人の生活って、そういうのの積み重ねなんだ」
外から吹いた風が、冷たさより先に湿り気を運んできた。
夏が、もう近い。




