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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
20/26

第5章 自分の居場所


初夏の空気は、まだ決めきれない顔をしていた。


朝は涼しく、昼は蒸す。雲が切れると日差しだけが先に夏になって、石畳の照り返しが足裏に張りつく。窓を開ければ青草の匂いが入り、閉めれば制服の中に熱が溜まる。廊下の端に立つだけで、汗が「ここにいる」と自己主張してくる季節だ。


その季節の始まりを、エイドは息の苦しさで知っていた。


「もう一本」


ローガンの声が、空気の湿り気を切る。短い。情がない。だから逃げ道もない。


エイドは木の棒を構え直した。乾いた木なら滑ったはずだ。今日は湿っている。掌に吸いつき、吸いついた分だけ指が固くなる。固いと肩が上がる。肩が上がると呼吸が浅くなる。浅くなると、足が遅れる。


——遅れるな。


頭の中で命令が増える。命令が増えるほど、体は動かなくなる。


ローガンが踏み込んだ。


棒と棒がぶつかった。音は軽いのに、衝撃だけが重い。腕が痺れる。受けるたびに、腕の内側がじわじわ熱くなる。熱は痛みに変わり、痛みは焦りになる。


エイドは一歩下がった。


そこに、ローガンの棒が斜めに入る。避けるより先に体が固まった。固まった瞬間、棒が肩口を叩いた。打ち込まれたのではない。叩かれただけだ。叩かれただけなのに、膝が揺れた。


「終わりだ」


ローガンが言った。声色は変わらない。


エイドは膝に手をついた。息を吸っても肺が満ちない。空気が湿っているせいじゃない。体が、今までの無駄を全部露呈させている。


「……っ、は……」


呼吸が浅い。浅いまま、胸が痛い。胸が痛いまま、視界が揺れる。情けない、という言葉が先に出そうになって、喉で止まった。


ローガンは近づいてこない。近づかないことが、逆に逃げを許さない。


「立て」


短い命令。いつも通りの声で、いつも通りに背筋が伸びる——はずだった。


エイドは立とうとして、足が遅れた。遅れた分だけ、頭の中に疑問が湧く。


(……なんで、俺はこんなことをしてるんだっけ)


魔法学校だ。精霊と契約した。光の精霊が隣にいる。普通なら、棒を振り回すより先に魔法を練習するべきだ。


それでもローガンは、こういう訓練をするようになった。


「精霊がいなくても戦えるようになれ。巻き込まれても倒れるな」


以前言われた言葉が、息の隙間に刺さる。


巻き込まれる状況は選べない。精霊が出せない状況も選べない。精霊が出せる状況ですら、出していいかは選べない。


——あの夜の光が、頭をよぎる。


街を白く塗った光。自分の選択を間違いだとは思わない。思わない、けれど。あの後から、世界が少しだけ違う。


違う世界で、倒れないための訓練だ。


エイドは口を開いた。目上に対する、いつもの口調のまま。

「……はい、先生」


棒を握り直す。握り直した瞬間、指が固くなるのが分かった。分かったのに、抜けない。疲れていると、抜けない。


隣でリュミエルが、覗き込むように言った。

「指に力、入れすぎ。手首が固い」

「……分かるのか」

「分かるよ。力って、漏れるから」


漏れる。


その言葉が、胸の奥に残った。魔法も同じだ。漏れると、揺れる。揺れると、止めるのが難しくなる。止めるのが難しくなると、また余計が増える。余計は螺旋になる。


ローガンはエイドの足元を一度だけ見て、首を僅かに振った。

「余計に動くな。余計に動くと、余計に消耗する」

それから顎で棒を示す。

「次。魔法だ。握ったまま出せ。体勢が崩れたまま魔法を使う癖を、今のうちに殺せ」


エイドは頷いた。棒を握ったまま、意識を内側へ寄せる。魔力を整えて、狙った場所へ届かせる。


——届かせる。


そう思った瞬間、頭の中で勝手にもう一つが立ち上がる。


——止める。


止める不安が、届かせるイメージに絡んで、二重になる。二重になると、どちらも薄くなる。薄くなった分だけ、力で押してしまいたくなる。押せば結果は出る。結果は出るが、次が怖い。


リュミエルが静かに言った。

「今、二つ考えた」

エイドの眉が動く。

「……え」

「届かせるのと、止めるの。両方握ってる。だから揺れる」

リュミエルは淡々と言った。

「止めるのは、あとでいい。今は届かせるだけ」


エイドは一度息を吐いた。自分の中の“余計”が、音を立てている気がする。自分で余計だと分かるのに、捨てられない。それが一番腹立たしい。腹が立つと、また余計が増える。


ローガンが短く言う。

「イメージを重ねるな。一本にしろ」


リュミエルが言う。

「一本。まっすぐ。余計な枝を出さない」


エイドは頷いて、もう一度だけ同じ動作をする。


止める不安を握らない。止めるのは手順に預ける。二人の“基準”に預ける。今ここで握るのは、届かせる一本だけ。


——小さな魔力で、同じ結果。


光が弾けるのではなく、一本、細い線が通った。届いた先だけが、じわりと熱を持つ。


派手ではない。光が弾けることも、視界が白むこともない。けれど確かに、狙った場所だけが反応する。草が揺れるほどでもないのに、触れたことが分かる。押したのではなく、通した。余計な熱も、余計な反動も、ほとんど残らない。


エイドは気づく。


いつもの自分なら、ここで「効いたか」を確かめたくて、もう少しだけ足してしまう。足した分は安心になるが、同時に漏れになる。漏れは癖になり、癖はすぐに大きくなる。


——今のは、足さなくても届いた。


息が乱れない。肩が上がらない。指先だけが、軽く熱い。魔力が暴れて熱くなるのではなく、必要な分だけ流れた痕として熱が残る。そこに無駄がない。


通った線が、体の中にも一本残る。


胸の内側が、すっと軽くなる。

「成功」という軽さではない。「余計が落ちた」という軽さだ。


「……できた」

エイドが呟く。


「できたね」

リュミエルは嬉しそうでもなく、当然のように言う。針の揺れを読むみたいに淡々としている。

「今のほうが、あなたっぽい」


“あなたっぽい”。


その言葉が、妙に助けになった。強いからではない。増えたからでもない。

出すために力を押し上げたのではなく、出る邪魔をしていたものを外した感覚。


光の魔法は使えてた。届かせること自体は、前からできた。

けれど今、届かせ方が変わった。余計を削って、同じ結果を、軽く通す。形が洗練されていく。


制御が、成長に変わる。

そして成長は、“大きくなる”より先に、“澄んでいく”。


ローガンが言った。

「続けろ。今のを十回」

「はい、先生」


十回目が終わる頃には、指先が熱かった。蒸し暑さとは違う熱だ。無駄を削った分だけ、結果が体に乗る熱。無駄を削ったぶん、疲れ方も違う。息が上がるのではなく、芯が熱い。芯が熱いのは、ちゃんと使った証拠だ。


ローガンが棒を回収しながら言う。

「覚えておけ。制御は癖になる。いい癖は戦闘で生きる」


それは励ましじゃない。確認だった。

いざという時に立っているか、倒れているか——その差は、派手な力じゃなく、日々の癖で決まる。


校舎へ戻る廊下は、空気が少しだけ重い。


湿気のせいではない。人の気配の重さだ。足を止める者、目を逸らす者、妙にゆっくり近づく者。どれも同じ学園の仲間のはずなのに、距離が毎回違う。違う距離に合わせ続けると、自分が削られる。ミレイの言葉が、もう先に頭の中で鳴っていた。


「……えっと。あの……“光の人”…」


声がかかった。小さくて、やけに慎重な声だ。慎重なのに、距離が近い。

振り向くと、見覚えのある女子が立っていた。自分のクラスじゃない。廊下ですれ違うたびに見かける、隣のクラスの子。名前は——確か、ユーノ。呼ばれていたのを一度聞いた程度で、エイドはまともに話したことがない。


呼び方の瞬間、ユーノの目がわずかに泳いだ。自分でまずいと気づいた顔だ。


「……ごめん。えっと、エイド……? で、合ってるよね」

語尾が消えそうなくらい弱い。制服の袖口を指先でつまんで、離さない。勇気を出して来たのが、仕草だけで分かる。


エイドは喉の奥で息を飲んだ。

“光の人”——嫌だと思う呼び名を、口に出された。悪意がないのが余計にきつい。


「……うん、そうだよ」

返事は短くなる。短くすると角が立つと分かっていても、長くできない。


ユーノは小さく頷いて、言い直す。

「今日さ……大丈夫だった?」


言い方は優しい。けれど視線が、優しさの形をしていない。心配というより“確認”に近い。何が起きたのか、どこまで危ないのか、どこまで近づいていいのか。そういう距離の測り方をする目。


「変な聞き方だったらごめんね」

「私、隣のクラスだから……直接は何も知らないんだけど」

「……みんな、色々言ってて」


“みんなが言ってて”。


言葉が理由になってしまう。自分の気持ちじゃなく、周囲の話で近づいてきたと分かる。

エイドは返事を探したが、探す時間が許されない。沈黙は「何かある」と同義になる。


「……大丈夫だよ」

声は丁寧に整えた。丁寧さは壁になる。壁は冷たいが、今は必要だ。


「そ、そっか……」

ユーノは頷いた。頷いたが、そこで会話を終われない顔をしている。終わらせたいのに終わらせられない顔だ。


一拍置いて、彼女は小さく続けた。


「……あのさ」

「“光の人”って呼び方、私も良くないと思う」

「さっき、私も言っちゃったけど……」

「……ごめん。ほんとに」


謝罪は本物だ。けれど、謝ったからといって距離が戻るわけじゃない。

エイドは一瞬だけ言葉に詰まって、それを隠すように口を開いた。


「……ううん、平気だよ」

それ以上、何を言えばいいのか分からない。


「うん……」

ユーノは笑った。笑ったが、笑いが宙に浮く。気まずさだけが残る。

会話が成立しないまま、形だけの終わりが置かれていく。


「……じゃ、また」


“また”の約束だけが残る。次があるように言うのに、次の距離が決まっていない。決まっていない距離は、怖い。

ユーノは一度だけリュミエルをちらりと見て、それから逃げるように歩き去った。


背後で誰かが小さく囁いた。

「光の人……」


最近、その呼び方が増えた。


名前ではない。肩書きでもない。まして称号でもない。呼び名のようでいて、距離の置き方の宣言だ。人間として近づく代わりに、現象として扱う。現象なら、怖くても手が届かない。手が届かないなら、無責任に言葉を投げられる。


エイドはそれが、どうしても好きになれなかった。


“光の人”と呼ばれるたびに、エイド自身が薄くなる。自分の失敗も努力も、全部ひとまとめにされる。怖い、神々しい、危ない、救う、壊す。相反するものが同じ箱に放り込まれて、蓋だけが閉められる感覚。


リュミエルが小さく首を傾げた。

「今の、あなたのこと?」

「……そう呼ばれてる」

「嫌?」

「……嫌だな」


素直に言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。言わずに飲み込むと、もっと重くなると知ってしまったからだ。


「どうして?」

リュミエルは本気で不思議そうだった。

「人じゃなくなる感じがする」

エイドは言葉を探した。

「俺が、俺じゃなくなる」

リュミエルは少し考えてから言った。

「じゃあ、名前で呼ばれたい?」

「……うん」


曲がり角で、わざと雑な声が飛んだ。

「ねえ、光の人」


今度ははっきりと刺してきた。距離を詰める勇気がないから、言葉で刺す。刺して反応を見て、自分の安全を確かめる。


エイドが足を止めるより早く、つかつかとこちらに歩いてきたミレイが一歩前に出た。


「名前で呼んで」

声音は冷たいわけではない。ただ硬い。

「呼べないなら、話しかけないで」


相手は鼻で笑って去っていった。勝った顔をしていないのに勝ち負けがつく。その種類の面倒くささが残る。


エイドは小さく息を吐いた。

「……助かったよ」

「助けてない」

ミレイはさらっと言う。

「距離を整えただけ」


ミレイが続ける。

「反応に応じて自分を変えちゃダメ。相手の都合に合わせ始めると、どこまででも削られるわよ」

「……うん」


廊下の掲示板の前に人が集まっていた。新しい紙が増えている。連絡網。集合場所。合図。教師への通報経路。誰かが一人になったとき、どう繋ぐか。手順が増えている。


誰かを監視するための仕組みではない。誰かを置き去りにしないための仕組みだ。


「これ、先生たちが回すんじゃないんだ」

エイドがぽつりと言うと、ミレイが頷いた。

「自治、ってそういうこと」


リュミエルが小さく言う。

「優しいね」

「……優しいって言葉で合ってるのか分からないけど」

「合ってる。置いていかないって書いてある」


午後、招集がかかったのは、その日のうちだった。


「講堂に集合。全学年」


短い掲示。説明はない。説明がないから、余計に空気がざわつく。ざわつくのは不安のせいではなく、予感のせいだ。学園が、何かを言わなければならないという予感。


講堂へ向かう廊下で、エイドは何度も耳にした。


「光の人も来るのかな」

「来るでしょ、最高学年だし」

「本当に……光の精霊って……」

「——きれいだね」


その言葉の端々が、エイドの背中を冷やす。神格化。特別視。勝手に上に上げられ、勝手に落とされる。そういうのが一番危ない。エイド自身が危ないのではない。周囲が作る“像”が危ない。


その像は、人を救うためではなく、安心するために作られる。

安心するための像は、現実を壊す。


講堂の中は、熱かった。人の数だけ熱がある。息がある。ざわめきが梁に溜まり、落ちてくる。前列には新入生、後方には上級生。教師は壁際に立つ。全員が同じ方向を見る。


壇上に学長が立った。


魔法区森の長老、エルヴァン先生。契約の夜、あの場を収めてくれたその人は、場を支配しようとしないのに、視線だけで場を整える。逃げ道を残さない澄んだ目。


エルヴァン先生は最初にこう言った。


「この学園は、誰かを特別扱いしない」


ざわめきが一瞬で薄くなる。息を止めた音が見える気がした。エイドの胸が僅かに跳ねる。言い方が強い。逃げ道がない。


先生は続ける。

「ここにいる者は、誰も例外ではない。誰かを持ち上げて祭り上げるのも、恐れて遠ざけるのも、同じ誤りだ」

「“特別な呼び名”で人を括るな。括った瞬間、その人は現象になり、君たちの都合に合わせた像にされる。像はやがて、誰かを傷つける」

「学園は、守るために隔離はしない。監視のために精霊を使うこともしない。ここで守るべきは、力ではなく尊厳だ」


空気が揺れた。安堵と不安が同時に広がる。監視が増えないことに安堵する者もいれば、監視がないことに不安を覚える者もいる。そして、その揺れの中にもう一つ混ざる。特別扱いが消えることを惜しむ目だ。


先生は、その揺れを否定しないまま言葉を重ねた。

「最近、生徒の分断を狙う者たちが街にいるという話が入った」

「その狙いをくじくために、我々はここでの自治を強める」

「互いを縛るためではなく、互いを置いていかないために」


そこで先生は、一瞬だけ間を置いた。間が置かれると、講堂の空気が重くなる。重いのに、耳はよく聞こえる。こういうとき、人は本当に聞いてしまう。


「そして——人を神にしてはならん」


言葉が落ちた。


ざわめきが消える。消えた瞬間の静けさが、音として残る。


先生は淡々と言った。

「誰かを神に仕立てることは、誰かを人ではなくすることだ」

「人から外したものに、都合のいい期待を載せてしまう」

「期待は、失望へ変わることもある」

「失望は、時に人を暴力的にさせてしまう」


一つずつ、階段を降りるみたいに言葉が積まれていく。責める声ではない。事実を言う声だ。事実を言われると、逃げられない。


「精霊は道具ではない」

先生は続ける。

「救いの象徴でも、罰の象徴でもない」

「精霊を都合のいい物語に押し込めてはいけない」

「学園だけでなく一魔法使いとして、それを許さない」


午後の招集の理由が、そこで形になる。学園は、生徒の特別視や神格化がいかんだと思っている。だから言う。言葉にしなければ、空気は勝手に流れる。勝手に流れる空気は、いつか誰かを潰す。


先生は最後に言った。

「自治は、監視の代わりではない」

「自治は、互いの尊厳を守るための手順と捉えなさい」

「手順と合図は、自由を奪うためにあるのではない。問題に直面した際に迷いを減らすためにある」


宣言だった。責任の放棄ではない。責任の取り方を選ぶ宣言だ。


エイドの胸の奥の何かが、静かにほどけていく。


——ここに居ていい。


特別扱いされることが救いではない。特別扱いされないことが、ようやく救いになる。


隣でリュミエルが、ほんの小さく頷いた。


「守られる、じゃないんだね」

「……並ぶ、ってことだ」

エイドが答えると、リュミエルは目を細めた。

「うん。並ぶのは、好き」


講堂を出ると、日差しが眩しい。


眩しいのに、さっきより怖くない。怖くないのは、力が増えたからじゃない。手順が増えたからだ。言葉が揃ったからじゃない。基準が共有されたからだ。


そして、大人が線を引いたからだ。隔離ではなく、並ぶための線。神格化ではなく、人として並ぶための線。


「明日も訓練ね」

ミレイが言う。

「うん」

エイドは頷いた。

「無駄を減らす。……並ぶ」


リュミエルが笑った。

「いいね。人の生活って、そういうのの積み重ねなんだ」


外から吹いた風が、冷たさより先に湿り気を運んできた。


夏が、もう近い。

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