第2章 戻ってきた光
最初に違和感に気づいたのは、港湾区の夜番だった。
巡回の終わり、古い倉庫が並ぶ路地で男は足を止める。
暗いはずの角が、ほんの少しだけ明るい。
「……点いてる?」
石壁に取り付けられた街灯が、静かに光っていた。
数日前、確かに壊れていた灯りだ。金具のゆるみも、術式盤の欠けも見た。修理が入っていないことも確認している。
港湾区の街灯は魔術師ギルドの管轄だ。
術式を組み、規格を揃え、部品を管理する。だからこそ、勝手に直ることはない。勝手に直ったのなら――それは誰かが直した、ということになる。
男は近づきかけ、やめた。
光が、いつもと違う。
均一で硬い光ではない。
影の輪郭がどこか柔らかく、足元だけを選ぶように照らしている。余計な場所を明るくしない。まるで“歩きやすいように”考えているみたいだ。
「気のせいか……いや」
気のせいで済むなら助かる。夜番が余計な騒ぎを起こせば、責任の帳簿だけが増える。
男は視線を切り、歩き出した。背中に、淡い灯りがついてくるような感覚が残った。
翌朝。港湾区のギルド窓口で、男は帳面を示した。
「この街灯、修理の予定は?」
「後回しです。部品が足りません」
職員は淡々としている。慣れているのだ。港の設備はいつも足りない。
「……昨夜、点いてた」
「なら誰かが手を入れたんでしょう。ギルドの記録にはありません」
記録にない。
それが問題だった。
昼。市場で噂が育ちはじめる。
交易都市の噂は品物より軽い。軽いから、遠くまで飛ぶ。
「北の路地の街灯、直ったらしい」
「ギルドは知らんってよ」
「じゃあ誰が?」
酒場の隅で、ギルドの下働きらしい若者が得意げに言った。
「術式が残ってたんだろ。点くだけなら、たまにある」
「たまに、ってのはな」
向かいの荷運びが鼻で笑う。
「魔術は規格通りにしか動かねえ。勝手に直るなら、魔術師ギルドは困らねぇよ」
若者がむっとして言い返す。
「じゃあ魔法だって言うのか?」
その言葉で、場の温度が少しだけ変わる。
魔法と魔術は似ているようで、別物だ。
魔術は術式と道具で魔法を再現する技術で、魔術師ギルドが握っている。
魔法は資質と手管が要る。人が“精霊”から借りて起こす力だ。
だが、そこで口を開いたのは、もう少し年嵩の男だった。
「魔法は“人の力”じゃない。“精霊の力”を借りるんだ」
「精霊の気配が薄い場所じゃ、同じ腕でも同じことは起きねえ」
若者は言い返せず、口を尖らせた。
別の客が、ぼそりと続ける。
「魔法区の連中は魔術を嫌う。俺の区画じゃ禁止だ」
「だからって港湾区の街灯に、わざわざ手をつける理由があるかよ」
誰かが冗談めかして、言い切った。
「じゃあ、精霊か?」
笑い声が起きる。否定ではなく、照れ隠しだった。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
噂の中に、ひとつだけ質の違う話が混じったからだ。
「うちの子がね、夜に目が覚めちゃって。水を飲もうとして台所まで行ったの」
「照明は魔術式で点くでしょう? でも、寝ぼけてると……起動の印がどこだったか、分からなくなることがあるのよ」
話している女は、笑おうとして、うまく笑えなかった。
「暗いって、泣きそうになったら……足元だけ明るくなったって」
「灯りみたいに全部が明るいんじゃなくて、子どもの目線に合わせるみたいに、やわらかくて」
誰かが「気のせいだろ」と言いかけて、口を閉じる。
女の表情が、冗談を許さない。
「声も、したって言うの」
「“大丈夫。ここだよ”って。急かすでもなく、命令でもなく……一緒に探してくれるみたいに」
女は少しだけ間を置き、続けた。
「子どもは怖くなかったって。ひとりで水を飲めたって」
「……私の方が、背中が冷えたわ。術式の灯りは、そんなふうに“人に合わせて”動かないもの」
笑い話にはならなかった。
気が利きすぎている。
低位の偶然では説明できない。
噂が増えるほど、面倒も増える。
誰かが得をする匂いが混じるほど、別の誰かが動きはじめる。
キーラ・ヴェルナーは、帳簿を閉じた。
キーラは二十代後半の女性だ。黒に近い茶色の髪を後ろでまとめ、港の事務所らしい実用的な服を着ている。
彼女は商人だ。
精霊や商品に対しては非情になれる。値段がつくなら、値段の話をする。
けれど、人の暮らしを壊してまで儲けたいわけじゃない――そういう線が、彼女にはある。
「港湾区の街灯が、勝手に直った。しかも“気が利く光”」
冷たさはある。けれど、焦りはない。
噂は放っておけば太る。太るほど嘘という雑味も混ざる。旨い商売にするなら、最初にやることは決まっている。
キーラは机の端を指で叩き、息を整えた。
これは指示ではない。段取りだ。自分のための段取り。
「情報を買うわ。口の固い奴に当たりましょ」
一人で動くなら、情報選びがすべてになる。
港湾区の人間で、ギルドとも市場とも距離がある者。口が固く、足が速く、金で動く。一本でいい。
頭の中で、要点だけを並べ直す。
まず、噂の核を拾う。
「光がついてきた」「声がした」「足元だけ照らした」――同じ型の話をいくつ拾えるか。
数が揃えば揃うほど、偶然の言い訳が苦しくなる。
次に、場所を押さえる。
港湾区だけか。住宅区にも出ているか。
暗がりに困る人間のそばで起きるのか、それとも“点く場所”が決まっているのか。
癖が見えれば、位階(精霊の格)が読める。――少なくとも、低位の気まぐれでは済まない。
最後に、ギルドの記録で術式の可能性を潰す。
「修理が入っていない」「部品交換もない」――そこが確定した街灯で、規格外の光が出ているなら。もう魔術じゃない。
確認できた件数が、そのまま余力の目盛りになる。 港だけでなく住宅区でも起きているなら――なおさらだ。
そして、その目盛りが大きいほど、値札は跳ね上がる。
線引きも忘れない。
目撃者の家庭には手を出さない。脅しも買収も尾行も不要。
帳簿は血で赤く染めないこと。
キーラは小さく息を吐いた。
――対象は子どもじゃない。
光だ。
その“気が利きすぎる光”の正体だけを抜く。
もし噂が本当なら。
術式ではない光が、そこにある。
もし噂が偽物なら。
誰かが仕掛けている。なら、その誰かを辿ればいい。
どちらに転んでも、損はしない。
キーラは暗がりに目を細めた。
「厄介で、上等」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、商人が品物の質を見分けたときに出る、癖のような呟きだった。




