第4章 風に触れる
測定から日が経っても、彼らの訓練は途切れなかった。修練場は許可制になり、二人の“基準”が、毎日確かめ直された。
リュミエルは合わせる。エイドが怖くないところで止めるために。前の契約者の時と同じ手順で。
ミレイは、その訓練を「見ないふり」で通り過ぎた。
見ないふりは無関心ではない。あれは必要な時間だと分かっているからこそ、横から触らない。視線や助言は、本人の手順を崩すことがある。特に今は、言葉ひとつで空気が変わる。
だからミレイは、いつも通り自分の場所へ向かった。
校舎の裏手。春の草がまだ柔らかい土を隠しきれず、踏み跡だけが濃く残る場所。訓練場ほど整ってはいない。整っていないからこそ、手順を持っている者の差が出る。
ミレイは鞄を下ろし、外套を畳む。手袋を外す。指先を見て、爪の端を確かめる。小さな準備の順番はいつも同じ。順番が崩れると、今日は“風の機嫌”が悪い。
風というのは、気まぐれで、繊細だ。
——刺激すると、逃げる。
ミレイは息を吸って、吐いた。吐いた息を、春の空気に溶かす。自分の魔力を外へ押し出す前に、まず体の内側のテンポを整える。風に触れるための呼吸。
それから、掌を少しだけ開いた。
魔力が出る。出るが、派手には出さない。見せるためではない。手順を揃えるためだ。ミレイの魔力は、火花のようには弾けない。その代わり、布を伸ばすように広がる。
掌の前、空気が一瞬だけ軽くなる。
風が来たのではない。風が来やすい“形”に、空気が並ぶ。
ミレイはそこで止める。
——止められることが、強さだ。
一歩、横へ。二歩、斜めへ。三歩、後ろへ。足音は小さい。土を掘らない。草を倒さない。足の置き方で流れが変わるのを、ミレイは知っている。
次に、指先で小さく空を切った。
風が動いた。
音が立たない。見た目にも派手ではない。だが、草の先が一斉に同じ方向へ倒れ、次の瞬間には元へ戻った。刃ではなく、手刀。切断ではなく、整列。
——最高学年の魔法は、見せ場じゃない。
過剰に出さない。狙った範囲だけを動かす。周囲を巻き込まない。人に見せなくても成立する精度。ミレイの風はそこに力を積んできた。
背後で、足音が一つ止まった。
新入生だ。制服がまだ固い。肩の力が抜けないまま、迷いながら立っている。目が泳いで、ミレイの手元と草の揺れを何度も往復している。
「……今の、何をしました?」
声が小さい。聞こえるかどうかを試すような声。
ミレイは振り返らずに答えた。
「風を動かしただけ」
「でも……風って、今、吹いてませんよね」
「吹かせたの。ほんの少し」
「魔法、ですか」
「そう」
新入生は息を飲む。
——見えないはずのものが、揺れで見える。
ミレイはこういう時、説明を増やさない。増やすと、相手は“意味”に寄りかかって、手順を覚えなくなる。自分で触れて、自分で失敗したほうが早い。
「やってみる?」
ミレイが言うと、新入生は慌てて首を振った。
「い、いえ……」
「じゃあ見て」
ミレイは掌を閉じ、また開いた。今度は、先ほどより少しだけ強い。強いといっても、教室の窓を鳴らすほどではない。ここで鳴らす必要がない。
草の先が、同じ方向へ倒れる。
先ほどより長く倒れる。戻るのが遅い。風の“残り香”が空気に薄く留まる。新入生の髪が、遅れて揺れた。
「……すごい」
新入生が呟く。
「怖い、じゃないんだ」
ミレイはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「怖くしないのが一番大事」
それは誰かの言葉でもあった。今、学校中がその言葉を必要としている。
新入生が言う。
「ミレイさんって、最高学年なんですよね」
「そう」
「やっぱり、違うんですね」
「何が」
「……余計なことをしないところが」
ミレイはその言葉に、少しだけ胸の奥が熱くなった。
余計なことをしない。
それは、努力を努力として見せないやり方だ。積み上げが派手にならない代わりに、失敗も目立たない。誰も拍手しない。けれど、こういう場で残る。
「余計なことをしないために、余計なことをいっぱいした」
ミレイは淡々と言った。
「何度も失敗した。……今もする」
新入生は目を丸くした。
「でも今、失敗してないじゃないですか」
「今はまだ、させてないだけ」
ミレイは息を吸って、吐く。
風は、気まぐれだ。繊細だ。刺激すると逃げる。
だからこそ——寄り添い方を覚える。
「今日はこれで終わり」
ミレイが言うと、新入生は慌てて一歩下がった。
「ありがとうございました」
「礼はいらない。……誰かに言うなら、大げさにしないで」
新入生は戸惑いながら頷いた。
「はい」
ミレイは最後にもう一度だけ掌を開き、ほんの小さな風を作る。草の先が揺れる。動いたのは草だけ。土も、花びらも、髪も揺らさない。
——このくらいなら、風を荒立てない。
ミレイはそうやって、春を毎日繰り返していた。
エイドの訓練は、止めるための訓練だ。
自分の訓練は、触れるための訓練だ。
どちらも、同じ場所へ向かっている。
——事故を起こさないために、強くなる。
ミレイはまた掌を開いた。
春の匂いの奥に、青い熱が混じった。




