第2章 測定事故
春の鐘は、地上で鳴っていた。
新入生の列が校門へ吸い込まれていく。揃えた制服の肩、浮ついた声、花の匂い。入学式という言葉が似合う明るさが、空気そのものに混ざっている。
——事件から数日。
街を白く塗った光の余韻は、もう目には見えない。けれど噂は消えない。見えないものほど長く残る。エイドは選択を間違えたとは思わない。あの時、迷う余地はなかった。ただ、迷惑を掛けた自覚はある。だからこそ、春の明るさが余計に刺さった。
エイドの隣を歩くリュミエルは、地上の賑わいを珍しそうに見ていた。目を細めるでも、怯えるでもない。ただ、光の精霊らしく、眩しいものを眺める目をしている。
「人が多い日ね」
「入学式だ」
「春の始まりって感じ」
「……俺たちは、訓練だ」
そう、今日もまた訓練のはずだった。
あの事件の後から、訓練は始まっている。ローガンの指示は淡々としていて、毎回同じ順番で、毎回同じところで止められるように作られていた。出すためより、止めるための手順。エイドとリュミエルはそれを弱い力で繰り返してきた。今日も、地下へ降りて、同じ床の円に立って、同じ合図を切る。そう思っていた。
だから、ローガンが廊下の影で待っていても、エイドは少しだけ安心した。顔を見るだけで「いつもの流れ」に戻れる気がした。
「エイド。行くぞ」
ローガンが言う。責める声ではない。仕事の声だ。
「はい。お願いします」
エイドは背筋を正した。目上には、いつも通り短く答える。
地下へ向かう階段を降りるほど、地上の春が薄くなる。鐘やざわめきが遠ざかり、湿った冷気が濃くなる。石の匂いが肺に入る。祝祭から隔離された場所。学園のもう一つの顔だ。
地下修練場の扉が開くと、広い空間が口を開けた。天井は高く、床には円が刻まれ、円の外側に沿って細い線が幾重にも走っている。装飾ではない。結界を構成する刻印だ。壁にも同じように符号が並ぶ。
私闘防止結界は暴発を止める安全装置。緊急停止刻印はその結界が暴走しないように用いる制御装置。
——この地下では、それが当たり前だった。
エイドは慣れたように息を整えた。リュミエルも当然のように隣にいる。
円の近くには教師が数人、計測器のような器具を整えていた。金属の箱と針、水晶。訓練の道具とは違う。
「……今日は、いつもと違うんですか」
エイドがローガンに小声で尋ねる。
ローガンは答える前に、器具を見た。
「俺も今知った」
そこへ、計測器のそばに立っていた教師が一歩前に出た。ローガンではない。背はローガンほど高くないが、眼鏡の奥の視線が落ち着いている。
「エイド、リュミエル。今日も元気かい?」
その教師は、気さくだが、軽すぎない口調だった。
ローガンが軽く顎を上げる。
「アーヴィン先生。……今日はこっちか」
「久しぶりだな、ローガン」
アーヴィン教師は頷き、エイドにも目を向けた。
「エイドも、もう最高学年か。——訓練は続けていると聞いた。だが、君の精霊がどれほどの魔力量か、こちらに“目安”がないと運用ができない。——新入生向けに使う計測器具がある。今日は測定にしないか?」
エイドの喉が乾く。
測られたくない気持ちと、測られなければ知らずに暴走するかもという気持ちが、同じ場所でぶつかる。エイドは選択が間違っていないと思う。けれど、周囲に迷惑を掛けた自覚もある。だから、拒否する言葉は出なかった。
「……わかりました」
エイドは短く答えた。
リュミエルが首を傾げる。
「測るの?」
「安全のためだ」
アーヴィンが言う。
「安全装置も制御装置も、想定の範囲で動いている限りは強い。——想定の範囲、というのが重要だ」
この場の空気が、少しだけ硬くなる。ローガンが床の円を一度見て、口を開いた。
「条件を出す。事故は避けたい」
ローガンは淡々と言った。
「一割で出せ」
段階的に上げるのではない。最初から力の量を決める。ローガンも興味があるようだ。だが、事故を避ける方向に寄せる。そこに迷いがない。
「はい」
エイドは即答した。
リュミエルがエイドを見る。
「一割って、私の感覚で?」
「……うん。やってみてほしい」
「うん。言われたらすぐに弱めるよ。そのへんはやれるはず」
できる。手順としてはできる。
だが——それでも規格外が残るのが怖い。
ローガンが言った。
「円の中心へ。リュミエルは線の中。エイドは線の外だ」
リュミエルが円の中心に立つ。床の線が薄く明滅する。見張られているというより、測られている。結界がリュミエルを“認識”する。
「始めるよ」
アーヴィンが言う。計測器の針が静かに震えた。
リュミエルは光を喉の奥で整えるみたいに、静かに間を作った。
「いくよ」
リュミエルが指先を軽く振る。光が生まれる。
眩しいというより白い。白が空気に混ざる。温度が上がり、床の線が淡く反射した。計測器の針が大きく動く。教師たちが息を止める気配が伝わる。
次の瞬間——床の外縁が一斉に明るくなった。
私闘防止結界。
暴発していないのに、安全装置が「危険」と判断して閉じようとしている。空気がきゅっと縮む。見えない蓋が落ちるような圧が走った。針が跳ねる。数字が、想定の動き方をしていない。
エイドは即座に言った。
「リュミエル、弱めて」
「うん」
返事は早い。光はすぐに薄くなる。減光はできる。手順としては、問題ない。
——なのに。
薄くなったはずの白が、まだ厚い。空気の密度が戻らない。結界の明滅が収まらない。安全装置が止まらない。
エイドは喉の奥を締めて、もう一度言った。
「……もっと弱めて」
「うん、分かった」
光はさらに引かれる。それでも“まだ”残る。残ってしまうこと自体が異常だった。
ローガンが眉を僅かに動かした。
「……緊急停止刻印を」
制御装置が動く。壁の刻印が光り、命令の線が走る。結界が暴走しないように、こちらが止める——はずだった。
焦げた匂いがした。
壁際で緊急停止刻印を扱っていた教師が、刻印盤から反射で手を引っ込めた。
「——っ」
短いうめき声。掌の内側に、熱い線が走ったのが見て取れた。皮膚が赤く盛り上がり、刻印の余熱が“人間の手”に逃げてきたみたいに、じり、と痛みが遅れて追い付く。
教師は歯を食いしばりながら、もう片方の手で小さく印を結ぶ。
水の精霊が、淡い冷気とともに現れた。指先から滲む水膜が、焼けた掌を包む。じゅ、と小さな音がして、薄い湯気が立った。教師は息を吐き、うめきながらも水で患部を抑え込む。応急処置——痛みを押さえ、皮膚が裂けるのだけは防ぐための、慣れた動きだった。
その間にも、刻印は耐えきれずに——
一瞬で、刻印の光が黒へ変わった。焼き切れた。紙が燃えた匂いではない。皮膚と金属が同時に焦げる匂いだ。止める仕組みが、仕組みとして成立しなくなる瞬間が、沈黙の中でやけに大きい。
誰も言葉を出せなかった。
安全装置は反応した。制御装置は焼けた。
——止める前提が、崩れた。
リュミエルは完全に光を引く。白がすっと引いていく。床が元の色に戻る。圧がほどける。結界の線が、ゆっくり眠る。
静けさだけが残った。
ローガンが、確認の声で言った。
「……この間。街を照らした光は、どの程度の力を使った」
リュミエルは少し考える仕草をした。指先を見て、空気を見る。自分の呼吸の量を数えるように自然に。
「二割くらいかな」
針が止まる音がした。紙を押さえる音が消える。教師の喉が鳴る。エイドの胃が沈んだ。
二割。——あれで。
そのとき、扉が開いた。
地下修練場の管理教師が入ってきた。顔を歪めている。空気の匂いと刻印の焼け方だけで、何が起きたかを理解した顔だった。
そして、歪めたまま言った。
「……ふざけるなよ」
その声は怒鳴り声ではない。抑えた怒りだった。抑えなければ、この場が壊れると分かっている怒り。
管理教師はローガンにも、アーヴィンにも視線を投げる。
「ここを何だと思っている。安全装置は反応する、制御装置は焼ける。——この修練場を焼く気か!何をやった!?」
ローガンは言い返さない。責めない男が、責められることを受け止める姿勢だけを見せた。
エイドは一歩前に出そうとして、——近くにいたローガンが小さく手を伸ばして制した。
「……エイド、いい。今は——」
声は低い。責めるためではなく、場を壊さないための制止だった。まるで、「お前のせいじゃない」と言う代わりに触れたみたいに。
エイドは唇を結び、止まった。
選択は間違っていない。だが迷惑を掛けた自覚はある。その両方が舌の裏で重い。
管理教師が言った。
「上へ報告する。——来い。事情を聞く」
“事情聴取”という言葉はまだ出ていないのに、意味だけが先に刺さった。
地上の春は続いている。
鐘も歓声も、まだ響いているはずだ。
だがエイドの耳には、刻印が焼ける匂いと沈黙の音だけが残っていた。
扉の向こうへ続く廊下は、さっきより暗く見えた。
エイドは背筋を正し、短く答えた。
「……はい」
そして歩き出す。
扉の先に何が待っているかを、まだ聞かされる前のまま。




