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光の呼び名  作者: アルエル
学校編
16/26

第1章 寮へ


家の朝は、音が柔らかい。

鍋の蓋が鳴り、椅子が床を擦り、誰かが名前を呼ぶ。窓の外からは、荷車の軋みと、遠い市場の声が薄く混じってくる。


エイドは玄関に荷物を寄せて置いた。

鞄と、身の回りの品を入れた袋。それだけだ。引っ越しと呼ぶほどの量ではない。それでも、家を出る重さくらいはあった。


母が袋の口紐を締め直しながら、手早く言う。

「結び目、これでいい?」

「うん」

返事は短い。言葉を足す余裕が、まだない。


父は玄関脇に立っていた。何か言いそうで、言わない。いつもの顔で、いつもよりよく見ている。

エイドはそれが分かったから、視線を上げた。


屋根の上に、リュミエルがいた。


朝の陽を背にして輪郭だけが浮く。白い衣の端が風にほどけ、髪が一瞬だけ金色に跳ねた。そこに“立っている”というより、光が人の形を借りて遊んでいるみたいだった。


「そんなに見上げると首が折れるわよ」

声は屋根から落ちてきた。軽い。けれど、薄っぺらくない。


エイドは小さく息を吐く。

「降りてこい。玄関先だぞ」

「今行く。――荷物、落とさないでね」

「落ちるのはお前だろ」


言い返した瞬間、リュミエルが動いた。

屋根の縁から、ためらいなく踏み出す。光が弧を描く。空気が一瞬だけ温度を持つ。


彼女はエイドの隣に音もなく着地した。

足元の影が薄くなる。石畳の隙間の露が、白く光って消える。


母が息を呑むのが分かった。

父が半歩前に出かけて、止まる。


リュミエルは首を傾げ、玄関前で軽く手を振った。

「おはようございます」


その言い方は、人に合わせたものだった。礼儀の形を知っている。

母は言葉を探し、やっと息を出した。

「……お、おはよう」

父は短く頷くだけだった。


エイドは荷物の袋を持ち上げる。

家族の前で彼女を“紹介”するきちんとした言葉を、まだ持っていない。

ここ最近のことが重すぎて、今日の言葉が追いつかない。


「派手に出るな」

小声で言うと、リュミエルは同じくらい小さく返した。

「派手じゃないわ。普通」

「普通じゃない」

「じゃあ、あなたの普通に合わせる」

「頼む」


リュミエルは、ほんの少しだけ光量を落とした。

そこにいるのは変わらない。けれど、“眩しさ”が引く。家族の目が、少しだけ呼吸を取り戻す。


母が、エイドの手に小さな袋を押し込んだ。

布の口を結んだだけの古いものだ。


「これ、忘れないで。昔からうちにあるお守り。きっとあなたを守ってくれるわよ」

「うん、ありがと」


袋の布は古く、口を結ぶ糸が擦り切れている。

エイドが結び目を解くと、小さな金具が掌に転がった。指輪のようで、指輪より薄い。縁に擦れた刻印がある。


リュミエルの表情から笑いが消えた。

さっきまでの軽さが、すっと引く。目だけが、遠いものを見る目になる。


「……パリスの」


エイドは金具に刻まれた名前を見た。

「パリス・マーマン?」


母が恐る恐る聞く。

「うちの人を……知っているの?」


父は一拍置き、言えるだけを言った。

「……昔の人の。うちの先祖にあたる人のものらしい」

それ以上は言わなかった。


リュミエルは小さく息を吐くように言った。

「落とさないで。――それは、あなたを守るものだから」


エイドは袋を結び直し、鞄の奥へ入れた。

仕草に、少しだけ慎重さが増えた。


「行ってくる」

母が頷く。

「気を付けて」

父は短く、「無理するな」とだけ言った。


リュミエルが玄関を先に出る。

一歩、外に出てから振り返り、エイドを見る。


「ねえ」

「何」

「寮って屋根高い?」

「高いだろ」

「良かった」


それだけ言って、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。


街へ出ると、居住区の柔らかさが薄れた。

石畳は乾いて硬い。朝の光が店先の金具を白く光らせ、荷車の車輪が一定の音を刻む。道端には水桶が並び、洗い終えた布が縄に掛かって揺れていた。


エイドは人の流れの端を歩いた。

目立たない線を選ぶ癖が、体に残っている。鞄の肩紐を握る手に、力が入る。


隣には、リュミエルがいる。

眩しさを抑え、歩幅を合わせている。けれど時々、視線が上へ向く。空の広い方、建物の高い方。見晴らしの良い方だ。


「上、見てる」

エイドが言うと、リュミエルは首を傾げた。

「うん」

「上見ながら歩いて転ぶなよ」

「転ばない。……行ってもいい?」

「短くだぞ」

「短く」


彼女は建物の側面に手を添え、光がすっと伸びるように身体を持ち上げた。跳ぶというより、風に拾われる。次の瞬間には屋根の縁に立っている。


リュミエルはすぐ歩き出さない。

ただ、そこで止まった。


朝の街を見下ろす。

煙突の煙がまっすぐ上がり、天幕の布が風に揺れる。遠くの湾の水面が、薄い銀色に光っている。居住区の屋根が連なり、その向こうに学校区の石造りが見える。


「……きれい」

小さな声が落ちてくる。


エイドは足を止めないまま返す。

「今でなくてもいいだろ」

「今しか見えないの。朝の光は短いし」

「……じゃあ、三息」

「三息って何」

「三回呼吸したら戻れ」

「優しい」

「違う。時間管理だ」


三息の間だけ、リュミエルは街を見た。

それから縁に手を置き、軽く降りる。着地は音がしない。通りすがりの人が気付いても、驚きで口を開くだけで終わる。見慣れたはずの街で、見慣れないものを見る顔だ。


「戻った」

「よし」


歩き出すと、視線が増える瞬間がある。

上を見た誰かが、今度は地上のエイドを見る。驚きが先に来る。理解は後。怖さと羨ましさが混ざっている目もある。


エイドは帽子のつばを少し深くした。

「……人目が増えた」

リュミエルが言う。

「私のせい?」

「半分」

「半分はあなたが気にしてるせい」

「気にしないほうが難しい」

「うん。だから練習するのよ」

「今は無理」

「正直でよろしい」


市場の角を曲がると、匂いが変わった。

香辛料と魚の匂いが遠のき、代わりに石と水の匂いが濃くなる。居住区から学校側へ向かう道は、道幅が少し広く、建物の背も揃っている。看板の文字も整い、路地の数が減った。


「ここ、息が楽だ」

エイドがぽつりと言う。


リュミエルが嬉しそうに笑った。

「ね。人の声が少ない」

「声じゃない。……目だ」

「目の話、好きね」

「好きじゃない」

「好きじゃないのに、よく喋る」

「必要だからだ」

「必要って言うと正しい感じがするわね」


境界の柱が見えてくる。

魔法区と居住区を分ける刻印が、道沿いに増える。石に刻まれた線は薄いのに、そこから先の空気ははっきり違った。人の歩き方が変わる。荷を運ぶ足から、規則を守る足になる。


寮はさらに奥だった。

訓練棟とは別の方向。外壁が高く、窓が少ない。入口は一つ。扉は重い。門柱に刻まれた禁じる文字が、朝の光で白く浮いている。


線は装飾ではない。

巨大な魔法の刻印だ。――ここでは壊すな、という。


エイドが足を止める。

「……ここか」


門の前には、すでに職員が一人立っていた。年嵩で、声が乾いている。エイドを上から下まで見た。

次に、リュミエルを見る。見ているというより、距離を測っている。


「エイド・マーマンだな」

「はい」

「入れ。――まず言っておく」


職員は門柱の刻印を指で叩いた。

「ここは特別寮だ。精霊と暮らすための設備がある。歓迎じゃない。危険を外に出さないための場所だ」

「分かってます」


職員は淡々と続ける。

「破壊するような魔法は、この中では通らない。意図的な放出は封じられる。過去に――火の精霊を寮に呼んで鍛錬しようとした者がいる」

職員は言い直す。

「者じゃない。馬鹿だ。半日で火事を起こした。だから刻んだ。ここで“強くなる”な。ここで“壊すな”。守れ」


リュミエルが門柱を見上げ、少しだけ目を細めた。

さっき屋根で街を見ていた時と同じ目だ。景色を見る目。仕組みを見抜く目。


「賢いわね」

小さく言う。

職員はそれを聞こえないふりをした。あるいは、聞こえても反応しないだけだ。


扉が重く開いた。


中は静かだった。

廊下の空気が澄んでいる。壁の内側にも刻印が走り、床の角に小さな結晶が埋め込まれている。禁じるための仕組み。壊させないための仕組み。ここにいる者の都合より、ここにいる者の危険を優先する造りだ。


「三階だ」

職員が先に歩き、階段を上る。足音が硬い。

「部屋は最低限だ。必要なものは寮で用意する。危険物は持ち込むな。――特に、挑発するような道具」

「挑発?」

「精霊に対してだ」


エイドは返事を飲み込んだ。

挑発するつもりはない。でも、自分の知らないところで“何か”が挑発になってしまう可能性はある。知らないうちに、境界を踏んだら目も当てられない。


部屋は三階の端だった。

ベッドと机と棚。窓は少し小さく、それでも外はきちんと見える。壊れにくい頑丈な造り。


職員は部屋の鍵を渡し、短く言った。

「訓練は今日じゃない。今日は荷物などを片付け。――そして明日からだ」

「はい」

「騒ぎを起こすな」

「起こしません」


扉が閉まり、鍵の音が遠ざかる。

残ったのは、エイドの呼吸と、部屋の静けさと、リュミエルの光。


エイドは荷物を下ろし、部屋を見回した。

新しい場所は落ち着かない。だが、居住区より目が少ないのは確かだ。窓の外の人の気配が薄い。ここなら、目が少ない。


「……ここなら、少しは楽か」

「そうね」

リュミエルの声は、さっきより柔らかかった。

「外の目は減る。あなたの肩も少し軽くなる」


エイドは棚を開け、服を入れ始めた。

畳んで、入れる。畳んで、入れる。作業は口を動かなくても進む。でも、引っ越しは確認が必要だから、声が生まれる。


「そこ、空いてる?」

「空いてる。……上?」

「上。あなた、背が高くないから」

「言うな」

「事実でしょ」

「黙れ」

「はいはい」


短い言葉が往復する。

怒ってはいない。試すようでもない。生活の中で出る、軽い擦れだ。そういう擦れは、ついこの間までなかった。


エイドが古い袋を棚の奥へ入れようとすると、リュミエルが言った。

「それ、もう一度見せて」

「……さっき見た」

「見ただけ。確かめたい」


エイドは袋を取り出し、机の上に置いた。

結び目を解く。金具が転がる。


リュミエルの気配が、机の上へ寄った。

「パリスはね、こういう小さいものを持ち歩く人だった」

「……どんな人だった?」

聞いた瞬間、エイドは自分でも驚いた。自分から質問している。前までの自分なら、聞かずに飲み込んだはずだ。


リュミエルは少し黙ってから、短く答えた。

「騒がしい。よく笑う。よく怒る。よく諦めない」

「……俺と違うな」

「違うわね」


即答だった。

エイドは眉を動かす。

リュミエルが、少しだけ笑う。


「でも、似てるところもある」

「どこが」

「変なところで、逃げない」


エイドは返事を探した。

見つからなくて、袋を結び直した。手が少しだけ遅くなった。


「……先祖、なのか」

「血の匂いは似てる。確信じゃないけど」

「匂いって」

「あなたは嗅げない。精霊は、そういうのがある」


リュミエルはそこで一拍置いた。

声が、ほんの少しだけ真面目になる。


「安心した」

「何が」

「あなたが、全く知らない家から来たわけじゃないってこと」

「……それは、俺のほうが安心する言い方だ」

「じゃあ、あなたも安心して。私も、安心したの」


エイドは机に手をつき、息を吐いた。

家族と離れること。精霊と暮らすこと。事故があっても大丈夫なように、ここへ入れられること。

全部、簡単じゃない。


でも、背後――いや、隣にいる声がある。


「エイド」

「何」

「引っ越し、手伝うわ」

「どうやって」

「口で」

「……役に立たないな」

「口は役に立つのよ。あなた、いま喋ってるでしょ」

「……手を動かしてくれ」


リュミエルは窓に近づき、外を見た。

窓は少し小さい。それでも、空の色は見える。雲の流れも、遠い建物の影も見える。彼女はそれを確かめるように見つめた。


「景色、狭い」

「我慢しろ」

「我慢する。でも、いつか広いところも見せて」

「……そのうち」

「約束ね」

「約束じゃない」

「約束にする」


エイドは苦笑するほどの余裕はない。

でも、息は少しだけ整った。


棚に最後の服を入れ、鞄を閉じる。部屋の中が“自分の形”に寄る。

それだけで、落ち着く部分がある。


エイドは机の上の袋を見た。

古いお守り。古い金具。自分の知らない時間が、そこに詰まっている。


「パリスのこと」

エイドが言う。

「少し気になる。……うちの先祖だろ」


リュミエルが、少しだけ目を細めた。

「とっても気になるって顔してる」

「してない」

「してる」


エイドは机の上の金具を指で押さえた。

「聞きたい。でも今じゃなくてもいい」

「今ここで話すと、あなたがおじいちゃんになっちゃうわよ」

「そんなに長いのか」

「長い。道も寄り道も、全部ついてくる」

「……また今度でいい」

「ええ。いずれね。――まずは生活を整えなさい」

「分かった」


リュミエルは、いつもの調子に戻る。

「それに、続きを話すには景色が要る。こんな狭い部屋で昔話をすると、話が拗ねるの」

「話が拗ねるって何だよ」

「精霊語よ」

「嘘だろ」

「嘘じゃない。たぶん」


短い言葉が重なる。

重ねれば、少しずつ形になる。


扉の外は静かだった。

この寮では、壊す魔法は通らない。壊したくても壊せない。

それは檻にも見えるし、盾にも見える。


エイドは鍵を握り直し、リュミエルを見る。


「……明日からだ」

「明日からね」

「勝手に力を出すなよ」

「勝手には出さないわよ。――あなたが呼ぶまで待つ」

「……助かる」

「その言い方、好き」


エイドは返事をしなかった。

代わりに、窓の外を一度だけ見た。狭い空の切れ端。その向こうに、街がある。家族がいる。

そして今、自分はここにいる。


新生活は、静かに始まった。

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