第1章 寮へ
家の朝は、音が柔らかい。
鍋の蓋が鳴り、椅子が床を擦り、誰かが名前を呼ぶ。窓の外からは、荷車の軋みと、遠い市場の声が薄く混じってくる。
エイドは玄関に荷物を寄せて置いた。
鞄と、身の回りの品を入れた袋。それだけだ。引っ越しと呼ぶほどの量ではない。それでも、家を出る重さくらいはあった。
母が袋の口紐を締め直しながら、手早く言う。
「結び目、これでいい?」
「うん」
返事は短い。言葉を足す余裕が、まだない。
父は玄関脇に立っていた。何か言いそうで、言わない。いつもの顔で、いつもよりよく見ている。
エイドはそれが分かったから、視線を上げた。
屋根の上に、リュミエルがいた。
朝の陽を背にして輪郭だけが浮く。白い衣の端が風にほどけ、髪が一瞬だけ金色に跳ねた。そこに“立っている”というより、光が人の形を借りて遊んでいるみたいだった。
「そんなに見上げると首が折れるわよ」
声は屋根から落ちてきた。軽い。けれど、薄っぺらくない。
エイドは小さく息を吐く。
「降りてこい。玄関先だぞ」
「今行く。――荷物、落とさないでね」
「落ちるのはお前だろ」
言い返した瞬間、リュミエルが動いた。
屋根の縁から、ためらいなく踏み出す。光が弧を描く。空気が一瞬だけ温度を持つ。
彼女はエイドの隣に音もなく着地した。
足元の影が薄くなる。石畳の隙間の露が、白く光って消える。
母が息を呑むのが分かった。
父が半歩前に出かけて、止まる。
リュミエルは首を傾げ、玄関前で軽く手を振った。
「おはようございます」
その言い方は、人に合わせたものだった。礼儀の形を知っている。
母は言葉を探し、やっと息を出した。
「……お、おはよう」
父は短く頷くだけだった。
エイドは荷物の袋を持ち上げる。
家族の前で彼女を“紹介”するきちんとした言葉を、まだ持っていない。
ここ最近のことが重すぎて、今日の言葉が追いつかない。
「派手に出るな」
小声で言うと、リュミエルは同じくらい小さく返した。
「派手じゃないわ。普通」
「普通じゃない」
「じゃあ、あなたの普通に合わせる」
「頼む」
リュミエルは、ほんの少しだけ光量を落とした。
そこにいるのは変わらない。けれど、“眩しさ”が引く。家族の目が、少しだけ呼吸を取り戻す。
母が、エイドの手に小さな袋を押し込んだ。
布の口を結んだだけの古いものだ。
「これ、忘れないで。昔からうちにあるお守り。きっとあなたを守ってくれるわよ」
「うん、ありがと」
袋の布は古く、口を結ぶ糸が擦り切れている。
エイドが結び目を解くと、小さな金具が掌に転がった。指輪のようで、指輪より薄い。縁に擦れた刻印がある。
リュミエルの表情から笑いが消えた。
さっきまでの軽さが、すっと引く。目だけが、遠いものを見る目になる。
「……パリスの」
エイドは金具に刻まれた名前を見た。
「パリス・マーマン?」
母が恐る恐る聞く。
「うちの人を……知っているの?」
父は一拍置き、言えるだけを言った。
「……昔の人の。うちの先祖にあたる人のものらしい」
それ以上は言わなかった。
リュミエルは小さく息を吐くように言った。
「落とさないで。――それは、あなたを守るものだから」
エイドは袋を結び直し、鞄の奥へ入れた。
仕草に、少しだけ慎重さが増えた。
「行ってくる」
母が頷く。
「気を付けて」
父は短く、「無理するな」とだけ言った。
リュミエルが玄関を先に出る。
一歩、外に出てから振り返り、エイドを見る。
「ねえ」
「何」
「寮って屋根高い?」
「高いだろ」
「良かった」
それだけ言って、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。
街へ出ると、居住区の柔らかさが薄れた。
石畳は乾いて硬い。朝の光が店先の金具を白く光らせ、荷車の車輪が一定の音を刻む。道端には水桶が並び、洗い終えた布が縄に掛かって揺れていた。
エイドは人の流れの端を歩いた。
目立たない線を選ぶ癖が、体に残っている。鞄の肩紐を握る手に、力が入る。
隣には、リュミエルがいる。
眩しさを抑え、歩幅を合わせている。けれど時々、視線が上へ向く。空の広い方、建物の高い方。見晴らしの良い方だ。
「上、見てる」
エイドが言うと、リュミエルは首を傾げた。
「うん」
「上見ながら歩いて転ぶなよ」
「転ばない。……行ってもいい?」
「短くだぞ」
「短く」
彼女は建物の側面に手を添え、光がすっと伸びるように身体を持ち上げた。跳ぶというより、風に拾われる。次の瞬間には屋根の縁に立っている。
リュミエルはすぐ歩き出さない。
ただ、そこで止まった。
朝の街を見下ろす。
煙突の煙がまっすぐ上がり、天幕の布が風に揺れる。遠くの湾の水面が、薄い銀色に光っている。居住区の屋根が連なり、その向こうに学校区の石造りが見える。
「……きれい」
小さな声が落ちてくる。
エイドは足を止めないまま返す。
「今でなくてもいいだろ」
「今しか見えないの。朝の光は短いし」
「……じゃあ、三息」
「三息って何」
「三回呼吸したら戻れ」
「優しい」
「違う。時間管理だ」
三息の間だけ、リュミエルは街を見た。
それから縁に手を置き、軽く降りる。着地は音がしない。通りすがりの人が気付いても、驚きで口を開くだけで終わる。見慣れたはずの街で、見慣れないものを見る顔だ。
「戻った」
「よし」
歩き出すと、視線が増える瞬間がある。
上を見た誰かが、今度は地上のエイドを見る。驚きが先に来る。理解は後。怖さと羨ましさが混ざっている目もある。
エイドは帽子のつばを少し深くした。
「……人目が増えた」
リュミエルが言う。
「私のせい?」
「半分」
「半分はあなたが気にしてるせい」
「気にしないほうが難しい」
「うん。だから練習するのよ」
「今は無理」
「正直でよろしい」
市場の角を曲がると、匂いが変わった。
香辛料と魚の匂いが遠のき、代わりに石と水の匂いが濃くなる。居住区から学校側へ向かう道は、道幅が少し広く、建物の背も揃っている。看板の文字も整い、路地の数が減った。
「ここ、息が楽だ」
エイドがぽつりと言う。
リュミエルが嬉しそうに笑った。
「ね。人の声が少ない」
「声じゃない。……目だ」
「目の話、好きね」
「好きじゃない」
「好きじゃないのに、よく喋る」
「必要だからだ」
「必要って言うと正しい感じがするわね」
境界の柱が見えてくる。
魔法区と居住区を分ける刻印が、道沿いに増える。石に刻まれた線は薄いのに、そこから先の空気ははっきり違った。人の歩き方が変わる。荷を運ぶ足から、規則を守る足になる。
寮はさらに奥だった。
訓練棟とは別の方向。外壁が高く、窓が少ない。入口は一つ。扉は重い。門柱に刻まれた禁じる文字が、朝の光で白く浮いている。
線は装飾ではない。
巨大な魔法の刻印だ。――ここでは壊すな、という。
エイドが足を止める。
「……ここか」
門の前には、すでに職員が一人立っていた。年嵩で、声が乾いている。エイドを上から下まで見た。
次に、リュミエルを見る。見ているというより、距離を測っている。
「エイド・マーマンだな」
「はい」
「入れ。――まず言っておく」
職員は門柱の刻印を指で叩いた。
「ここは特別寮だ。精霊と暮らすための設備がある。歓迎じゃない。危険を外に出さないための場所だ」
「分かってます」
職員は淡々と続ける。
「破壊するような魔法は、この中では通らない。意図的な放出は封じられる。過去に――火の精霊を寮に呼んで鍛錬しようとした者がいる」
職員は言い直す。
「者じゃない。馬鹿だ。半日で火事を起こした。だから刻んだ。ここで“強くなる”な。ここで“壊すな”。守れ」
リュミエルが門柱を見上げ、少しだけ目を細めた。
さっき屋根で街を見ていた時と同じ目だ。景色を見る目。仕組みを見抜く目。
「賢いわね」
小さく言う。
職員はそれを聞こえないふりをした。あるいは、聞こえても反応しないだけだ。
扉が重く開いた。
中は静かだった。
廊下の空気が澄んでいる。壁の内側にも刻印が走り、床の角に小さな結晶が埋め込まれている。禁じるための仕組み。壊させないための仕組み。ここにいる者の都合より、ここにいる者の危険を優先する造りだ。
「三階だ」
職員が先に歩き、階段を上る。足音が硬い。
「部屋は最低限だ。必要なものは寮で用意する。危険物は持ち込むな。――特に、挑発するような道具」
「挑発?」
「精霊に対してだ」
エイドは返事を飲み込んだ。
挑発するつもりはない。でも、自分の知らないところで“何か”が挑発になってしまう可能性はある。知らないうちに、境界を踏んだら目も当てられない。
部屋は三階の端だった。
ベッドと机と棚。窓は少し小さく、それでも外はきちんと見える。壊れにくい頑丈な造り。
職員は部屋の鍵を渡し、短く言った。
「訓練は今日じゃない。今日は荷物などを片付け。――そして明日からだ」
「はい」
「騒ぎを起こすな」
「起こしません」
扉が閉まり、鍵の音が遠ざかる。
残ったのは、エイドの呼吸と、部屋の静けさと、リュミエルの光。
エイドは荷物を下ろし、部屋を見回した。
新しい場所は落ち着かない。だが、居住区より目が少ないのは確かだ。窓の外の人の気配が薄い。ここなら、目が少ない。
「……ここなら、少しは楽か」
「そうね」
リュミエルの声は、さっきより柔らかかった。
「外の目は減る。あなたの肩も少し軽くなる」
エイドは棚を開け、服を入れ始めた。
畳んで、入れる。畳んで、入れる。作業は口を動かなくても進む。でも、引っ越しは確認が必要だから、声が生まれる。
「そこ、空いてる?」
「空いてる。……上?」
「上。あなた、背が高くないから」
「言うな」
「事実でしょ」
「黙れ」
「はいはい」
短い言葉が往復する。
怒ってはいない。試すようでもない。生活の中で出る、軽い擦れだ。そういう擦れは、ついこの間までなかった。
エイドが古い袋を棚の奥へ入れようとすると、リュミエルが言った。
「それ、もう一度見せて」
「……さっき見た」
「見ただけ。確かめたい」
エイドは袋を取り出し、机の上に置いた。
結び目を解く。金具が転がる。
リュミエルの気配が、机の上へ寄った。
「パリスはね、こういう小さいものを持ち歩く人だった」
「……どんな人だった?」
聞いた瞬間、エイドは自分でも驚いた。自分から質問している。前までの自分なら、聞かずに飲み込んだはずだ。
リュミエルは少し黙ってから、短く答えた。
「騒がしい。よく笑う。よく怒る。よく諦めない」
「……俺と違うな」
「違うわね」
即答だった。
エイドは眉を動かす。
リュミエルが、少しだけ笑う。
「でも、似てるところもある」
「どこが」
「変なところで、逃げない」
エイドは返事を探した。
見つからなくて、袋を結び直した。手が少しだけ遅くなった。
「……先祖、なのか」
「血の匂いは似てる。確信じゃないけど」
「匂いって」
「あなたは嗅げない。精霊は、そういうのがある」
リュミエルはそこで一拍置いた。
声が、ほんの少しだけ真面目になる。
「安心した」
「何が」
「あなたが、全く知らない家から来たわけじゃないってこと」
「……それは、俺のほうが安心する言い方だ」
「じゃあ、あなたも安心して。私も、安心したの」
エイドは机に手をつき、息を吐いた。
家族と離れること。精霊と暮らすこと。事故があっても大丈夫なように、ここへ入れられること。
全部、簡単じゃない。
でも、背後――いや、隣にいる声がある。
「エイド」
「何」
「引っ越し、手伝うわ」
「どうやって」
「口で」
「……役に立たないな」
「口は役に立つのよ。あなた、いま喋ってるでしょ」
「……手を動かしてくれ」
リュミエルは窓に近づき、外を見た。
窓は少し小さい。それでも、空の色は見える。雲の流れも、遠い建物の影も見える。彼女はそれを確かめるように見つめた。
「景色、狭い」
「我慢しろ」
「我慢する。でも、いつか広いところも見せて」
「……そのうち」
「約束ね」
「約束じゃない」
「約束にする」
エイドは苦笑するほどの余裕はない。
でも、息は少しだけ整った。
棚に最後の服を入れ、鞄を閉じる。部屋の中が“自分の形”に寄る。
それだけで、落ち着く部分がある。
エイドは机の上の袋を見た。
古いお守り。古い金具。自分の知らない時間が、そこに詰まっている。
「パリスのこと」
エイドが言う。
「少し気になる。……うちの先祖だろ」
リュミエルが、少しだけ目を細めた。
「とっても気になるって顔してる」
「してない」
「してる」
エイドは机の上の金具を指で押さえた。
「聞きたい。でも今じゃなくてもいい」
「今ここで話すと、あなたがおじいちゃんになっちゃうわよ」
「そんなに長いのか」
「長い。道も寄り道も、全部ついてくる」
「……また今度でいい」
「ええ。いずれね。――まずは生活を整えなさい」
「分かった」
リュミエルは、いつもの調子に戻る。
「それに、続きを話すには景色が要る。こんな狭い部屋で昔話をすると、話が拗ねるの」
「話が拗ねるって何だよ」
「精霊語よ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない。たぶん」
短い言葉が重なる。
重ねれば、少しずつ形になる。
扉の外は静かだった。
この寮では、壊す魔法は通らない。壊したくても壊せない。
それは檻にも見えるし、盾にも見える。
エイドは鍵を握り直し、リュミエルを見る。
「……明日からだ」
「明日からね」
「勝手に力を出すなよ」
「勝手には出さないわよ。――あなたが呼ぶまで待つ」
「……助かる」
「その言い方、好き」
エイドは返事をしなかった。
代わりに、窓の外を一度だけ見た。狭い空の切れ端。その向こうに、街がある。家族がいる。
そして今、自分はここにいる。
新生活は、静かに始まった。




