第14章 上と正面
「説明は、こちらで引き取ります」
神官長プラムの声は低い。
命令の形ではない。だが、路地の空気がその言葉に合わせて整う。整ってしまう。
補佐官ノアは半歩後ろに立ち、視線を動かさない。人ではなく、この場の線――目撃、噂、逃げ道の速度だけを見ている。
ローガンは剣を鞘に納めたまま、二人を見た。
「誰だ」
刃のない声。
「宗教国家の使節団を預かっております、神官長プラムと申します」
「補佐官のノアです」
「ここは交易国家の都市だ。おまえらの権限はない」
ローガンの拒絶は短い。短いほど強い。
プラムは頷いた。否定しない。
「承知しております。ですから命令ではありません」
「――ご提案です」
提案。
言い換えは柔らかい。柔らかいまま、逃げ道を狭める。
プラムの視線が、リュミエルに落ちる。刺さない。測る。
「光の中位精霊。未契約――という噂は、今夜で終わりですね」
エイドは喉の奥が熱くなる。
熱は誇りではない。外に漏れれば刃になる熱だ。
「契約したのは、君ですか」
責める調子ではない。
責任の置き場を確定する声。
「……そうです」
エイドが言うと、リュミエルの輪郭が僅かに張った。前に出ない。だが、退かない。
プラムは淡々と続ける。
「その制服、未成年の契約は扱いが難しいのでは?」
「狙う者は、精霊ではなく契約者ごと狙います」
ローガンが即座に返す。
「今夜は止めた」
「次も止める」
「“次”がある、と認めておられるのですね」
プラムの言葉は、善意の形をしている。
善意の形をした刃は、最も折れない。
ノアが小さく言う。
「……あの大出力の光です。目撃は避けられません。噂は残ります」
ローガンの目が細くなる。
噂は、街の武器だ。値札と同じ速度で回る。
プラムが一枚の紙を差し出した。折り目が正しい。最初から“形”として準備されたもの。
「教会として、保護を提案します」
「拒否もできます。ただ、その場合も記録は残ります」
ローガンの口角が僅かに動く。笑いではない。
「保護とは言葉な便利だな」
「ええ、便利です」
プラムは息を崩さない。
「管理と申せば反発が生まれます。保護と申せば責任が生まれます」
「責任は、逃げない者の言葉です」
ローガンは紙を受け取らない。受け取れば“同意の形”が残る。
だが突き返すこともしない。突き返せば“拒否の形”が残る。
この場で一番“存在感が薄い”のは、エイドだった。
目立たないぶん、狙われる。
プラムはそこを見逃さない。
「あなたは教師です。少年を守りたいでしょう」
「守るなら、守るための対策が要ります」
「今夜のような者が、二度目に同じ手で来るとは限りません」
ローガンの目が、わずかにエイドへ滑る。
一度だけ。すぐ戻る。
「この街のことは、この街で決める」
「自治権はこちらにある。大使館のあんたらじゃない」
プラムは息を吐かない。言葉を整えるだけだ。
「自治とは尊いものです。ですが、自治は孤立ではありません」
「この街に、精霊売買の影があります」
「今夜あなたが止めたのは“影”の端です。端はまた伸びます」
ローガンの沈黙が短くなる。
反論が言葉にならないのではない。言葉にした瞬間に“認めた形”になるからだ。
リュミエルが、柔らかい声で言った。
「……保護は、檻と同じ」
「檻にしたい者がいることは、否定しません」
プラムはすぐ返す。
「ですが、檻にしないための制度もあります」
「あなたが逃げれば、あなたを追うのは檻だけになります」
その理屈は正しい。正しいだけに、怖い。
正しさが、選択肢を削る。
ノアが静かに付け足す。
「この場で精霊の保護ができなければ、次に作られるのは“事件”です」
「事件は、混沌を呼びます」
そのときだった。
路地の外の空気が、ふっと冷えた。
夜気が冷えたのではない。
“木”の匂いが混じった。
潮と縄の匂いに、湿った葉の匂いが重なる。
倉庫街に似つかわしくない、深い森の匂い。
老人が、路地の入口に立っていた。
背は高くない。だが姿勢だけが、闇の中でも真っすぐ際立っていた。
白髪。穏やかな目。
穏やかなのに、こちらの結論を先に見透かしている目。
「遅れたかな」
声は柔らかい。だが、その柔らかさのまま場を支配する。
「魔法区森の長老、エルヴァン・グリーンウッド様」
ローガンが呟く。姿は控えめなのに、名そのものが重い。
その横に、もう一つの輪郭がある。
樹皮をもつ人型で、腕は枝、足元から細い根が石畳へ静かに潜る。
節の顔に苔の淡光だけが灯り、周囲の地面がじわりと“領域”に染まった。
木の精霊。中位。
精霊の意志が強い――そう見ただけで分かる。
プラムが、わずかに目を細めた。
「森の長老が、港湾区に……」
「交易に用があるのではない」
エルヴァンは微笑した。
微笑のまま、リュミエルへ視線を向ける。
「精霊に用がある」
ヴェルダの輪郭が、静かに揺れた。その揺れは、言葉の代わりの反応だった。
“こちらを見るな”という、木が鳴らす拒絶に似た圧。
エルヴァンはそれを宥めない。宥める必要がない。
主従に近い共存。精霊側の意志が前にある。
プラムが言う。
「私たちは保護を提案しています」
「契約者は子どもです。狙われます」
「保護」
エルヴァンはその言葉を口の中で転がす。
「便利な言葉だね」
「人が森を壊すときも、いつも保護と言う」
ローガンが一瞬だけ視線を動かす。
敵か味方か。測りかねる。
プラムは揺れない。
「神意に背く行いを止めるための保護です」
「精霊は神の御使いであり――」
「神は、隣に立つものではない」
プラムは丁寧に言い切った。
「上に在るのです」
「御使い、ね」
エルヴァンは穏やかに遮る。
「下から覗き込むだけでは、御使い様の真意は拝めないよ」
「あなた方は精霊を神そのもののように扱う。だが精霊は――」
「神ではない。……そこは同意します」
プラムはすぐに受けた。
受けたうえで、引き戻す。
「だからこそ、御使いを“神そのもの”として崇めるのではなく、神意に照らして扱わねばなりません」
エルヴァンが咎めるわけではなく優しく付け足す。
「上に在るものを見上げ続ければ、足元は見えなくなる」
「正面に立つのは、傲慢じゃない。責任だ」
プラムの声が硬くなる。
「悪意に染まるかもしれない契約者を、放置するおつもりですか」
「特別視され、疎まれ、妬まれる。――子どもは壊れます」
エルヴァンは目を伏せ、すぐ上げた。
「それも彼の選択だと言う人もいるだろう」
「だが私は、選択を語る前に“環境”を語る」
ヴェルダの輪郭が、少しだけ前へ出る。
木が風を遮るときの動きだ。
エルヴァンは続ける。
「悪意に染まらないようにしなくてはならないのは、この子だけじゃない」
「この子を疎む者も、みな同じ子どもだ」
「教え導くのが仕事だと言うなら、君は“個を守る”だけで満足してはいけない」
プラムが息を吸う。
「だからこそ、保護が必要です」
「保護がなければ、導く前に狩られます」
ローガンが口を挟む。
「……俺は保護を否定してない」
「だが、教会の保護は――」
「管理に劣る、と言いたいのですか」
プラムが静かに返す。
図星を刺す言葉は、声を上げない。
ローガンは答えない。
答えれば“認めた形”になる。
エルヴァンが、穏やかに言った。
「ここでの争点は二つだ」
「誰が守るか。――そして、守るとは何か」
プラムが答える。
「守るとは、神意から逸れないように導くことです」
エルヴァンは首を振らない。
代わりに、目だけで否定する。
「守るとは、壊さないことだ」
「精霊は壊さない。人は壊す」
ヴェルダが、初めて“言葉に近い音”を落とした。
木が軋むような、短い響き。
――人は、切る。
プラムの視線が、ヴェルダへ向く。
向けた瞬間に、ヴェルダの圧が増す。
祈りの匂いが、押し返される。
「……精霊の意志が強いですね」
プラムが言う。賞賛ではない。警戒だ。
エルヴァンは微笑した。
「強いのではない」
「最初から、こちらが弱いだけだ」
エルヴァンが続けて言う。
「結論を出そう」
「この場ではこの子はわしらが預かることとする。これはわしらが街を預かるものとして、今回の事件の整理をせねばならん」
プラムは頷く。
「教会は引き続き保護の枠を提示します」
「ただ――この件が魔法使いの領分であることも理解しています。今夜は、ここで引きます」
丁寧な声だ。
丁寧なまま、退き際の条件だけを残す。
「……今回は精霊にもお目にかかれました」
「契約が成立していることも、確認できました。噂が先に歩く街ですから――記録は必要になります」
ノアが淡々と付け足す。
ノアは感情を挟まない。
だからこそ、その言葉は逃げ場がない。
「目撃は避けられません。噂は残ります」
「残るなら、整えた形にしておくほうが安全です」
ローガンの目が細くなる。
言葉の端が、線になる。
エルヴァンが静かに言った。
「記録は、勝手だ」
「今夜は引くと言った。――なら、引け」
プラムは笑わない。
笑わずに頷く。
「ええ。今夜は引きます」
「こちらから踏み込みません。ですが必要になったときは――教会の扉を叩いてください」
最後まで“お願い”の形だった。
お願いの形のまま、逃げ道を作らせない。
プラムとノアの足音が、路地の外へ遠ざかる。
祈りの匂いも、少しずつ薄れていく。
残ったのは、魔法使いの沈黙と、精霊の輪郭だった。
ローガンが短く言う。
「戻るぞ」
エイドは息を吸った。
“記録”という言葉が、胸の奥に冷たく刺さる。
リュミエルが、エイドの横に立った。
距離を取らない。取らないことが、答えになる。
誰も完全な勝者はいない。
だが、今夜は――魔法使いの手の中で終わらせる。
路地の外では、目が増えている。
噂はもう始まっている。
それでも、歩くしかない。
夜の底から、三つの立場(教会、学校、精霊)が同じ方向へ動き出した。
神意のために。
自治のために。
精霊のために。
そして――未来を壊さないために。




