第13章 遅れてきた者たち
倉庫街の路地は、夜の底に沈んでいた。
光の余韻はすでに引き、石畳は再び影を受け入れている。潮と縄と、濡れた木の匂い。昼の名残は消えきらず、夜気の中に粘りついていた。
路地の入口で、足音が止まる。
隠すつもりのない歩き方だった。
音を立てないためではなく、状況を測るための歩幅。
外套を着た男が、一歩、影の中へ踏み込む。
短剣はまだ抜かれていない。だが、距離の測り方が、すでに“戦う側”のそれだった。
マルクス。
その半歩後ろに、キーラがいる。
周囲を見回すことはない。必要なものだけを拾い上げる目だった。
「……魔術印の痕跡では、ここね」
声は低い。
感想ではない。事実確認だ。
エイドとリュミエル。
夜に隠れなくなった光。
均一な街灯の外側で、はっきりと“異物”になっている輪郭。
キーラは一瞬で理解する。
もう隠しきれない。
この場は、処理の段階に入っている。
「…………契約、された?」
「ああ」
マルクスは即答した。
躊躇のない声。結果を結果として置く口調。
「はぁ?」
短い一音に、商人の感情が詰まる。
「ちょっと待って。まさか――しくじった、なんて言わないわよね?」
「違う」
マルクスは路地の奥から目を離さない。
「想定外が起きただけだ。だが――」
一歩、踏み込む。
靴底が石畳を噛む音が、夜に落ちる。
「小僧を消せば、また商品だ」
その言葉が落ちた瞬間、
路地の空気が、目に見えない形で沈み直した。
音が消えたわけではない。
潮の匂いも、遠くの車輪の軋みも、まだある。
それでも、この場所だけが、夜の底へ引きずり込まれたようだった。
エイドは喉の奥が乾くのを感じた。
恐怖ではない。逃げたいとも思っていない。
ただ、ここで何かが選ばれようとしている――その気配が、胸の奥を圧している。
逃げることはできる。
光を強めれば、道は開けるかもしれない。
だが、それは夜を裂く。
この場所を、ただの戦場に変えてしまう。
「待ちなさい」
キーラが、鋭く遮った。
「あのね、条件を忘れたの?」
「殺しはなし。それに、契約者を殺したら精霊は“マナの欠落”よ。価値は落ちるわ」
声は強いが、踏み込まない。
ここで一線を越えれば、この街は“事件”を持つ。
「マナ欠落の中古よ。位階が落ちた精霊なんて、欲しがる人間は少ないわ」
キーラは分かっている。
損益はもう赤だ。
それでも、ここで赤い血を足せば、帳簿は二度と戻らない。
帳簿は、血で書き換えられない。
少なくとも、彼女のやり方では。
「なら、どうする」
マルクスは短く言う。
「あきらめるのか?」
感情を挟まない声。
だが、挟まないからこそ分かっている。
ここで一線を越えれば、戻れない。
キーラは一瞬、言葉を止めた。
商人が計算する間。
損と現実を並べ替える、短い沈黙。
「……ちょっと待って」
視線を、エイドとリュミエルへ向ける。
「あんたたち。今すぐ、契約解除する気はある?」
「するわけないだろ」
エイドは即答した。
声に迷いはない。
少年は弱い。
だが、弱いまま折れる種類ではない。
「でしょうね……」
キーラが息を吐いた、その瞬間。
マルクスが動いた。
短剣が、低く構えられる。
距離が、一気に詰まる。
「早く決めろ、決められないなら――」
その言葉を、低い声が断ち切った。
「誰を殺すだと?」
路地の奥から、影が飛び出し前に出る。
重い。
だが、濁っていない。
ローガンの肩口に、赤い火花がひとつ寄り添っていた。
小さな炎――低位精霊フレア。
揺れているのに、暴れない。熱だけが、きちんとそこにある。
次の瞬間、ロングソードが闇を切る。
横薙ぎ。
振り切らない。刃の途中を当てにいく斬り。
マルクスは短剣で受ける。
金属が擦れ、火花は出ない。だが衝撃が骨に響く。
「……重いな」
確認の声。
ローガンは前に出る。
逃げ場の少ない路地で、距離を潰す。
突き。
胸ではない。肩口。振れなくする角度。
マルクスは半歩引き、弾く。
だが、腕に痺れが残る。
(受け続けるのはまずい)
マルクスが壁沿いへ流れる。
影を使い、線をずらす。
――そこへ、熱が先に落ちた。
フレアが、小さく息を吐くみたいに揺れる。
路地の石畳に、薄い熱が這う。
温度だけが上がり、煙は出ない。
マルクスの足が、ほんの一瞬だけ遅れる。
ローガンは、その一瞬だけを拾う。
剣の柄が飛ぶ。
斬撃ではない。
“置いた”一打。
肩をかすめる。浅い。
だが、次の動きが一瞬遅れる。
マルクスが短剣を返す。
ローガンは受けない。受ければ手が止まる。
刃の線を外し、剣先で距離を締める。
その間に、フレアがもう一度揺れた。
火ではない。光でもない。
刃に触れない温度だけが、短剣の金属を舐める。
マルクスの手が微かに跳ねる。
熱い、ではない。握り続けるのが嫌になる温度。
「……小細工か」
「暴漢対策だ」
ローガンの声は平坦だ。
振り下ろし。狙いは足。
マルクスが跳ねる。刃が石畳を割る。
距離が開く。
マルクスは背後を見る。キーラがいる。動けない距離だ。
ローガンも視線を一度だけ、エイドに置く。
守るべき場所を確認するだけの一瞬。
フレアが、細く揺れる。
路地の端。壁際に積まれた縄の束が、端だけ焦げた。
炎が上がらないように、熱が絞られている。
煙も、ほとんど出ない。
だが匂いは残る。
焦げは、進路の印になる。
マルクスの足が、自然に“避ける側”へ寄る。
避けた先は、ローガンの剣の線だ。
ローガンは追わない。
追わずに、詰める。
剣先が微動だにしない。
その差で、結論は出た。
「……だめだ」
マルクスの声は平坦だ。
「手練れだ。しかも、守る側の剣だ」
ローガンは一歩も踏み出さない。
勝てる。だが、ここでの優先は“倒す”じゃない。
「引くぞ」
マルクスはキーラを抱えた。
「え? ちょっと――!」
抗議は最後まで出ない。
跳躍。
路地の奥から、一息で距離を切る。
焦げた匂いだけが残り、二人の気配が消える。
残された静寂の中で、
ローガンは剣を下ろした。
「……魔術師か」
それだけ言って、追わない。
剣を収め、エイドへ向き直る。
「で?」
短い問い。
「状況は?」
エイドが口を開こうとした、そのとき。
「説明は、こちらで引き取ります」
街灯の下から、二つの影が現れる。
神官長プラム。
その後ろに、補佐官ノア。
祈りの匂いが、路地に落ちる。
リュミエルは静かに息を整えた。
世界は、納得しない。
それだけは、最初から分かっていた。
それでも。
エイドの胸の奥で、灯りは消えていなかった。




