第12章 契約の形
倉庫街の夜は、音が少ない。
その代わり匂いが濃い。縄と潮と濡れた木。積み荷の隙間に、冷えきらない昼の名残がこもっている。
エイドは息を噛み、足だけを前へ出した。
胸の奥が熱い。熱というより――灯りのようなものが、内側から一本の線になって引っぱっている。
(こっちだ)
理由は言葉にならない。
ただ、そうしなければならない気がした。
足元で小さな灯りが揺れた。術式の街灯とは違う、薄い輪郭の光。補習で見たあの小さな灯りが、いつのまにかついてきていた。
見ようとしなければ街灯の残りに紛れるのに、今は勝手に視界に割り込んでくる。
低位の光の精霊。
追い払う余裕はない。
追い払ったところで、この胸の線は消えない。
角を曲がった先で、夜が一段沈んだ。
倉庫の路地裏は影が深い。街灯の届かない帯が、通路の半分を塗りつぶす。
人の気配は薄い。だからこそ、別のものが濃くなる。
――圧。
背中に貼り付く冷たさ。
見られている、とは違う。
“計算されている”という気配が、空気に混じっている。
エイドは一歩を殺して、影を見る。
そこに、白い輪郭があった。
見ようとして見えたのではない。
見ようとしないのに、勝手に割り込む。
素質か、偶然か――そんな整理をする前に、目がそこへ吸い寄せられる。
人の形に近い。
だが衣擦れも足音もない。
夜の中で、灯りだけが輪郭を保って“そこにいる”。
光の精霊。
彼女は振り返る。
エイドが近づいた瞬間だけ、輪郭が僅かに張る。こちらを認識した反応だった。
「来ないで」
声は柔らかい。だが拒絶は硬い。
怖がっているのは自分ではなく、あなた――そういう拒絶だ。
エイドは足を止め、両手を少し上げた。敵意がないことを形にする。
それでも目は吸い寄せられる。
脇腹。
白い輪郭の一部が欠けている。欠けの中心に、魔術印が食い込んでいる気がした。
そして、その欠けは夜のどこかへ、見えない糸を引いている。
(……繋がってる)
罠だ。
しかも一本じゃない。
糸は一本の線ではなく、蜘蛛の巣みたいに複数の“結び”へ伸びている。
エイドが息を呑むと、リュミエルの輪郭が薄くなる。逃げる準備。
だが薄くしたところで、欠けが繋いでしまう。動けば、夜が締まる。
「……それ、取れないの?」
聞いた瞬間、リュミエルがほんの僅かだけ揺れた。
否定でも肯定でもない。
“分かってしまった”ことへの、短い警戒。
「触らないで」
「触らない。……でも」
エイドは言葉を止めた。
何を言っても軽くなる。今は、意志だけが必要だ。
胸の奥の線が、焼けるように太くなる。
怖さより先に、決めるべきことがある。
助けたい。
この子の光は、誰かの手の中に閉じ込めるんじゃない。
自由であるべきだ。
足元の小さな灯りが、ゆらりと揺れた。
まるで背中を押すみたいに。
エイドは意図を作った。
力ではなく、技。
“借りる”ための形。
――強くしろ。ただし、広げるな。
ローガンの声が頭の奥で鳴る。
夜を増やすな。目立つな。
必要なところだけ、見えるにしろ。
エイドは灯りを絞った。
広がらない。
空気全体を明るくしない。
一点だけが刺すように“見える”ようになる。
狙うのはリュミエルではない。
欠けの中心。魔術印の芯。
繋がりの“結び目”。
光が触れた瞬間、夜がひくりと跳ねた。
罠が反応しかける。
エイドは反射でさらに絞る。面を削って点にする。触れる範囲を削る。
灯りは点のまま、魔術印の芯だけを照らす。
その瞬間、糸のうちの一本が、ふっとほどけた。
けれど――残りがある。
ほどけた糸の隙間から、別の結びが冷たく締まり直す。
夜の圧が、上からも横からも形を持ちはじめる。
囲う。逃げ道を先に消す。――完成しようとしている。
一本ずつ処理している時間はない。
処理している間に、檻が閉じる。
リュミエルの声が急になる。
「……だめ」
この罠がエイドへ牙を剥くことを恐れている。
巻き込みたくない――その優しさが、拒絶を硬くしている。
エイドは喉の奥で言葉を探した。
理屈ならいくらでも並べられる。
でも今は、理屈を並べるほど時間が減る。
「どうしたらいい?」
ぽろりと落ちた問いだった。
賢い答えではない。
ただ、助けたいという気持ちのままの問い。
その瞬間、リュミエルの輪郭が――僅かに揺らいだ。
拒絶の硬さが、ほんの少しだけ溶ける。
巻き込みたくないのに、どこか通じてしまう。
エイドの意志が、彼女の中へ届いてしまう。
リュミエルは夜を見た。
罠の糸の結び目を、見た。
そして、エイドを見た。
二人の目が合う。
合った瞬間、言葉の代わりに確信が来た。
この子は引かない。
引けないのではない。引かないと決めている。
リュミエルが、静かに息を吐く仕草をした。
覚悟を整えるみたいに。
「……覚悟、ある?」
エイドは迷わなかった。
迷えば、檻が完成する。
迷えば、彼女は道具にされる。
「ある」
その一言で十分だった。
次の瞬間、二人の周りが淡く光った。
街灯の均一な光とは違う、柔らかく立ち上がる。
光の粒が、地面から、空気から、ふわりと舞い上がる。
低位の灯りたちが、立ち上がっている。
怖がって逃げるのではなく、祝うみたいに。
そして――頭の中に、祝詞が響いた。
声ではない。音でもない。
二人の意識の芯を、同じ言葉が貫く。
リュミエルが詠唱する。
それは祈りではなく、契約の言葉だ。
――いま、契約を結ぶ。
――我がマナ、汝がマナに。
――汝がマナ、我がマナに。
――灯は交わり、息は重なり、名は環となる。
光の粒が、二人の間で渦を巻く。
輪郭が重なり、重なった場所に“形”が生まれる。
契約魔法が、成立しようとしている。
――ここに誓う。
――この契りもて結ばれ、互いの命尽くるその時まで、
――理のもとに在りて、離れず、背かず、捨て置かず。
――我は汝に、真名の一部を授く。
――真名は枷にあらず。迷いを断ち、道を照らす灯火とならん。
――我が名は――リュミエル・ルクス
リュミエルは最後の確認だけ、口にした。
「……いい?」
エイドは頷いた。
「うん」
祝詞の余韻の中で、最後の言葉が落ちる。
――光よ届け。汝の道を照らして歩もう。
ここに、契約が結ばれた。
残っていた魔術印が、崩れた。
冷たさがほどけ、欠けていた輪郭が、あたたかな光を取り戻す。
リュミエルの人型の形が、より完全に定まっていく。
輪郭が濃くなる。薄くしても隠れず、見ようとしない人の目にも夜の異物として引っかかる。
リュミエルの輪郭は急に安定し、衣服の形が追いついていなかった。エイドは反射で上着を外し、肩にかけた。
「……寒くない?」
馬鹿な質問だと分かっている。
けれど、そう言わずにいられなかった。
リュミエルは上着を掴み、僅かに目を細めた。
拒絶の硬さではない。
今度は、困ったみたいな柔らかさだった。
そのとき、背後の空気が重くなった。
音はない。
だが空気が一段冷える。
さっきから薄く漂っていた“距離と手順を測る気配”が、今、こちらに焦点を合わせる。
屋根の上。鳴るはずのない瓦の上で、影がひとつ、わずかに動いたように見えた。
金属の冷たさが、わずかに混じる。
リュミエルの輪郭が、ほんの僅かに硬くなる。
来る。
誰かが、もう“そこ”まで来ている。




