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光の呼び名  作者: アルエル
序章
12/26

第12章 契約の形


倉庫街の夜は、音が少ない。

その代わり匂いが濃い。縄と潮と濡れた木。積み荷の隙間に、冷えきらない昼の名残がこもっている。


エイドは息を噛み、足だけを前へ出した。

胸の奥が熱い。熱というより――灯りのようなものが、内側から一本の線になって引っぱっている。


(こっちだ)


理由は言葉にならない。

ただ、そうしなければならない気がした。


足元で小さな灯りが揺れた。術式の街灯とは違う、薄い輪郭の光。補習で見たあの小さな灯りが、いつのまにかついてきていた。

見ようとしなければ街灯の残りに紛れるのに、今は勝手に視界に割り込んでくる。


低位の光の精霊。


追い払う余裕はない。

追い払ったところで、この胸の線は消えない。


角を曲がった先で、夜が一段沈んだ。

倉庫の路地裏は影が深い。街灯の届かない帯が、通路の半分を塗りつぶす。

人の気配は薄い。だからこそ、別のものが濃くなる。


――圧。


背中に貼り付く冷たさ。

見られている、とは違う。

“計算されている”という気配が、空気に混じっている。


エイドは一歩を殺して、影を見る。


そこに、白い輪郭があった。


見ようとして見えたのではない。

見ようとしないのに、勝手に割り込む。

素質か、偶然か――そんな整理をする前に、目がそこへ吸い寄せられる。


人の形に近い。

だが衣擦れも足音もない。

夜の中で、灯りだけが輪郭を保って“そこにいる”。


光の精霊。


彼女は振り返る。

エイドが近づいた瞬間だけ、輪郭が僅かに張る。こちらを認識した反応だった。


「来ないで」


声は柔らかい。だが拒絶は硬い。

怖がっているのは自分ではなく、あなた――そういう拒絶だ。


エイドは足を止め、両手を少し上げた。敵意がないことを形にする。

それでも目は吸い寄せられる。


脇腹。

白い輪郭の一部が欠けている。欠けの中心に、魔術印が食い込んでいる気がした。

そして、その欠けは夜のどこかへ、見えない糸を引いている。


(……繋がってる)


罠だ。

しかも一本じゃない。


糸は一本の線ではなく、蜘蛛の巣みたいに複数の“結び”へ伸びている。


エイドが息を呑むと、リュミエルの輪郭が薄くなる。逃げる準備。

だが薄くしたところで、欠けが繋いでしまう。動けば、夜が締まる。


「……それ、取れないの?」


聞いた瞬間、リュミエルがほんの僅かだけ揺れた。

否定でも肯定でもない。

“分かってしまった”ことへの、短い警戒。


「触らないで」


「触らない。……でも」


エイドは言葉を止めた。

何を言っても軽くなる。今は、意志だけが必要だ。


胸の奥の線が、焼けるように太くなる。

怖さより先に、決めるべきことがある。


助けたい。

この子の光は、誰かの手の中に閉じ込めるんじゃない。

自由であるべきだ。


足元の小さな灯りが、ゆらりと揺れた。

まるで背中を押すみたいに。


エイドは意図を作った。

力ではなく、技。

“借りる”ための形。


――強くしろ。ただし、広げるな。


ローガンの声が頭の奥で鳴る。

夜を増やすな。目立つな。

必要なところだけ、見えるにしろ。


エイドは灯りを絞った。


広がらない。

空気全体を明るくしない。

一点だけが刺すように“見える”ようになる。


狙うのはリュミエルではない。

欠けの中心。魔術印の芯。

繋がりの“結び目”。


光が触れた瞬間、夜がひくりと跳ねた。

罠が反応しかける。

エイドは反射でさらに絞る。面を削って点にする。触れる範囲を削る。


灯りは点のまま、魔術印の芯だけを照らす。

その瞬間、糸のうちの一本が、ふっとほどけた。


けれど――残りがある。


ほどけた糸の隙間から、別の結びが冷たく締まり直す。

夜の圧が、上からも横からも形を持ちはじめる。

囲う。逃げ道を先に消す。――完成しようとしている。


一本ずつ処理している時間はない。

処理している間に、檻が閉じる。


リュミエルの声が急になる。


「……だめ」


この罠がエイドへ牙を剥くことを恐れている。

巻き込みたくない――その優しさが、拒絶を硬くしている。


エイドは喉の奥で言葉を探した。

理屈ならいくらでも並べられる。

でも今は、理屈を並べるほど時間が減る。


「どうしたらいい?」


ぽろりと落ちた問いだった。

賢い答えではない。

ただ、助けたいという気持ちのままの問い。


その瞬間、リュミエルの輪郭が――僅かに揺らいだ。


拒絶の硬さが、ほんの少しだけ溶ける。

巻き込みたくないのに、どこか通じてしまう。

エイドの意志が、彼女の中へ届いてしまう。


リュミエルは夜を見た。

罠の糸の結び目を、見た。

そして、エイドを見た。


二人の目が合う。


合った瞬間、言葉の代わりに確信が来た。

この子は引かない。

引けないのではない。引かないと決めている。


リュミエルが、静かに息を吐く仕草をした。

覚悟を整えるみたいに。


「……覚悟、ある?」


エイドは迷わなかった。

迷えば、檻が完成する。

迷えば、彼女は道具にされる。


「ある」


その一言で十分だった。


次の瞬間、二人の周りが淡く光った。

街灯の均一な光とは違う、柔らかく立ち上がる。

光の粒が、地面から、空気から、ふわりと舞い上がる。


低位の灯りたちが、立ち上がっている。

怖がって逃げるのではなく、祝うみたいに。


そして――頭の中に、祝詞が響いた。

声ではない。音でもない。

二人の意識の芯を、同じ言葉が貫く。


リュミエルが詠唱する。

それは祈りではなく、契約の言葉だ。


――いま、契約を結ぶ。

――我がマナ、汝がマナに。

――汝がマナ、我がマナに。

――灯は交わり、息は重なり、名は環となる。


光の粒が、二人の間で渦を巻く。

輪郭が重なり、重なった場所に“形”が生まれる。

契約魔法が、成立しようとしている。


――ここに誓う。

――この契りもて結ばれ、互いの命尽くるその時まで、

――理のもとに在りて、離れず、背かず、捨て置かず。


――我は汝に、真名の一部を授く。

――真名は枷にあらず。迷いを断ち、道を照らす灯火とならん。


――我が名は――リュミエル・ルクス


リュミエルは最後の確認だけ、口にした。


「……いい?」


エイドは頷いた。


「うん」


祝詞の余韻の中で、最後の言葉が落ちる。


――光よ届け。汝の道を照らして歩もう。


ここに、契約が結ばれた。


残っていた魔術印が、崩れた。

冷たさがほどけ、欠けていた輪郭が、あたたかな光を取り戻す。

リュミエルの人型の形が、より完全に定まっていく。


輪郭が濃くなる。薄くしても隠れず、見ようとしない人の目にも夜の異物として引っかかる。


リュミエルの輪郭は急に安定し、衣服の形が追いついていなかった。エイドは反射で上着を外し、肩にかけた。


「……寒くない?」


馬鹿な質問だと分かっている。

けれど、そう言わずにいられなかった。


リュミエルは上着を掴み、僅かに目を細めた。

拒絶の硬さではない。

今度は、困ったみたいな柔らかさだった。


そのとき、背後の空気が重くなった。


音はない。

だが空気が一段冷える。

さっきから薄く漂っていた“距離と手順を測る気配”が、今、こちらに焦点を合わせる。


屋根の上。鳴るはずのない瓦の上で、影がひとつ、わずかに動いたように見えた。

金属の冷たさが、わずかに混じる。


リュミエルの輪郭が、ほんの僅かに硬くなる。


来る。


誰かが、もう“そこ”まで来ている。



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