第11章 光の代償
倉庫街に入った途端、周囲の空気が変わった。
町の中心の明るさは背後に薄れ、代わりに木と縄と塩の匂いが濃くなる。濡れた板が水気を帯び、積み荷の隙間から風が入り込む。
――そして、背中に“圧”が残る。
追ってくるものの重みだ。
音でも視線でもない。逃げ道を数える冷たさが、距離の外側に張り付いている。
私は高さを落とした。
屋根から雨除けへ、雨樋の裏へ、壁の縁へ。人の目線を外した線だけを拾っていく。
灯りは削る。輪郭だけを残し、暗がりに紛れる。
それでも、圧は薄れない。
薄れないどころか――詰まる。
追い手が走っているのは分かる。
だが、追跡の“音”がない。板が鳴らず、釘がきしまず、夜気だけが切り裂かれる。
速度のためじゃない。気配を立てないための速度。
それを身につけた者の追い方だ。
背中が、ひやりとした。
次の手が来る距離。
私は角を切った。
狭い隙間を越え、影の濃い側へ逃げる。躊躇が生まれた瞬間に終わる。
――躊躇は、私だけだった。
追い手は迷わず追随する。
着地の衝撃だけが、空気に薄い皺を作る。鳴るべきものが鳴らない。
屋根が彼を拒まない。
手練だ、と骨まで分かる。
前方の夜が、また固い。
影が壁になったわけじゃない。
そこだけ、空気の手触りが違う。踏み込めば“触れる”と分かる。
灯りに反応して絡め取るための術が、待っている。
――また罠だ。
私は直前で軌道を変えた。
固い夜の縁を避け、別の線に逃げる。通れない場所があるだけで、逃げ道は細る。細るほど、追い手の手が届く。
背後の圧が、皮膚に触れた。
金属の気配が近い。短剣だ。
刃そのものは見えない。だが“届く距離”だけが先に来る。
――捕まる。
このまま静かな逃走を続ければ、捕まる。
捕まれば、私は道具になる。
道具になれば、私は終わりだ。精霊としての意味がなくなる。
私はそれを選ばない。
逃げ道には幾重にも罠が貼られている。
私が街を壊さないことも、人を巻き込みたくないことも、追い手は知っている。
だから私が選べない線を先に潰す。
足での逃走は、いずれ詰む。
なら――詰む前に、追う側の計算を崩す。
私は息をひとつ、深く吸った。
速度を落とす。逃げるのをやめるのではない。“追いつける”と思わせる速さに変える。
圧が濃くなる。
追い手が詰めてくる。
距離が一息に縮んだ、その瞬間――私は身を翻し、正面を向いた。
近い。
夜の中で、短剣の輪郭だけが冷たく立つ。
追い手の気配は乱れない。待っていた。ここまでを計算していた。
それでも私は、ためらわない。
一瞬で、夜を白に塗りつぶした。
狭い空も、倉庫の壁も、雨除けも、積み荷も――闇の層が丸ごと剥がれる。
術式の整った明るさではない。焦げるような純白が、倉庫街の奥まで満たす。
光が“広がった”のではない。
世界の影が、ひと息だけ消えた。
その一拍で、罠が浮き上がる。
夜が均一になったことで、均一ではいられないものだけが残る。
空気に張られた見えない糸。踏み込めば跳ねる境界。
暗がりに紛れていた術の形が、まとめて輪郭を持つ。
――そこは行けない。
――そこも、閉じる。
――だが、ここは抜けられる。
行ける範囲が、光の中で一瞬だけ地図になる。
私は、その“抜け目”を踏んだ。
跳躍。
積み荷の上へ、雨除けの影へ、次の壁の縁へ――光が消える前に、通れる線だけを連ねて距離を剥がす。
倉庫街の路地裏へ飛び込む。人の線を増やさないために。
――いける。
そう思った瞬間だった。
脇腹が冷える。
痛みは遅れて来た。
鋭い熱ではない。触れられた感触が、後から“欠け”として広がる。
短剣が、私の輪郭に“触れた”。
見えなかったわけじゃない。
ただ、あの光の一拍――罠を見抜いて跳ぶ“最も相手を見ない瞬間”を、追い手は待っていた。
一拍で、十分だというように。
倉庫と倉庫の隙間、潮と縄の匂いが濃い路地裏に身を滑り込ませた。
そこでようやく、私は膝をつく。
脇腹が――冷たい。
刃の痛みではない。灯りが欠けるような痛みだ。触れられた場所が、夜へ向かってほどけていく。
指先を当てると、輪郭の内側に“印”があるのが分かる。
異物が食い込む感触。私の光の形に、魔術が噛みついた跡。
魔術印。
息を整えようとしても、呼吸のたびに欠けが軋む。
隠れたくて光を削れば削るほど、その印だけが消えない。消えないまま、遠くの夜と繋がろうとする。
私は壁に背を預け、肩を落とした。
――ここで止まるわけにはいかない。
でも、今は動けば締まる。
路地の外で、追い手の“圧”が動いた。
探しているのではない。こちらを当てに来ている。
私は歯を噛み、灯りをさらに薄くする。
祈るためじゃない。
この街を壊さないために。
私は息を整えながら、計算を始めた。
この倉庫街を抜ける線。人の少ない出口。
そして港。
港へ出れば船がある。外へ逃げられる。
だが灯りが増える。見張りも増える。人の線が増える。
巻き込みたくない。けれど、ここに留まれば狩り場になる。
港に出るか。
ここで断ち切るか。
そのとき、胸の奥に、別の細い線が引っかかった。
いや、ずっと引っかかっていたのを意図的に無視しようとしていた。
幼い。弱い。
それでも、こちらへ伸びてくる回路。
見ようとしていないのに、視界に割り込む――そういう揺れ。
まただ。
さっきの光の余韻が、遠くまで届いたのだろう。
感受性の強い子ども。
この街では子どもの感受性が高い。精霊の影響を受けやすい。
だからこそ巻き込みたくない。
危険の側へ寄せる理由がない。
私は灯りをさらに削った。輪郭を薄くし、影へ寄せる。
――それでも線は消えない。
消えないどころか、近づいてくるように感じる。
呼んでいるのではない。助けを求めているのでもない。
ただ、繋がってしまっている。
私は戸惑いを飲み込んだ。
今はそれどころじゃない。
外で圧が動く。
次に来る手は、光で止まらない。
この印が残る限り、私は追い手の術と繋がったままだ。
だから――切る。
港へ出るか。
ここで断ち切るか。
迷いを抱えたまま、夜の線を選ぶ。
街を壊さない。人を巻き込まない。
その条件のまま、この追跡を終わらせる方法を探す。
倉庫街の闇の奥で、光の代償が脇腹を鈍く叩き続けていた。




