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光の呼び名  作者: アルエル
序章
11/26

第11章 光の代償


倉庫街に入った途端、周囲の空気が変わった。

町の中心の明るさは背後に薄れ、代わりに木と縄と塩の匂いが濃くなる。濡れた板が水気を帯び、積み荷の隙間から風が入り込む。


――そして、背中に“圧”が残る。


追ってくるものの重みだ。

音でも視線でもない。逃げ道を数える冷たさが、距離の外側に張り付いている。


私は高さを落とした。

屋根から雨除けへ、雨樋の裏へ、壁の縁へ。人の目線を外した線だけを拾っていく。

灯りは削る。輪郭だけを残し、暗がりに紛れる。


それでも、圧は薄れない。

薄れないどころか――詰まる。


追い手が走っているのは分かる。

だが、追跡の“音”がない。板が鳴らず、釘がきしまず、夜気だけが切り裂かれる。

速度のためじゃない。気配を立てないための速度。

それを身につけた者の追い方だ。


背中が、ひやりとした。

次の手が来る距離。


私は角を切った。

狭い隙間を越え、影の濃い側へ逃げる。躊躇が生まれた瞬間に終わる。


――躊躇は、私だけだった。


追い手は迷わず追随する。

着地の衝撃だけが、空気に薄い皺を作る。鳴るべきものが鳴らない。

屋根が彼を拒まない。


手練だ、と骨まで分かる。


前方の夜が、また固い。


影が壁になったわけじゃない。

そこだけ、空気の手触りが違う。踏み込めば“触れる”と分かる。

灯りに反応して絡め取るための術が、待っている。


――また罠だ。


私は直前で軌道を変えた。

固い夜の縁を避け、別の線に逃げる。通れない場所があるだけで、逃げ道は細る。細るほど、追い手の手が届く。


背後の圧が、皮膚に触れた。


金属の気配が近い。短剣だ。

刃そのものは見えない。だが“届く距離”だけが先に来る。


――捕まる。

このまま静かな逃走を続ければ、捕まる。

捕まれば、私は道具になる。

道具になれば、私は終わりだ。精霊としての意味がなくなる。

私はそれを選ばない。


逃げ道には幾重にも罠が貼られている。

私が街を壊さないことも、人を巻き込みたくないことも、追い手は知っている。

だから私が選べない線を先に潰す。


足での逃走は、いずれ詰む。


なら――詰む前に、追う側の計算を崩す。


私は息をひとつ、深く吸った。

速度を落とす。逃げるのをやめるのではない。“追いつける”と思わせる速さに変える。


圧が濃くなる。

追い手が詰めてくる。


距離が一息に縮んだ、その瞬間――私は身を翻し、正面を向いた。


近い。

夜の中で、短剣の輪郭だけが冷たく立つ。

追い手の気配は乱れない。待っていた。ここまでを計算していた。


それでも私は、ためらわない。


一瞬で、夜を白に塗りつぶした。


狭い空も、倉庫の壁も、雨除けも、積み荷も――闇の層が丸ごと剥がれる。

術式の整った明るさではない。焦げるような純白が、倉庫街の奥まで満たす。


光が“広がった”のではない。

世界の影が、ひと息だけ消えた。


その一拍で、罠が浮き上がる。


夜が均一になったことで、均一ではいられないものだけが残る。

空気に張られた見えない糸。踏み込めば跳ねる境界。

暗がりに紛れていた術の形が、まとめて輪郭を持つ。


――そこは行けない。

――そこも、閉じる。

――だが、ここは抜けられる。


行ける範囲が、光の中で一瞬だけ地図になる。


私は、その“抜け目”を踏んだ。


跳躍。

積み荷の上へ、雨除けの影へ、次の壁の縁へ――光が消える前に、通れる線だけを連ねて距離を剥がす。

倉庫街の路地裏へ飛び込む。人の線を増やさないために。


――いける。


そう思った瞬間だった。


脇腹が冷える。


痛みは遅れて来た。

鋭い熱ではない。触れられた感触が、後から“欠け”として広がる。

短剣が、私の輪郭に“触れた”。


見えなかったわけじゃない。

ただ、あの光の一拍――罠を見抜いて跳ぶ“最も相手を見ない瞬間”を、追い手は待っていた。


一拍で、十分だというように。


倉庫と倉庫の隙間、潮と縄の匂いが濃い路地裏に身を滑り込ませた。

そこでようやく、私は膝をつく。


脇腹が――冷たい。

刃の痛みではない。灯りが欠けるような痛みだ。触れられた場所が、夜へ向かってほどけていく。


指先を当てると、輪郭の内側に“印”があるのが分かる。

異物が食い込む感触。私の光の形に、魔術が噛みついた跡。


魔術印。


息を整えようとしても、呼吸のたびに欠けが軋む。

隠れたくて光を削れば削るほど、その印だけが消えない。消えないまま、遠くの夜と繋がろうとする。


私は壁に背を預け、肩を落とした。

――ここで止まるわけにはいかない。

でも、今は動けば締まる。


路地の外で、追い手の“圧”が動いた。

探しているのではない。こちらを当てに来ている。


私は歯を噛み、灯りをさらに薄くする。

祈るためじゃない。

この街を壊さないために。


私は息を整えながら、計算を始めた。

この倉庫街を抜ける線。人の少ない出口。

そして港。


港へ出れば船がある。外へ逃げられる。

だが灯りが増える。見張りも増える。人の線が増える。

巻き込みたくない。けれど、ここに留まれば狩り場になる。


港に出るか。

ここで断ち切るか。


そのとき、胸の奥に、別の細い線が引っかかった。

いや、ずっと引っかかっていたのを意図的に無視しようとしていた。


幼い。弱い。

それでも、こちらへ伸びてくる回路。

見ようとしていないのに、視界に割り込む――そういう揺れ。


まただ。


さっきの光の余韻が、遠くまで届いたのだろう。

感受性の強い子ども。

この街では子どもの感受性が高い。精霊の影響を受けやすい。


だからこそ巻き込みたくない。

危険の側へ寄せる理由がない。


私は灯りをさらに削った。輪郭を薄くし、影へ寄せる。

――それでも線は消えない。


消えないどころか、近づいてくるように感じる。

呼んでいるのではない。助けを求めているのでもない。

ただ、繋がってしまっている。


私は戸惑いを飲み込んだ。

今はそれどころじゃない。


外で圧が動く。

次に来る手は、光で止まらない。

この印が残る限り、私は追い手の術と繋がったままだ。


だから――切る。


港へ出るか。

ここで断ち切るか。


迷いを抱えたまま、夜の線を選ぶ。

街を壊さない。人を巻き込まない。

その条件のまま、この追跡を終わらせる方法を探す。


倉庫街の闇の奥で、光の代償が脇腹を鈍く叩き続けていた。



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