性に目覺める頃
〈形だけ小春の芯の寒さ哉 涙次〉
【ⅰ】
「ココア淹れるね」
由香梨の咽喉は妙な具合ひに掠れてゐた。さつき、光流が車椅子から立ち上がらうとして、由香梨の躰に躰を預けたとき、その「掠れ」は發生したのだ。由香梨はもう幼いとは云へない慾情をしてゐた。彼女はファーストキスはココアの味だと思ふと、底知れぬ空恐ろしさと可笑しさを、兩面で感じてゐた。と同時に、この度降つて湧いたかのやうにプライヴェート・スペースを持てた僥倖を、ひしと抱き締める由香梨。杵塚映画のよもやの商業的成功は、その僥倖を司る、何物かである事は確かだつた。其処で、二人(由香梨と光流)は、二人つきりのとても「後ろ暗い」事をした。
【ⅱ】
とまあさう云つたところを、文章ではなく映像で表現したのが、杵塚の第4彈映画『性に目覺める頃』のオープニングであつた。因みに光流→前シリーズ第114話參照。由香梨のプライヴェート・スペース→當該シリーズ第137話參照の事。
【ⅲ】
「いやだ、兄ちやん。これぢや兄ちやんまづ間違ひなくロリコンつて呼ばれるよ」と由香梨は云ふのである。−「さうかあ、俺としちや藝術の積もりなんだがな」この杵塚の應對には、光流の母・田咲節が囓み付いて來た。
「藝術ですつて? 人の家の息子を山車にしたエロ話が、藝術なもんですか!」−だが、それに對する光流の叛應は、「母さん、『ざますのママ』みたいだよ」
※※※※
〈彼の作小説だけは避けたしと思ふ貴方ももう虜だよ 平手みき〉
【ⅳ】
「ざますのママ」とは− 我が子を人前でもちやん付けで呼び、語尾にはざますを忘れない、戲画化された過保護な教育ママの事である。
節と光流は日頃、「うちとは大違ひ」だと云ふ事で、この「ざますのママ」話で盛り上がつてゐたのだが、いざ蓋を開けてみると、今まさに節が演じてゐるのが「それ」なのではないかと、光流は指摘してゐるのだ。
【ⅴ】
で、プライヴェート・スペース云々の話だが、光流は由香梨をうちに上げた事がなかつた。バリアフリーに徹する余り(車椅子で何処でも通り拔けられるやう配慮する余り)、光流のプライヴェート空間が狹められてゐると云ふパラドクスについて、光流はこれを期に父母に訴へた。だうせプライヴァシーには必ずと云つていゝが「後ろ暗さ」が付き纏ふものだ。少々「後ろ暗」くても、光流はプライヴァシーを確保したかつた。
【ⅵ】
だが節はこれだけ話をしても、まだぷりぷりしてゐた。杵塚に對し、「お宅のカンテラさん、*『雜想刈り』つてのが出來るさうだけど、カントクさん、貴方それを受けた方がいゝわ」など云ひたい放題。杵塚の藝術も形無しである。勿論それにはカンテラ、待つたを掛けた。「雜想の領域内にあるのは、あんたの方だぜ、ママさん」。結局、「頭を冷やせ」と云ふ、夫にして父、** 志彦氏の鶴の一聲があつて、節は形ばかりは大人しくなつたのだが。
* 前シリーズ第74話參照。
** 當該シリーズ第135話參照。
【ⅶ】
まあ、こんな事ぐらゐでめげる杵塚でなくして、日本映画界の為に良かつたと云へやう。これしきで音を上げるやうでは映画監督は勤まらない、と云つたところ。まだまだ節の付ける因縁は収まりさうになかつたが、杵塚、自分が耐へるべきは何か、さつぱり得心が行かなかつたと云ふ。
それを杵塚の圖太さと云つていゝものかだうか、カンテラ考へたのだが、直ぐに放擲した。「だうなとなれ」。たかゞ映画、されど映画。お後がよろしいやうで。よろしくないか。また。
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〈詩人見よ南無梟の内在を 涙次〉
〈ファンファーレ〉此井晩秋
性に目覺める頃
愛は内攻する
互ひに肉體を弄り合つた
記憶を恥としてしまふ
だが私は詩人だ
誰に肯定出來なくても
私だけはその愛を
肯定する
私の詩はファンファーレ
金管樂器の音樂
Dizzy Gillespieが
貴方がたをバックアップするのと
意味上同じなのだ
聴け震へよ−




