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涙は交渉、真実は音を持たない

理事会当日の朝。学院の廊下は重苦しい空気に満ちていた。


すれ違う生徒たちがひそひそと囁き合う声が、石の壁に染み込んでいく。

「マリナの件、ひどすぎる…」

「誰がこんなことを…」

「可哀想に…」


噂の中心にいるのはマリナだ。その囁きは、レナータの耳にも突き刺さるようだった。



彼女は制服の裾を揺らしながら、迷いなくリヴァリスの前に立ちふさがる。


許嫁は窓際に立ち、外を見下ろしていた。背後から声を投げられても、振り返らずに唇だけがわずかに動く。


「昨日のマリナの件、あなたの仕業でしょう?」


ゆっくりと振り返る。目元は冷たく、口元だけがわずかに吊り上がっている。


「証拠でもあるのか?それにお前は俺のものだ。庶民の相手をしている場合ではないだろう」


一歩踏み込み、真っ直ぐに睨み返す。


「そんなことは家が勝手に決めたことでしょう。私は認めてないわ」


リヴァリスは肩を竦め、掌を軽く広げる。まるで自明の理を告げるように。


「認めようが認めまいが関係ない。お前は俺の許嫁だ。黙って従っていればいい」


怒りを押し殺した声が低く響く。


「女を物のように扱って。相変わらず最低ね」


わざとらしく笑みを深め、顎を上げて見下ろす仕草。


「お褒めに預かり光栄だ。だがいいのか?お前の愛する庶民は、俺の一言でいかようにもできるぞ」


拳が震え、唇が固く結ばれる。屈辱と怒りが胸の奥で渦を巻いた。


「……どうすれば、あなたの気が済むの」


近づいてくる足音。耳元に囁くような声が落ちる。


「わからないはずはないだろう。黙って俺の隣に立て」


わずかに視線を伏せ、搾り出すように返す。


「……わかったわ。ただし、今回の件は撤回してもらうわよ」


くすりと笑い、片手で胸に触れる仕草。


「ああ、将来の伴侶のお願いだ。約束は守ろう」


「……本当に最低ね」


吐き捨てるように言い残し、踵を返す。

夕陽の差し込む廊下を歩み去るその背中を、リヴァリスは唇の端に冷たい笑みを残して見送った。



夕暮れの中庭。空気は静かで、鳥の声すら遠い。葉の影が長く伸び、二人の間に線を引くようだった。


レナータは立ち止まり、唇を噛んでから振り返る。


「トマス…私たちの関係が、あなたの家族…それにマリナを苦しめてる」


トマスは即座に首を振った。


「どうなろうと構わない。俺はレナータと一緒にいたい」


苦しげに眉を寄せ、声に力を込める。


「でも私は構うの。このままじゃ、あなたの妹さんの未来まで…それにマリナだって、このままじゃ潰れてしまう」


「私がそばにいることで、あなたを余計に追い詰めてるのよ」


必死に食い下がるような声が返る。


「そんなの関係ない。君さえいれば、それでいい」


その言葉にレナータの表情が曇り、失望を含んだ声で告げる。


「…その言葉が一番人を傷つけるのよ」


「え?」

困惑の色を浮かべるトマス。


涙をにじませながら、震える声で続ける。


「私の気持ちを考えてくれないの?私も苦しいのよ。あなたを愛してるからこそ…だからこそ諦めなければならない」


涙がこぼれる中で、最後の言葉を絞り出す。


「ごめんなさい。でも、これが最善だと思うの」


背を向ける。金の髪が夕陽に揺れ、別れを象徴するように光った。


「待ってくれ!」


トマスの叫び声が響くが、振り返ることはない。


その場に崩れ落ちる。膝から力が抜け、ベンチに沈み込む。

妹の推薦も失い、愛する人も失い、マリナすら守れなかった。


中庭の静けさの中で、すべてを失った少年だけが残る。


「くそ…くそ…」


「守るって言ったのに…何ひとつ守れない…」


握りしめた拳から血がにじむ。

杖を握る手が震え、魔力が不安定に漏れ出していた。



夜。学院の資材回廊。松明の光すら届かない、湿った闇。風もなく、音が消えたように静まり返っている。


闇に低い男の声が落ちる。


「上手くいったな」


満足げで、獲物を仕留めた獣のような響き。


暗闇から女の声が応える。


「……感謝してるわ」


一瞬だけ、まだ被害者のように聞こえる声だった。


松明の火が揺れ、マリナの姿が浮かび上がる。


昨日まで涙を流していた少女の面影はどこにもなく、その瞳には冷たい計算の光が宿っていた。


続いて、男の影が現れる。


「利害が一致しただけだ。だが庶民の割に悪くなかった」


リヴァリスの声は余裕に満ちている。


「抱いて欲しかったら、いつでも来い」


沈黙が流れる。


そして、マリナの声色が氷のように冷える。


「結構よ。二度もあなたに抱かれたんだから」


顔を上げ、口角をゆっくり吊り上げる表情。


「触れるのは、トマスだけよ」


小さく笑いながら、真っ直ぐに見返す。


眉をひそめる反応。


「あの男の何がそんなにいい?」


「あなたにはわからないわ。トマスの凄さはね」


瞳に狂気めいた光が宿る。


「彼は……私のものよ。レナータなんかに渡すものですか」


リヴァリスの口元に、愉悦の笑みが浮かぶ。


「ほう。だが、レナータは友人じゃなかったのか?」


一拍の沈黙。

マリナはうっすらと笑みを滲ませ、吐息のような声で応える。


「ええ、レナータは大切な友達よ。

でもトマスを奪うなら――その時は笑って裏切るわ。

だって、私が欲しいのは友情じゃない。あの人だけだから」


彼女の瞳が揺れたかと思うと、そこには底知れぬ執着が燃え上がっていた。


「愛してるの。狂ってるくらいに。だから犠牲なんて惜しくない」


声が低く落ちていく。


「処女も、友情も、誇りも、涙も……」


一つひとつ言葉を切り捨てるたび、闇が周囲に染み込んでいくようだった。

マリナは唇を歪め、静かに告げる。


「そんなもの全部どうでもいい。私にはトマスしかいない」


その顔はもう、少女ではなかった。

愛を抱きしめるほどに、狂気が顔を覗かせていた。


「彼が私を必要としてくれるなら――それでいい。それだけでいいの」


彼女の声は、愛ではなく呪いに近かった。


「狂ってるな。だが、それが美しい」

「その愛がどこに向かうのか、少し興味が湧いたよ」


その声は、賞賛と侮蔑が入り混じった残酷な響きだった。

資材回廊の闇が、より一層濃く沈んでいく。



深夜、人気のない廊下。


一枚の鏡が、ひとりでに薄く曇っていく。

曇りの表面に、墨を滲ませたような文字が浮かび上がる。


「誰かの涙は、誰かの交渉。真実は音を持たない」


次の瞬間、文字は霧散し、鏡は何事もなかったように澄み切った。


鏡の奥深くで、一瞬だけ、

憎悪に歪んだ少年の影が揺らめいた。

この作品は第10話まで無料公開しています。

続きは GoodNovel様 にて連載中です!


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コミカライズしたいなー。

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