第6章 黄泉のこと
第6章「黄泉のこと」
黄泉の国。
神話でも様々語られることのある俗にいう『あの世』。
三途の川に賽の河原…風光明媚と語られることもあれば幽玄で永永無窮とも言われる魂の渡る川。
その赤い亀裂は、唐突に足元に走って裂けた。参月が飲み込まれていく。
参月さん!
「大丈夫、空さん。
すぐ戻るから」
参月は亀裂に飲み込まれ…亀裂ごと消え去った。
「…あぁ、麻乃実ちゃん。大丈夫?しょうがないけどくっついてきちゃったわね」
「だっ、大丈夫ですけど…!」
私と麻乃実ちゃんは落下していく…とはいえ底は見えず見上げても落ちてきたはずの亀裂は見えない。しかし、これだけ平静でいられるのも私がこれを経験したのが初めてではないからだ。
もっとずっと幼かった頃。自分の力に気が付いた頃。
私はその時にもここに来たことがある。
「麻乃実ちゃん、今からあの世行くけどついでに成仏しちゃう?」
「あの世って…」
あの世はあの世だ。
三途の川に賽の河原、見渡す限りの彼岸花。
ここに来た者の心象風景に合わせてその姿を変えるので、この場合であれば私には私が見たいようにしか見えないわけだけれど。
私が思うあの世は、極楽浄土と呼ぶには殺伐としている。
霞むほど延々と続く長江に、何艘もの渡し舟。黎明とも黄昏ともとれる薄暮の空。
草木の一本も生えていない川辺。
亡者の魂は白装束に列をなし、船出を待つ。
「ここが…三途の川」
「そう。私は前も来たことあるけれど、ねっ、と」
地面に降り立って靴底に砂利を感じる。あの世なのにこの辺現世っぽいななんて感じたりもするけれど、本当のあの世はあの川の向こう側。
つまりこちらは現世だ。
「あそこに人が列をなしているでしょう?あれが亡者の列で、順番に渡し賃を払って船に乗り込んでいくってわけ」
「…でも私、渡し賃なんて持ってないですよ」
「あげよっか、小銭ならあるし」
「…なんか怖いのでいいです」
それとそんな適当でいいんですか、と窘められた。試したことないからわからないけれど、硬貨ならいいんじゃない?
そもそも、私が普通にここにいていいわけないのだけれど、不思議と恐怖とか焦燥はない。それは以前ここに来ているから…というのもあるけれど、それだけでない何か…。
「あっ」
その時、麻乃実ちゃんが何かに気付いた。
ガタガタ震えて、私にしがみついてくる。
「何々、どうしたの?…言うてあなたも彼らと同じ亡者なのだから、怖がることなんて…」
「違います!」
あれ、と麻乃実ちゃんが指差す方を見て私も固まった。
見間違い…などではない。
亡者の列、その中の一人に見覚えのある顔がいたのだ。
見覚え…などという言葉で表現するのがこの場合適切かどうかもわからない。その亡者は、船頭に渡し賃を払って船に乗り込む。
「待って!」
私の呼びかけも虚しく、船は岸を離れていった。
…どういうことだろう、なんだか妙だ、小骨のように引っ掛かる。
見間違いようもない、『彼女』は確かに…。
「参月さん、今のって…その」
「…えぇ、私たちが揃ってそう思うってことは見間違いじゃないんでしょうね。…でもどういうことなのかさっぱりだわ」
私は一つ伸びをしてみる。少しは頭の中を整理できるかと思ったが全く変わらなかった。
「…それはそうと、麻乃実ちゃん。まだ一つ片付いていない問題があるのよね」
「なんですか?」
「それはね、ここからどう帰ればいいかわからないってこと」
「…え」
「いや、本当にわからないんだってば。前に来たことあるけど、気が付いたら戻ってた感じだったし。…多分、その内戻れると思うけど」
「私はいいんですけど…参月さん、お腹空いたりとかそのトイレとか…」
不思議と生理的な欲求は一切感じなかった。場所が場所だからだろうか。
疲労感も感じないけれど、くたびれて川辺に座る。
次から次へと亡者が川を渡っていく。
「私もいずれ死んだら、あぁして白装束着て川を渡っていくんでしょうね」
「…そういえばなんで私白装束じゃないんでしょう?」
「きっと地縛霊してるからね」
麻乃実ちゃんは変わらずパジャマ姿のまま。現状私に憑いている状態だしまだ亡者の仲間入りもしていない。そもそも幽霊と亡者って何が違うんだ。
己が死を認識して許容しているか否か、か。
「麻乃実ちゃんさ、あの世行ってみたいと思う?」
「…さっきから考えてましたけど、よくわかりません。
もう私は死んでしまったし、今だってこうして参月さんにしがみついているから消えずにいるだけで…これを止めてしまったらすぐに亡者の仲間入りしそうな気もするんですよね」
「きっとそうなるでしょうね」
「…でも、なんだか今は参月さんと…あれ?
…ねぇ参月さん、あの、参月さんと一緒にいた人、名前なんでしたっけ?」
「それはさすがにかわいそうじゃない?
………んん?」
名前が出てこない。度忘れとかそういう類でもない。
ここに落ちて来る前にずっと一緒にいた人の名前を忘れるなんてことはない。まるで、そもそもいなかったかのように記憶から名前が抜け落ちている。
「…そ、空!そう、空さん!」
「苗字は?」
何とか名前は辛うじて思い出せたけれど、苗字となると全く思い出せない。
そもそも苗字なんて教えて貰っていたっけ?
「なにこれ、明らかに変ね。顔だけはしっかり思い出せるのに、名前を忘れるなんて…うん?…いや、顔もなんかぼんやりしてきたかも」
「…言われてみれば私も」
しっかりした足元、ふらつく思考。
消えていく記憶。…長居し過ぎたのだろうか。
この川の空気に中てられたとでも言うのだろうか。
「忘れたく…ないなぁ。
皆気味悪がって離れていく私に、唯一近付いてきてくれた友達だったから」
多分、最初に近付いてきた動機は猜疑心とかそう言ったものだったかもしれない。でも、それでも、私のことを毛嫌いせずに接してくれたのは〇さんだけだったから。