第5章 忘れたいこと
第5章「忘れたいこと」
人は誰しもが忘れたいことを抱えている。
いや、むしろ人生において忘れたいことの方が多いのではないか。しかし忘れたいこととは得てしてネガティブな出来事に起因しているものである。
後悔、恥辱、離別…そういった類のこと。
幽霊になった時点で大部分の記憶は抜け落ちるのだから、死んでも幽体として意識と精神がこの世に留まる以上、その工程は必要不可欠ともいえる。
死してなお忘れたいことと向き合うなどどんな拷問だ。
死とは救済とはよく言ったもので、むべなるかな、記憶を捨て去ってくれるという意味では正しい。
「ところで空さん、もう幽霊について究明することはないの?」
参月はそう尋ねてきた。
究明するにもなぁ…。
幽霊はいるし、記憶はなくなる。
結果としてはもう出てしまっている。
わからないことがもうまったくないか、と言えばそんなことはないけど。
「例えば?」
麻乃実ちゃんを半ばモルモット扱いするようで若干申し訳なさがある。
霊の自立しての行動範囲とか、他の霊とのコミュニケーションとか。
「なるほどね」
参月はその場で簡単に調べてみてくれた。麻乃実ちゃんが都合よく参月に憑いているから出来る芸当である。
「麻乃実ちゃん…もとい地縛霊見習いみたいな立場だと、自立して行動できるのはおよそ三メートルってところね。他の普通の幽霊とかならまた違う結果出るかもしれないけれど。
他の霊は…そうね、そこのベンチに座ってるおじさんの霊に聞いてみましょう」
…そこのベンチって、僕たちが話しているところから離れてもいない。
いるならいるって事前に言って欲しいものである。
「…そう、霊同士でのコミュニケーションは可能みたいね。
でも記憶は抜け落ちているから、会話らしい会話ができないそうよ。
あなたの言う通り、記憶ってその人そのものだから」
麻乃実ちゃんと同じで、名前と年齢くらいしかわからなかった。
その霊曰く、『ここでなぜこうしているのか』もわからないらしい。
記憶の欠落…そう言う事なのだろう。
きっと生前、その霊はベンチに何か深い思い入れがあったはず。
そんなことすら思い出せないけれど。
ただ、わけもわからず離れられずにいる。
…なんか寂しいものだね。
「…そうね、でも霊ってそういうものだから」
無に帰すまでのモラトリアム。参月はそう言った。
「どんな霊もいつかは無に帰るから、繋ぎの期間って感じね、霊って。できないことが多くても無理もないのかも。特に価値のないボーナスステージみたいな感じで」
猶予期間。
勾留期間。
すぐに消えることは出来ず、現世に留め置かれる、期間。
記憶がないのは、そういう意味で言うなら唯一の救いなのかも。
「間違いないわね。自分の死後を見ないといけないなんてぞっとするわ」
人生は、忘れ去りたいことの連続だ。
死んだからといってそれがすべて清算されるわけでもない。
それを見させられることが本当の生き地獄だろう…否、地獄そのものか。
「ん?何々?…麻乃実ちゃんから空さんに質問。
忘れたくないことってあるんですか?」
当然。たった一つ、些細なことだけれど。
でもそれ以外は忘れ去りたい。忘れ去ったら、不思議でならないのだろうけれど、願わくば僕は死んだら参月に憑きたい、側にいたい。
麻乃実ちゃんのように、彼女を居場所としたい。
「へぇ、気になるわね。教えて」
頼まれたって嫌だね。
「何よ、ケチね」
君のこと、なんてどんな顔したら言えるというんだ。
参月はそんな僕の気など知ってか知らずか、私はね…と続ける。
「私は、空さんのことだけ忘れたくないわ」
………何も言えない。