5 初めてのお菓子
見習い侍女の仕事は、侍女とほとんど変わらない。主人の部屋の掃除、食事の準備、毒見、入浴、就寝の世話、外に出る時の衣装の準備に化粧や髪のセット、着替えの手伝い、主人に命じられた用事をこなすことなど多岐にわたる。
リューフェティにはセリーヌの他に侍女がついていないので、執務の予定の管理、外出の付き添い、誰かから送られてきた手紙を仕分けて必要であれば返事を代筆することなどもセリーヌの仕事だ。
セリーヌがまず取り掛かったのは掃除だった。部屋中の埃をはたき、窓や置物、机の雑巾がけを行い、風呂を洗い、同時進行で部屋の中にところかまわず置かれた本や器具を整理整頓し――決して狭くはない部屋の掃除を一人でてきぱきとこなしていく。
侍女がいない部屋にもかかわらずそれほど汚れていなかったのは、リューフェティにこの部屋が与えられてからまだ1年ほどしか経っていなかったのと、魔女ならではの浄化の魔法のおかげだった。
リューフェティが万が一にも人に見られないよう部屋にかけていた靄についても、セリーヌは即座に止めるように言った。
「お部屋の湿度が過度に高いとカビが生えます。衛生的にも、本やお持ちの器具にも良くないのではないでしょうか」
「それはそうだけど……私、あまり姿を見られたくないのだもの」
「どうしてもお姿を見られたくないとのことでしたら――そうですね、家具の位置を変えて、あちらの書庫に使っていらっしゃるお部屋を書斎にされませんか?こちらの廊下と通じるお部屋は、客間にして、人に見られても差し支えない物を置きましょう」
「ドアを開けたら見えてしまうんじゃない?」
「リューフェティ様が普段奥のお部屋にいらっしゃるのであれば問題ありません。出入りするのは私だけですし、訪問してきたお客様の対応も私が行います。リューフェティ様がお会いしたくないと仰るなら私が一切お通ししません」
「分かったわ。任せる」
リューフェティは、着替えや湯浴みの手伝いを決してさせず、セリーヌが毒見した匙などの食器を使わなかったが、それ以外については比較的セリーヌのやりたいようにさせてくれた。
横暴でもなく、気分屋でもなく、歪んだ嗜好も特に顕著な差別意識もないリューフェティは、セリーヌにとって仕事のしやすい主人だった。
――侍女嫌いと聞いていたから、もっと非協力的かと思ったけれど。リューフェティ様は、とても恥ずかしがりやで、他人との接触がお嫌いな潔癖な方なだけなのね。やっぱり評判で判断するのはいけないわ。
時折リューフェティから視線を感じることがあったものの、話しかけてくることはなかったので、セリーヌは、「物珍しいのでしょう」と特に気に留めることもなく自身の仕事をこなしていく。
セリーヌは、リューフェティから一定の距離を置かれていることには気づいていたが、そこはおいおい慣れてもらえればいいと考えていた。
そうして二人の主従の生活は平穏に過ぎていった。
すぐに三行半を突き付けられるだろうと考えていた見習い侍女たちは、鼻つまみ者のセリーヌが侍女嫌いと評判のリューフェティと上手くやっているようだと聞いて驚きを隠せなかった。
リューフェティがセリーヌに指一本触れていないどころか仕事に必要な最低限度の会話くらいしかしていないと知ったシュバルツとガランは「ヘタレ」と言い、ペトラはガランをはたいた。
※※※
セリーヌが精力的に働き続けて早3か月ほどが経った。
セリーヌは、主人であるリューフェティの安全や名誉にかかわらない限り、リューフェティの嫌がることをしようとは思わない。そうしてリューフェティにとってできる限り快適な生活を提供しようと思っていた。
が、とうとう、主人が嫌がろうが何しようが手八丁口八丁で丸め込まなければならない課題に直面した。
「……髪を切る、ですって?」
「はい」
はさみを持ったままセリーヌが近づくと、リューフェティは嫌そうに顔をしかめる。
「明後日はリューフェティ様の公式なお披露目の日です。当日は、髪を整え、化粧をしなくてはなりません。お披露目を終えれば公的な場に出ることも増えると伺っていますよ」
「今のままではだめなの?」
「今の状態でも艶があってお美しいので、髪質そのものは問題ありません。よりまとまりをもたせたいので本日からこちらの洗い液を使っていただければと思います。もし使い方が分からないようであれば今夜は私がお手伝いさせていただきますが――」
「結構よ。自分でやるわ」
「……私、結構自信がございますのに」
「やめて。指をわきわきさせないで。みっともないわ」
「残念です。さて、髪の質は問題ないと致しまして、御髪は整えましょう。せめて前髪や顔周りは切らないとなりません。正直に申し上げますが、そのままでは不格好で、傍に立たれるシュバルツ殿下のお顔に泥を塗ることになります」
殿下の顔に泥を塗る、というところでリューフェティの頑なだった表情にわずかに思案の色が見えたので、セリーヌはここぞとばかりにすかさず畳みかけた。
「リューフェティ様は元からお美しいです。ですが、髪を整え、化粧をされたら今の比ではございません。きっと誰もが振り返らずにはいられないでしょう」
「……誰でも?」
「えぇ。どなたでもです」
――「シュバルツ殿下もきっと見惚れます」と言ったらせっかく乗り気になっているリューフェティ様が恥ずかしがって意固地になっちゃうかもしれないもの。
セリーヌは藪蛇にならないようにっこりと微笑んで念押しするに留めた。するとリューフェティはもの言いたげな瞳でセリーヌを見た。
「……あなたも?」
「私ですか?もちろんでございますよ。初日にお会いしてなんて美しい方なんだろうと見惚れましたもの」
「……じゃあ、やって」
恥ずかしそうに頬を染めてお願いするリューフェティに、セリーヌは、人嫌いの猫がちょっとだけ懐いてくれたような温かい気持ちになった。
――いかに元が美人とはいえ、主人の髪型よ。失敗するわけにはいかないわ。前髪は、あえて切らずに完全にかき上げておでこを出すというのが位の高い女性だと一般的だけれど、顔を隠したがっていらっしゃるリューフェティ様は嫌がるでしょうね。じゃあいっそ、ぱつっと短めに横一直線に切ってしまう?ミステリアスな印象で似合うだろうけど、失敗したら幼く見えてしまうわ。もう少し正統派を目指して――長さは目にかかるかかからないか、もう少し長めくらいで切った方がいいかしら。顔の横は綺麗な輪郭が見えるように。段を少し入れて――
熟考の末、セリーヌが慎重にリューフェティの顔周りにはさみを入れていく。
――それにしても、本当にお綺麗な方。目を閉じるとまつげで影ができるのね。当日は黒いローブに、殿下の貴色である青をまとうわけだから、お顔は薄紫から青みのあるピンクの色粉で彩りましょうか、まぶた中央あたりに銀粉を散らすとより映えそうね。最初は気づかなかったけれど、リューフェティ様はちょっと垂れ目気味だから、きっと仏頂面をしなければ優しそうな印象になるはず。
セリーヌは、お披露目当日にリューフェティに施す化粧を考えながら慎重にはさみを進めた。
どうにか切り終わったときには緊張が緩んだ反動で手が震えていた。
「リューフェティ様、お待たせいたしました。鏡をご覧ください」
「……悪くない、と思うわ。どうかしら?」
「とっても素敵です」
顔が隠れなくなったので嫌そうにされるかと思ったが、そうでもなく、リューフェティはセリーヌの答えを聞いて安心したように息をついた。
「セリーヌ。……その、ありがとう」
リューフェティから名前を呼ばれたのは初めてだったので、セリーヌは動揺のあまりハサミを部屋の絨毯の上に落としてしまった。セリーヌが息をのんで目を見開き、口を手で覆ってしまったので、リューフェティの方が慌てた。
「ちょっと、なに、その反応。傷つく」
「申し訳ありません、違うんです。その……リューフェティ様。今、私の名前を初めてお呼びになりました?」
「呼んだけど……」
「あぁぁあああ」
「ちょ、どうしたの?」
「取り乱してしまって申し訳ありません。リューフェティ様、私、今すっごく嬉しいんです」
セリーヌは興奮と喜びに頬を紅潮させ、両手を胸の前で合わせたまま、満面の笑顔でリューフェティを見上げた。その瞬間、リューフェティまで顔を赤らめたことに全く気付かないままセリーヌは続ける。
「な、なんで?」
「初めて名前を呼んでいただき、お礼まで言っていただけたからです」
「そんなこと、大したことじゃ――」
「大したことです!私の仕事を認めていただいたのが嬉しくてたまらなくて!」
リューフェティはなんでもっと早くセリーヌの名前を呼ばなかったのかと心の中で自分を責めた。心の中では、侍女としての立場を弁え、必要以上に踏み入ってこないセリーヌの仕事ぶりを感嘆し、称賛していた。
ただ気恥ずかしくて言えなかったなんて馬鹿すぎると自分を心の中でののしり続けた。
――この機会だ。勇気をもって言ってみるべきだろう。
リューフェティは、感動に打ち震えるセリーヌにおずおずと提案した。
「おれ……いえ、褒美に、パウンドケーキをあげる」
「パウンドケーキ、ですか?」
「殿下に下賜されたもの、よ。よければ、一緒に食べない?フルーツがたっぷり入ったものなの」
性別がばれたらばれたで面倒なはずなのに、あまりに奥手なリューフェティに業を煮やしたシュバルツから、「甘いもので釣れ」と言われて渡されたケーキだ、問題ないだろう――とリューフェティは考えた。
「いいのですか?甘いものは大好きなのです」
欲望に忠実なセリーヌは輝かんばかりの笑顔を見せた。
リューフェティは今後甘いものを定期的に買うことを決意した。
「では、リューフェティ様が召し上がった残りをいただきますね」
「なんで?」
リューフェティが不思議そうに首をかしげる。
「一緒に食べればいいじゃない」
「主人と同じ席に付くわけには参りませんもの」
セリーヌが優秀な見習い侍女らしい懸念に眉を顰める。リューフェティは、二人で一緒にお茶をする機会を逃してなるものかと必死で言い訳を考えた。
「い、いい?今、この部屋には私とあなたの、ふ、二人きりだわ。私がいいと言ったらいいのよ。それに……そうよ、あなたの毒見を待ったら紅茶が冷めちゃうじゃない。一緒に食べるのが一番効率がいいのよ」
つん、とつれない口調の端々に一緒に食べたいという気持ちがにじみ出ているリューフェティの言葉に、セリーヌはつい笑みを漏らした。
「……ふふ、じゃあ、紅茶を入れてまいりますね」
リューフェティは内心で盛大なガッツポーズを取った。
その日のパウンドケーキは、リューフェティがこれまで食べたものの中で一番甘くて美味しかった。