第四話
律は庭を走り抜け、林に飛び込んだ。
素っ転びそうになりながら、ざんざんと降る雨に濡れながら走る。
(嫌いだ、嫌いだ。あんな化け狐なんて大嫌いだ)
お菓子をくすねていく化け狐。
最初はなんでお菓子がなくなるのか分からなかった。
律は自分のミスだと思っていた。
程なく、ばったり狐と会って、盗られていたのだと自覚した。
さらには、お菓子をくすねるだけでは飽き足らず、伯爵夫人に懐いて、お菓子を頂戴するまでになった。
(嫌いだ)
テーブルからちょんと見える狐の耳も。
伺うように左右に動くまん丸い目も。
お菓子を食べた時に、ぱっと華やぐ笑顔も。
(嫌いだ)
伯爵夫人に懐いて、世間話に花を咲かす、鈴なるような声も。
(全部、全部、嫌いだ。嫌いだけど……)
獣道の入り口までたどり着いた律が立ち止まる。
「でも、僕は狐を痛めつけたいわけじゃない。罠にかけたいわけじゃない。そこまで、意地悪したいわけじゃない」
律は獣道へとゆっくりと踏み出した。
雨が降って、獣道がぬかるむ。足裏に泥が付着し、一歩が重い。
脳天に叩きつける雨がこめかみや額を伝っていく。
昼間の優しい木漏れ日が消えた、ひんやりした闇に包まれる獣道。
まるでお化け屋敷に入り込んでしまったかのようだ。
(罠は、もうすぐ)
律はピンと耳を立てた。
尻尾も出して、ズボンから外に出す。
獣化、獣人化、人化を比べると、獣に近い方が犬としての特性が生きやすい。
人間よりも夜目がきく。臭いも分かる。
昼間の隼太の臭い、獣道から漂う狐のかすかな臭いを辿る。
残存する隼太や律の臭いより、狐の臭いの方が濃い。
そして、僅かに血の臭いが混ざる。
悪寒が律の背を走る。ぶるっと震えて、腕を摩った。
律は両手を前足のようにつけ、四足歩行の獣のような態勢を取る。体毛が盛り上がり、首から頬に黒い毛が立つ。指や手の甲の毛も増え、指先が丸みを帯び、手のひらにうっすらと肉球もあらわれる。
服を着た獣のように律は四足で走る。
罠にたどりつくと、そこにはぽっかりと穴が開いており、たらしていた紐縄が消えていた。
周囲には律が集めた枯葉が散っている。
這いつくばり周囲をなめるように眺める。
草間が揺れた。
律はその方向に前足を駆るように、手を動かし、飛ぶ。
草を潰して横たわる狐がいた。
獣人化を解いた律の体毛がしゅるりと引っ込む。指先の丸みも落ち、人の手となる。
ポケットから小さなナイフを取り出した。
紐縄に足を取られて身体をどこかに打ち付けたのか。狐はぐったりとし、動きがない。
律が狐に触れると、まだ暖かく、けっして死んではいなかった。
ほっとした律は、狐の前足を絞める枝につながる紐縄を切った。
濡れそぼる狐を抱きかかえ、再び耳と尻尾を露にすると、律は元来た道を引き返した。
屋敷の灯りが見えてくる。台所に裏口は律が開け放ったままであった。ランプの灯りが長方形を形作る。
その光のなかに律は狐を抱えて飛び込んだ。
「律!」
父がいた。
昼間残した食器類の片づけをしていたようで、水場に立っている。
「父さん」
律はほっとして泣きそうになる。
「どうした、律。部屋で休んでいたんじゃないのか?」
「ごめん、父さん」
「どうした。なにがあったんだ」
「狐……。助けて、父さん」
雨のなか狐を抱えて走り抜けた律は、ほっとして意識を手放した。
雨の中走り回り、狐を助けた律は寝込んでしまった。
罠をかけた顛末は隼太が両親たちに話し発覚。
父からは少し怒られて、隼太はしゅんとなる。
翌日、律が目覚める前に自動車にのって隼太一家は帰っていった。
律の父に「また来る。そして、律と遊びたい」と言い残して。
隼太が帰った翌日、律は目覚めた。
ぼんやりと天井を眺め、どうして寝ているのだろうと考えていると、視界の端にぴょこんと狐の耳が立った。
驚いた律が無言のまま身をよじる。
そこには赤い服に白いエプロンをつけた狐の彩が立っていた。
「なんで、ここに!」
「私ね、ここで働くことになったのよ」
「えっ!!」
「私、野良の狐で。親に捨てられて、山の中で暮らしていたの。両親は獣人じゃなかったのに、突然狐の子が産まれて気持ち悪かったのよ。弟や妹もいたけど、二人とも人間だったから、余計に疎まれて、山に捨てられちゃったのよ」
「……」
ここに彩がいるだけでなく、彩の生い立ちにも律は驚く。
「懐かしいお菓子の臭いがいっぱいして、いっつも我慢ができなかったの」
満面の笑みを浮かべる彩に、律もつられて歪に笑う。
「これからは一緒にお茶の準備しようね」