第三話
伯爵夫人と家令の父、隼太の父母が庭に出てきた。
隼太と彩がお菓子の前できゃっきゃっしている姿を見て、伯爵夫人が微笑む。屋敷の主人が彩を隼太一家に「近所に住んでいて、よく遊びに来る子」と紹介すれば、律が何かを言うことはできなくなる。
不機嫌さを胸に秘めた律はその気持ちを露にしないように気をつけながら、お茶を淹れた。
近くに立つ父が程よい距離を保ちつつ、客人の話に相づちを打つ。
伯爵夫人は彩と隼太と楽し気にお菓子を選ぶ。
お茶を淹れ終えた律は見習いとしての距離をとる。楽し気な輪に加わらず、ほどよい距離で空気と同化する練習だと言い聞かせて。
狐はいつも現れて、お菓子を取っていく。
今日もまんまとみんな騙されている。
(狐の耳一つ出れば、すぐにばれるのに……)
彩は狐だと騒いでも、彩が尻尾も耳も出さなければ、律が悪者になってしまう。彩が伯爵夫人にお菓子をもらっている姿を見るたびに、律はどこか負けたような気がしてならなかった。
どうして、彩が来るとこんなにむしゃくしゃするのか。
律はよく分からないままに、肚の底に不満をため込んでゆくのだった。
お茶の時間が終わった。
大人たちが屋敷に戻る。
いつものように律がガゼボの片づけを行おうとしていると、父が告げた。
「律は隼太さまのお相手をして」
「えっ……」
「テーブル上にある品々は私が台所に片づけておく。細かな片づけは夜にまとめてやろう。今日の律の一番は、隼太さまと遊ぶことだよ」
父に言われれば、律も頷くしかない。
「……はい」
てきぱきと動き始めた父を少し物悲し気に見つめる律。
その肩に隼太が腕を回した。
「律、ここら辺の林に罠を仕掛けないか」
ひそっと話しかけてきた隼太の顔を律は思わず凝視した。
「罠、ですか!」
「うん。雀を捕まえたり、獣を捕まえる罠。この前、父さんに狩りに連れて行ってもらって教えてもらったんだ」
「狩りって……」
「父さん猟銃の免許を持っていて、たまに鹿とか猪を狩りに行くんだよ」
「へえ……」
「その時に、罠の作り方を教えてもらったんだ」
悪意なくにやっと笑う隼太に、律の腹にくすぶっていた黒々とした感情が刺激される。
(あの狐に一泡吹かせてやれるかも)
甘美な誘いに律は動かされる。
「いいですよ。用意するものはなにかありますか?」
律は隼太に言われるままに細い紐縄とシャベル二つ用意した。
その紐縄を肩にかけて、二人は林に入る。
縄を持ち出した時に父に相談した方がいいかと律は迷った。
忙しそうな父の背を見て、躊躇しているうちに父は屋敷のなかへ消えてしまう。
背を見送った律は諦めた。
諦めた癖に律はどこか迷っていた。
(大人の了解も得ないで、罠を作っていいのか?伯爵夫人が嫌な顔をしたらどうするんだ。でも、どうせ子どもがつくる罠だろう。あの狐だってバカじゃない。罠になんかそう簡単にかかるものか)
律は自分に言い聞かせながら、進む。
獣道があり、二人は立ち止った。
「ここなんか、道だよな」
「はい……」
左右の草木が一筋別れて、僅かな隙間ができている。人間の子どもがあるくには幅があるが、獣化した律が走るには申し分ない。ならば、狐だとて容易に走りぬけるだろう。
「よし、ここにしよう」
獣道近くに細い木が数本生える地に隼太はしゃがみ込んだ。
シャベルを持たされ、細い木の根元を掘るように指示された律が、掘り始める。ちらちらと隼太を見ると、もう一本の細い木の枝をぐにゃぐにゃと曲げながら、しなりを確認していた。
紐縄の端をその枝に縛りつけると、つながった紐縄の端を掴みながら、隼太は地面を物色し始める。いくつかの木の枝を拾い上げ、律の傍に来た。
「うまく掘れているな。律って、器用で手際がいいよな」
隼太はそう言うと、拾った木の枝を根元に数本突き刺した。張り巡らされている木の根に引っかけ、掘り出した土を使って器用に固定していく。
「うまいですね」
隼太の器用さに律も感心する。
「だろ」
隼太は額に汗をにじませながら、穴のなかに数本の木の枝を渡した。
「これをどうするんですか」
穴を眺める律には、隼太が何をしようとしているのかよく分からない。
隼太は立ち上がり、枝に縛った紐縄を引く。
その動きをしゃがんだまま律は見上げた。
隼太は頭上の枝に紐縄を引っ掻ける。その引っかけた紐縄をぐっと引くと、くくられた枝は更にしなった。
体重をかけて、思いっきり、隼太は紐縄を引き、今度は紐縄の途中に短い枝を縛り付け、さらに紐縄の端を丸くくくった。
再び座りこんだ隼太は細い木の枝を、穴のなかに組んだ木の枝にひっかける。木の枝に引っかけた縄がびんとはりつめた。
穴の中にたわんだ紐縄を詰め込み、最後に輪を作った紐縄の端を穴の周囲に添うように円形に広げてそっと置いた。
「この上に枯葉をかけるんだ」
律は隼太の言うままに枯葉を集めて穴の表面を覆い隠す。
木の根元は枯草の塊になり、罠はすっかり隠されてしまった。
「律、できたぞ」
「これは?」
「くくり罠だよ。獣道を通った獣が片足を入れ、枝をぶち抜いた拍子に、小枝が外れ、張った縄紐が跳ね上がる。その拍子に獣の片足が縄の先に輪っかに絞められて、獣は宙づりになるか、悪かったら、跳ね飛ばされて、地面に叩きつけられるんだ」
「えっ……」
何も知らない得意げな隼太と裏腹に、律は内心真っ青になる。
(そんな罠に狐がかかったら、どうなる?)
脳裏に、狐姿の彩が紐縄に足を取られ、宙に舞い、地に打ち付けられる姿がよぎった。
(違う。僕は、僕は、そこまでしたいわけじゃない。
ほんのちょっとだけ、意地悪をしたいだけ。
あいつは狐なんだと、みんなに言いたかっただけなんだ)
家令の見習いである律に拒否権はない。
不安を感じても律はいつもの癖で感情を隠してしまう。
満足気な隼太が律に笑いかける。
「戻ろう、律。明日、俺は帰るけど、午前中になにかかかっているか見に行こうな」
意気揚々と隼太が屋敷に戻る。
律は後ろ髪引かれながら、後を追った。
その後、罠のことが気がかりとなる律は、上の空で作業し、失敗続きとなる。
皿を割り、お客様にお出しする料理も廊下に零してしまう。
慣れない来客に緊張したんだろうと父が労っても、(違う、そうじゃないんだ)と律の心は叫んでいた。
落ち込んだままに裏へと引っ込んだ律は、台所の作業台に椅子を運び、座り込む。先に夕食を済ませて、寝なさいと父に言われても、準備し食べ始めることができなかった。
(僕は、いったい何をしたかったんだ)
律は箸を手にせずに、両の拳を膝にのせたまま、苦渋の表情を浮かべる。
その時、パン、パンと窓ガラスが打ちつけられる音が響く。
真っ暗な窓に白い雨粒がぶつかって弾ける。
はっと律が顔をあげた。
途端にざざっと雨が降り始める。
昼間晴れていたのが、嘘のような土砂降りだった。
がたんと椅子を倒して律が立ち上がる。
「雨……」
(もし、狐が罠にかかっていたら……)
「違う、違うんだ」
ふるふると頭を左右に振る。
(ケガさせたり、殺したりしたいわけじゃない。狐に家族が居なかったら、病院に連れて行ってもらえなかったら、罠にかかって一晩雨に打たれたら……。
違う、違う、そこまでしたいわけじゃない)
いてもたってもいられず、律は台所の裏口を飛び出した。