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走馬灯

作者: 酒月沢 杏

ひたすらに自分勝手だったのを覚えている。

全身から痛みを訴える大合唱が鳴り響いて止まず、俺は薄っすらと浮かぶ月に手を伸ばしていた。

音が遠くに消える。掻き消えたと言ってもいい。

俺はぷかぷかと浮かぶ思考の中で、つむじのあたりからつま先まで流れる何かを見ていた。

光。そう、光だ。

ランタンに火を灯すような暖かな光。

そんな光に、俺の見ていた月は呑まれて見えなくなった。

俺は目を凝らし、その光を見る。

何か大切なものがあるような気がしていた。

机の上には2つのマグカップが置かれている。

白を基調とした部屋には外からの光ばかりが入り、照明はついていない。

昼間のカーテン越しに入る光だけで十分だった。

熱を忘れたコーヒーが俺の前にある。

「新しいの、淹れようか?」

君が優しげな声で言う。

「いや、大丈夫」

俺はそう返して冷めてしまったコーヒーを飲んだ。

どうして彼女がいるのだろうか。

俺はあまり思い出せないでいる。

網戸になったベランダに続く窓から、カーテンを押して風が入ってきた。

そうか、春だったのか。

熱くも寒くもない、心地よい風とどこか心休まるような匂いにそう思う。

「何考えてたの?」

君が隣に立って、そんなことを聞く。

「新しい、作品を」

呟いてふと思う。

俺は何を作っていたんだっけ。

「そっか。前のは?」

「もう渡したよ。締め切りも短かったからね」

「あれ、面白かったからきっと大丈夫だよ」

「ありがとう。別に心配なんてしてないけどね」

「自信あり?」

「いや、売れるか売れないかとか、どうでもいいんだ。こうして何かを書いて、生活があれば」

そうだ。俺は文章を書いていたんだ。

彼女はどこか嬉しそうに俺の横をあとにする。

白い部屋で、俺は机の上に散らばる筆記具を見た。

あたりを見回すと彼女は居なくなっていた。

部屋は暗く、カーテンの向こう側には小さな光。

俺は思わず立ち上がって、吸い込まれるようにベランダの方へ歩いた。

夜風にはまだ春の匂いが残っている。

カーテンを開けるとそこには大きな満月と、彼女がいた。

「起こしちゃった?」

「寝てたんだな」

「そうだよ。最近私がいないときはずっと無理してるみたいだったから。大丈夫?」

「大丈夫。少し休んだらまた作業に戻るよ」

少し顔を伏せたのが俺には見えた。

視線はまた月へ向く。

「ねえ」

「どうしたの」

「尾崎放哉はこんなにきれいな月を見て、寂しいと思ったんだよね」

「『こんなよい月をひとりで見て寝る』、か」

「私は、どうだと思う?」

「どういうことだい?君は今、一人じゃないだろ?」

「……それもそうね」

ベランダに置いてあった椅子に腰を下ろして、月からは視線を外さず、彼女は少し息をついた。

その意味が、俺には分からなかったのだろう。

いや、あるいは、見ていなかったのかもしれない。

月を夜風にあたりながら眺めて少し経ち、もう十分かと椅子の方を見たとき、彼女は居なくなっていた。

遠くには家々の灯りがぽつぽつとある。

空を見上げると随分と欠けた月が俺を静かに見下ろしていた。

ポケットに入れていた携帯が震える。

彼女から電話だ。

「もしもし」

『もしもし?、今日は急にお仕掛けてごめんね』

「いや、俺もごめん。別に嫌なわけじゃなかったんだけど」

『大丈夫。あなたが忙しい時期だって言うのはわかってる。気を使わせちゃったのは私だもの』

「また来たらゆっくり話そう。いつが空いてる?」

『来週末なら』

「わかった。ありがとう」

『うん。好きだよ』

「あぁ、俺もだ」

口から零れ出るそれが妙に愛しくて、俺はそれを掻き集めて胸の奥へ仕舞いたいと思った。

それでもそれは、形などなくて、するすると手のひらを滑り落ちていく。

どれほど藻掻いたって、何も残らない。

夜風は生ぬるくなっていた。

部屋に戻ると、ごうごうと冷房の音がして、ワンピースを着た君が、ベッドの上に座っていた。

彼女が何かを話している。

俺はそれにいくつか相づちを打っている。

そんな姿を見てか、彼女はなにかを諦めたように口を閉ざした。

ベッドの上、彼女の隣の位置に座り、ポツリと何かをこぼす。

冷房のごうごうという音ばかりが耳に残っている。

彼女で視界がいっぱいになり、身体が熱を帯びる。

やがてカーテンが閉まって、薄暗い部屋に変わる。

次第に呼吸音が大きくなり、布が剥がれ落ちたお互いの体を擦り合わせる。

大きく息を吸って、それを少し止めたとき、花火が鳴った。

俺は一人座ったまま、ベランダから花火を見ていた。

彼女が横に立っているのに気がつく。

「今年も良かったのか、ここで」

「いいの。私、人混みは苦手だもの」

「ごめん、俺なんかのせいで」

「なんか、なんて言わないで。あなたは悪くないもの」

足元に落ちている新聞の見出しに目が行く。

大物作家のスキャンダル。

俺のよく知っている、先生のような人の名前。

「俺は、ただいい作品を書きたかっただけなのにな」

そんな言葉を口に出した。

彼女はどんな顔をしていただろうか。

今じゃきっともう、思い出せない。

花火の大きな音の中に、怒鳴り声が混ざっているのに気がついた。

俺の足元には、割れたマグカップが落ちている。

「どうして…!」

「落ち着いて、誰もあなたを責めたりなんかしてないわ」

「うるさい!!、じゃあどうしてどこの出版社も俺の作品を載せようとしないんだ!!」

視界の端には封筒の山。外は季節の変わり目特有の不機嫌な表情を浮かべた空だ。

「どいつもこいつも、俺の作品を読もうともしないで、誰もわかろうとしない。上辺ばかり見て…!!」

彼女の顔に黒く塗りつぶしたような何かが覆っている。

あぁ、顔が見えない。

これじゃ、なんて声をかければいいかわからない。

ぐちゃぐちゃになった原稿用紙だった紙くずが、また宙を舞う。

「私は知ってる。あなたの作品が、ちゃんと素晴らしいってこと」

彼女の声が脳に響く。俺は感謝の言葉を伝えたくて口を開く。

「お前は身内だから、そんなことが言えるんだ。俺の作品のことだけを見て、それが言えるのか。俺が書いたわけじゃなかったとき、同じことが言えるのか?!」

「私は…!」

俺は、どうしてこんなことを言ったのだろう。

彼女が自分に気を使ってそんなことを言う人間じゃないとわかっていたはずなのに。

「もういい…一人にしてくれ」

そうして椅子の上に体重を預けて目を閉じた。

顔を手で覆って、ため息をつくと、少し遠くから小さく息を呑む、泣き声のような音がした。

顔を上げると、寒くなった部屋の中に一人で座っていた。

咳が出て。喉の奥にある痛みを誤魔化すように、欠けたマグカップで水を飲んだ。

部屋では珍しくテレビがついていて、そこには正午のニュースが流れている。

近所の交差点で起きた何気ない交通事故。

映っているのは知っている名前。

彼女に出会ってから、呼び続けてきた名前。

俺は一人、部屋の中で座っている。

呼吸は荒く、涙も出ているのに、ただ頭の中は酷く冷たくて。

何か大切なものが自分から欠けてしまったような気がした。

君の声がまた聞きたいと、そう思っていた。

咳をする。水がふと落ちたのを見た。

雨に降られたまま、俺はベランダで一人座っていた。

ここで座って何かを待つのは、この家に引っ越してきてからの習慣だった。

こうしていると、部屋のインターホンが鳴り、俺の止まっていた時間が無理やり動く。

そんな毎日がどこかでずっと、続くと思っていた。

暖かい風。人の声。…喧騒

懐かしい景色。大学のカフェテリアだ。

目の前には本を読む女性。左手で頬杖をついて、思い耽るように昨日買った小説を眺めている。

俺は手に持ったペンを回しながら彼女を見ていた。

「……どうしたの?」

「いや、それ面白い?」

「まだ中盤だからわからないわ」

そう言ってページをめくる。

そうだ。君はそういう人だった。

「君は進んだ?締め切りもうすぐでしょ?」

「あぁ。新人賞取れたとはいえ、こんなに締め切りがきついなんて」

「そこは関係ないでしょ。もう君も立派なプロなんだから」

「しかし、もっとこう、手心というか…」

「私がこれ読み終わるまでに書いてね」

「それかなりキツくない!?」

「だって、君の作品、早く読みたいもの」

「……そうか」

俺はまた視線を手元に戻してペンを動かす。

瞬きをすると、知らない書類が目の前にあった。

「盗作?」

「そう。あなたがーー先生の作品を盗作したという噂が」

「そんな、俺は自分の作品を書いてただけで」

「わかってる。でも、ーー先生がそう言っている以上、中堅作家のあなたじゃ信じてもらえない」

「俺は、こんな下らないことのために書いてたわけじゃ」

「あなたのことも、あなたの作品も私が守るわ」

「いや、君には関係のないことだし巻き込むわけには」

「関係なくない。だって私はあなたの作品が好きだもの」

彼女は俺の作品を手に持ったまま、そう言った。

だが、どうしたって上手く行かなくて、真実ばかりが人を救うことはなくて、俺は作品を書いても、それが金にならなくなって。

俺が感情のまま彼女にあたって、彼女が家に来なくなって一ヶ月。カレンダーの日付は随分前に止まったまま。

俺はずっと、ベランダの椅子に座っていた。

咳が出て、冷えてきた身体を実感するが、動く気が起きない。

ずっと、後ろにある扉が開くのを待っていた。

あのニュースを見たあとも、ずっと。

俺は一人街を歩いていた。

先程までは確かに部屋にいたはずなのに、気がつけばこうして街を彷徨っている。

また、あそこへ向かっている。

花束が置かれた交差点。信号はなく、見通しが悪い。

雪がチラチラと降っている。視界には端の方に薄っすらと積もった塀の上の雪が見えた。

俺はふらふらとまたなにかに吸い寄せられるようにここへ来た。

『死亡事故現場』と書かれた看板が目に入る。

「ねぇ」

俺は足を止めない。

「あなたの書いた作品。もっと読みたいな」

俺は手を伸ばす。

「新しいやつ。書いてるんでしょ?早く書き終わってよ」

右側から大きな光と音。

「ほら、私がこれを読み終わる前に」

「大丈夫。今書き終わる」

グッと世界が揺れる。

最後の句読点を書き終わって、ペンを置くと、カツンと乾いた音だけが響いた。

「君のことを、書きたかったんだけど」

俺はずっと自分勝手だった。

ミシミシと音を立てて崩れる身体を、俺は切り離した。

あの日見た月が大きく凛とした姿で浮かんでいる。

「やっと、この月を二人で見られるね」

手に持っていた本を置いて、俺の手にあった原稿用紙の束を受け取る。

気がつけば、見ていた光は消え、優しく降り注ぐ月光だけになっていた。

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