第10話 悪の線引き
扉の先の部屋は、ゴミゴミとした、あまり居心地の良さそうな場所ではなかった。
雰囲気は、皇宮にある各省の末端の執務室や、学園の職員室が近い感じ。
でも、照明が薄暗く映し出した室内は、やはり現代のものとは大きく様相が違っていた。
色味は全体的に無彩色で、机や椅子の装飾も殆どない。
見知った執務室では、書類が山と積まれていたけれど、ここにあるのは四角い箱と絡まったコード類……神代の創作に出てくる『パソコン』というものだろう。
「これは……情報を引き出すのは無理そうね……」
神代の後期以降、人類は多くの情報を無形化して、このパソコンという物の中に収めたという。
残念ながら現代では、やっと動力の代替えに成功して、起動ができるようになった程度。
使い方など、全くわからない。
ここから情報を取り出すことは、私達にはまだ不可能だ。
「そうでもないぞ。この城、管理していたのは例の『日本』という国の者達らしい」
「あぁ、それなら……」
日本。
神代にあったという、小さな島国の名前だ。
先進国だったらしいのだけれど、神代末期の異常気象で本土が海中に沈んで、真っ先に滅んだらしい。
そのくせ、各製品の耐久力は常軌を逸していて、しぶとく生き残った遺産が、現代でも多く発掘されている。
それらは調査研究され、今日の文明の礎となった。
食べられる動植物や、その飼育、栽培の方法、衣類の素材の生成、距離や時間などの単位。
私達が使っている言葉も、7割ほどは日本の言語と一致するらしい。
で、そんな彼の国だけれど、実は当時、先進国としては失笑ものの因習を数多く抱えていたらしい。
女性の権利問題や、出産に対する支援不足、性のマイノリティに対する理解の欠如。
主に学園生活で『制服』となって私を苦しめる、卑猥な創作物の数々。
そして――
「あったわ……むしろ、結構多いわね」
情報の無形化が進む中、盲目的に紙の媒体を信じる、当時としては謎の精神構造。
「文明を追いかける側としては、ありがたいことだな。こうして我々にも手が出せる形で、資料が残っている」
「『日本人が最先端の精神構造をしていたら、現代の文明の発展は500年は遅れていた』って言われているものね」
無形の記録媒体は、私達の時代でも研究が進んでいる。
既に撮影機で記録した映像の保存で利用されていて、近々写真や音声記録にも流用できるらしい。
ただ、一度保存した情報の書き換えができないみたいで、文書の無形化はまだまだ先と言われている。
そんなことを考えながら、私は資料に手を伸ばしたのだが、その手をイングリッドに掴まれた。
「イングリッド……?」
「ここまで来たんだ、読むなとは言わん。だが……気を引き締めて読め。恐らく、理解したら吐き気を催す内容だ」
イングリッドの目は、真剣そのものだ。多分、本当は読ませたくないのだろう。
でも、ごめんなさい。
この部屋がいつまで安全かなんてわからないから、ここは手分けして読んだ方がいい。
それにイングリッドには悪いけれど、もし呪印関連の資料の内容を理解できれば、今後のアールヴァイスの計画を阻止するヒントが見つかるかもしれない。
私も大きく深呼吸をして、資料に目を通し始めた。
内容は、輪郭程度は理解できた。理解、できてしまった。
「なんて……ことを……!」
専門用語が多くて深くは理解できなかったけれど、どの資料も方向性は同じ。
『ワークマン』と呼ばれる労働用の強化人間に対する、『隷属回路』の発展性を突き詰める実験結果のレポートだ。
『隷属回路』……これが呪印のことだと思う。
どこかで聞いたことがある単語だけど、そうゆう思考は手にした資料の内容のせいで、片隅に追いやられてしまった。
そこにあったのは、本当に吐き気を催すような非道の数々。
『負荷実験』と称した、心身への負荷に対する反応を限界まで呪印で押さえ込む虐待。
被験者は肉体を損壊されながら、体の動きや悲鳴はおろか、震えや発汗といった最低限のストレス反応すら許されない。
そして、『拡張実験』。
相反する呪印を重ねることで、細胞レベルの誤動作を起こさせ、肉体を変質させる、悪魔の所業。
変質した肉体は、当然二度と元に戻らない。
自身の体が何か別のものに変わっていく恐怖は、四肢を失うより恐ろしいことかもしれない。
その他、数々の非道な実験を、あろうことか、呪印の書き換えがしやすいという理由だけで……子供を……!
イングリッドの方を見ると、彼女は苦い表情を浮かべながらも、幾つかの書類を選んで大きめのポーチに押し込んでいた。
顔を上げたイングリッドと目が合う。
「幻滅したか? それで構わない……私は最初から、これを取りに来たのだからな」
「あ……や……」
幻滅はしていない。私だって、イングリッドの目的はわかっていたから。
でも、やっぱり実際に見るのは悲しくて、それが顔に出てしまったみたい。
だって……だって……!
「本当に……それは貴女に必要なの……!?」
目の前のとても優しい人が、世界を壊す側にいるなんて、どうしても信じたくなかったんだ。
「必要だ」
でもイングリッドは私の目を見て、迷いなくそう言った。
「アールヴァイスの野望が果たされなければ、私と『あの子』は救われない」
また、『あの子』。それって……やっぱり……。
「知っているんだろう? 私が、リンクを去るときに流れた噂を」
「ええ……耳に、入ってきたわ……」
――後輩の選手を、複数の男達に強姦させた。
勢い付いてきた後輩の少女に、その座を奪われることを恐れたイングリッドが、彼女を潰そうと付き合いのある男達に襲わせたのだ、と。
もちろん、私はそんな噂なんて信じなかったけれど……実際に、その時期に心身の不調でリンクを去った、私と同い年の選手はいた。
「人懐っこい子でな……愛想のいい方ではない私に、何故かよく懐いてくれていた。警戒心が致命的に薄いのに、悪い男に引っかかるでもなく平穏に生きてきた、不思議な子だった」
『くれていた』、『だった』……全部、過去形だ。
真っ直ぐ私を見ていた彼女の目が、少しずつ足下に落ちていく。
「不思議な子だと、思いたかった。何か大きな力が、あのふわふわの笑顔を守っているんだと。現実でそんな旨い話はないのにな?
ある日の競技の帰り、私と後輩は帝国貴族の次男に食事に誘われた。そいつは後輩のファンで、私も何度か言葉を交わしたことがあった。警戒を、緩めてしまっていたと思う。
そいつのお勧めという店に行き、食事をして、少し眠くなって……気付いたら、私達はベッドの上で裸にされて縛られていた。当時の私はただの競技者で、戒めを解く力も、10人近い男と戦う力もなかった」
――その後は……言わなくてもいいな?
一度、言葉を切ってそう言った彼女の、胸中に渦巻く感情は何だったのだろう。
貼り付けたような自嘲の笑みからは、何も読み取ることはできない。
「幸い私も後輩も、妊娠や体への後遺症はなかったが、彼女はあまりのショックで心を壊してしまった。
私は奴を訴えようとしたが……ダメだった。奴ら常習犯だったのだろう……翌日捜査に入った憲兵は、何の証拠も見つけることができなかったらしい。
次男は今も、のうのうと生きているよ。私達のことなど、覚えてすらいないだろう。
彼女の心も、結局戻らなかった。医者が、呼べなかったんだ。
心を治す医者など、そういるものではない。そして、彼女の家は母子家庭だった」
競技を続けるのは、とにかくお金がかかる。母子家庭でフィギュアスケートなんて、生活はかなり苦しかったはずだ。
希少な専門医なんて、呼べるはずもない。
犯人は野放し、後輩の治療の目処は立たず……さらに追い討ちをかけるように、この件を仕組んだのはイングリッドだ、という噂が流れる。
「そんなものは否定すればいいだけだ。だがもう、そんな気力もなくてな……私はリンクを去った。
そして弁明もせずに逃げたせいで、噂の真実味が増してな。私が気絶して搬送されたことを知っているはずの両親まで、私に疑いの目を向けるようになった。
私は家からも逃げ出して……そして、首領閣下と出会った」
アールヴァイスの首領……ジョゼは自身への協力を条件に、貴族への報復を約束し、後輩の治療にも全力で協力すると、イングリッドに持ちかけた。
イングリッドは誘われるがまま、彼の手を取ったと言う。
「閣下は、『世界を正しい姿に戻す』と言っていたが……正直、大して興味はなかった。私は、私の目的のため悪を選び、そして今ここにいる。
年端も行かぬ子供達に犠牲を強いた残虐な実験の成果を、私情で利用しようとしている」
イングリッドは、もう一度私を見る。
自分を『悪』だと言うときに限って、彼女は覚悟を決めたような目をする。
まるで、私を遠ざけるみたいに……!
「イングリッドっ……私っ……!」
「だめだ」
堪らず声を上げる私を、イングリッドはたった一言で制する。
まるで、私が何を言おうとしたか、わかっているかのように。
「言ったはずだぞ、私は『悪の組織』の幹部だと。既に、差し伸べられた手は取っている。悪魔の手をな。お前の手を取ることは……もう、できない」
そんなこと、そんな、申し訳なさそうな顔で言われたら――
「そんなっ……そんなこと……!」
『皇女殿下! 皇女殿下ですか!?』
「「っ!?」」
私の言葉は、扉の外から投げかけられた声に遮られた。
この声――ルルミラ……!