第16話 『おしっこをさせて下さい』
真っ暗で何もない空間。
その中に浮かび上がる、幼き日の自分。
その光景を目にした時、私はすぐに、これが幻だと気が付いた。
現実の私は、どうなってしまったのだろうか。
一瞬、我慢の限界を超えて漏らしてしまったのかと思った。
現実を受け入れられず、幻に逃げ込んだのだと。
でもどうやら、そんなことはないらしい。
――だって、こんなに……おしっこしたい……!
『やめなさいよ!』
――えっ? 何?
『そんなにモジモジして……みっともないと思わないの!? レディなら、どんな時でも気品を保ちなさい!』
――だ、だって……もう、おしっこ、漏れそうなの……っ。
『ホント情けない! さっきも、おしっこがしたくて、敵の言うことを聞こうとしたでしょ!? 貴女、それでも『私』なの!?』
幼い私が、成長したはずの、情けない私を叱りつける。
わかってる、この子は私であって、私ではない。
だってあの服を……私の、10歳の誕生日パーティの時のドレスを着ているのだから。
私の思う『私』が大きく変わってしまった、あの人生最悪の日。
この後起こることを知ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
言いたくない、知って欲しくない。
だってまだ、こんなに自信に満ちた目をしてるんだから。
彼女は自分が大好きで、将来きっと、素敵なレディに、そしてカッコいい騎士になると思っている。
数時間後、自分が大勢の家臣たちの前でお漏らしをするなんて、夢にも思わない。
そのせいで前よりトイレが近くなって、『トイレに行きたい』とも言えなくなって、何度も漏らしそうになるなんて、知らないわよね?
『ほら、先ずはお腹を引き締めなさい! いつまで、その情けない屁っ放り腰を晒すつもり!?』
幻の私が少し大きくなって、やはり私を叱りつける。
――無理よ……そんなことしたら、お腹が潰れて……漏れちゃう……!
今度の『私』は14歳。
白いレースの付いたブラウスに、黒いホットパンツ……グレン様に助けてもらった、あの日の私だ。
浮かれてたわよね?
もしかしたら、憧れの英雄に会えるかもしれないって。
会えたわよ。
その色気づいて選んだピチピチのホットパンツを、おしっこでびしょ濡れにしたとんでもなく無様な姿でね。
ごめんなさい……私は、貴女が待ち望んでいた再会を、あんなみっともないものにしてしまった。
『…………』
幻の私が、また大きくなった。
多分、今の私と同じくらい。髪は長くて、後ろでポニーテールにしている。
着ている服は、赤い軍服に白いマント、白のショートパンツ――ランドハウゼン皇国騎士団の女性騎士の制服だ。
顔付きも、いつも鏡で見ている顔より、少し精悍な気がする。
あぁ……これは……。
『私は、『私』になれなかったのね。残念だわ』
私が、なりたかった『私』だ。
あの日パーティ会場で、おしっこが我慢できていたら、なれていたかもしれない私。
どんな恐ろしい敵にも恐れず立ち向かう、憧憬の生み出した理想の騎士。
自分を律し、周囲の人達を助けて……勿論、お漏らしなんてするはずもない……。
そんな『私』が、寂しそうな目で私を見ている。
おしっこが漏れそうで、震えの止められない、情けない私を。
おしっこが我慢できなくて、レオタードに染みを作ってしまった、みっともない私を。
ごめんなさい、私は、貴女にはなれなかった。
10歳の私、14歳の私、17歳の私……ごめんなさい、こんなにカッコ悪い『私』になってしまって。
せめて、あのアシュレイの言葉を突き返すところを見せてあげたかったけれど……『貴女達』は知らないでしょ?
おしっこを漏らすのが、どれほど恥ずかしいか……!
してはいけない場所で、汚してはいけない服を汚してしまう、人として最悪の醜態。
自分が、世界中の誰より惨めに思えてしまう感覚。
もう……もう……っ!
――あんな思いは嫌ああああぁぁぁっっっ!!!
「おおおしっこっ! おしっこをさせて下さいっっ!! アシュレイ様っっ!!」
言って……しまった……。
ただ、どうしてもおしっこが我慢できなくて、プライドを全部捨ててしまった。
でも、それでも……お漏らしだけは……!
「ぷっ、くふふっ、あはははははははっっ!! 貴女っ、くくっ、最高っ、ぷははははっ!」
「い、言ったわっ! だからっ、トイレにっ、ああぁあぁっ!? お願い早くぅっ! もうっ、限界……!」
「ええ、ええ、行かせてあげるわ」
そう言ったアシュレイは満面の笑みで、何故か再び、私の膀胱に手を当てた。
「ここで、おしっこ漏らした後でね」
「え……あ……」
何を言っているかわからない。
だって、私ちゃんと言ったのに。
アシュレイの手に力がこもる。
「やめ……待って……」
そんなことしたら……おしっこが……出ちゃ――
「そいやぁぁぁっっ!!」
「ぐふっ!?」
私にトドメを誘うとしたアシュレイが、腰をくの字に曲げて吹っ飛んでいく。
彼女のお腹に突き刺さった人影は――エルナ。
「世話の焼ける『正義のヒロイン』だね……!」
「ロッタ……っ……んんっ」
ロッタは周りの鎖によじ登って、私を釣り上げている鎖を、ゼロ距離の水のカッターで切ろうとしている。
あぁ、でも……振動がっ……それに、水飛沫が冷たくて……漏れそう……っ。
心の中では相反する2つの気持ちがせめぎ合っている。
こんな無茶はしないで、早く逃げて欲しいという気持ちと、どうにかトイレに行かせて欲しいという気持ち。
そのせいで、『逃げて』の一言が喉に詰まって出てこない。
最低だ……私は、こんなに……自分勝手で……!
「がはぁっっ!!」
「ぐぅぅっっ!!」
アシュレイが2人を弾き飛ばした。
さっきまでの楽しそうな顔は引っ込んで、怒りを顔全体で表現している。
だめ、やめて、誰か、私の友達を助けて――
『猫娘ちゃん』
グレン様――私の友達が、殺されてしまうかもしれないんです。お願いです、助けて下さい……!
『アリア』
グレン君――エルナとロッタが危ないの。早く来て……!
幻の、同じ名前の2人に、助けを求めて手を伸ばす。
そんな私を、『強い騎士』になった私が後ろから見ている。
……どう、これが今の、本当の私。
自分1人じゃ、友達2人助けることもできない。
おしっこが漏れそうで、敵に泣きついて。
本当に、惨めで、格好悪い。
――でも、でもね……それでも私は、やっぱり私のままでいたいみたい。
エルナとロッタが友達になってくれたのは、『この』私だから。
カッコいい騎士の貴女じゃなくて、弱くて臆病で、なのに意地っ張りなカッコ悪い私を、2人は好きになってくれたの。
私は貴女にはなれない。貴女にはならない。
カッコ悪い私のままで、私を友達だと言ってくれた、大切な2人を守りたいの。
だから――
「グレン様」
私じゃ、前に立つことすら出来ない脅威から、国のみんなも私も救ってくれた、誰よりも強いヒーロー。
「グレン君」
エッチでマニアックな変態さんだけど、いざという時、当たり前のように誰よりも前に立てる、いつも1番近くにいてくれるヒーロー。
私は弱くて臆病だから、1人では大切な人達を守れません。
だからお願い。
ほんの少しだけでいいから――
――2人の勇気を、私に分けて下さい……!
"Shiny tear, wake up."
全身が光の帯に包まれる。
両腕の帯は長手袋に、両脚の帯はニーハイソックスに。
胸元には、少し大きめの赤いリボン。
足りないパーツが戻ってくるたび、自分の中から力が溢れてくるのを感じる。
意地悪な相棒はようやく、また私に力を貸してくれる気になったらしい。
「っ! な、なんなの!?」
「はあああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
両腕の光粒子を全開に。
スライムの時はあまり効かなかったけれど、光属性はただ硬いだけの、密度の薄いものには凄く強い。
例えば――魔術で出来た物質とか。
「砕けてっ!」
「なっ!?」
影の魔術でできた鎖は、シャイニーティアの放つ光に照らされ呆気なく消し飛んだ。
「くっ……ふぅぅ……」
着地の衝撃に膀胱が震える――でも、大丈夫。
恐怖が和らいだせいだろう、ずっと強張っていた膀胱の緊張も解けて、壁が大きく広がってくれたようだ。
尿意も、何とか耐えられるくらいに弱まった。
「それが本当の姿、というわけね。表情に自信が見えるけれど……大丈夫? おしっこ我慢したままで、戦える?」
この人は、本当に嫌なところを突いてくる。
尿意は『何とか』耐えられる程度。
凄くトイレに行きたいことには、変わりない。
でも――
「戦えるわ……貴女を倒して、みんなを守ってみせる」
(それで、終わったら……絶対、トイレにっ!)
我慢しているからこそ使える、更なる力が私にはある!
"聖涙紋の拡大を確認。規定値に達しました"
"Fairy form, standby."
「行くわよ! フェアリィフォーム!!」
身に纏ったコスチュームが、再び七色の光を放った。