第13話 トラウマは誰にだってある
「んふふふっ……」
「あぁっ……い、嫌っ、来ないで……っ」
アリアの脚が、ガクガクと震える。
脳裏を埋め尽くすのは、忘れたくても忘れられない、先日の遺跡調査実習中の『逢瀬』だ。
どれだけ許しを請うても、強制的に性感の頂点に突き上げられ続けた、拷問のような時間。
あの日までアリアは、自分の口から魔獣の雄叫びのような声が出るなど、夢にも思わなかった。
その壮絶な経験は、心身に異常をきたすほどの恐怖となって、アリアの記憶に深く刻み込まれている。
「可愛いわね、震えちゃって……本当は『この目』のお返しに、痛い思いしてもらうつもりだったんだけど……」
「目……あっ!」
『この目』と言われて、アリアはようやく、アシュレイの右目が人のものでないことに気付いた。
瞳孔が縦に細長く走る、蛇のような目。
それはつまり、アシュレイの右目が一度、光を失ったことを意味する。
何故? 決まっている。
あの時アリアが投げた、軍用閃光弾だ。あの強烈な光に焼かれ、アシュレイは人間の右目を失っていた。
「あ、あのっ、私っ、その、ご、ごめ、ごっ……っ」
失った右目の代償に、アシュレイが自分に何をしようとしているのか。
それが恐ろしくて、アリアの口が無意識に『ごめんなさい』の形に動く。
「あっははははっ! いいのよ、そんなに怯えなくて」
そんなアリアに、アシュレイは怪人化した右目を向ける。
その、人のものでない視線に、いったいどんな感情が乗せられているのか。
わからないことが、余計にアリアの恐怖を掻き立てる。
「許してあげるわ。貴女、やっぱり可愛いもの。だから――」
――この前より、もっと気持ちいいことをしましょう?
「ひっ!?」
アリアの恐怖を更に煽ろうと、敢えておどろおどろしい視線と言葉向けるアシュレイ。
当てられたアリアは、アシュレイの期待通りに全身をすくみ上らせ――
「あっ……!」
次の瞬間、恐怖一色に染まっていた顔に、別の感情を滲ませた。
頬を赤らめ、モジモジと脚を擦り合わせる様子から伝わるのは、羞恥、そして焦燥。
そんなアリアに、アシュレイは一瞬訝しげな表情を浮かべるが、すぐに何かを察して、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「あらあら? もしかして、思い出して濡れちゃった?」
「ち、違っ……!」
アシュレイの言葉を、慌てて否定するアリア。
……実際のところ、アシュレイの言う通り、アリアは下着を濡らしてしまっていた。
だがそれは、アシュレイが思うような熱い情動から来るようなものではない。
アシュレイが現れた時、アリアは恐怖と共に尿意も増大させてしまっていたのだ。
まるで体が、恐怖からくるストレスを、放尿の解放感で少しでも緩和させようとしているかのように。
そして先ほどの脅しで、アリアの全身はすくみあがり、内臓は一つ残らず縮こまってしまった。
それは、そろそろ空きが少なくなってきた膀胱も、例外ではない。
突如膀胱を襲った収縮に耐えきれず、アリアはほんの少しだけ、我慢していたものを漏らしてしまったのだ。
濡れた下着の感触が強い羞恥を、思い出してしまった尿意が焦燥を掻き立てる。
だが、その心と下腹を苛む強い刺激が、皮肉にも、恐怖に固まっていた体を動かすことになる。
「アリアこっち!」
エルナの声に反応し、アリアが勢いよく飛び上がった。
手すりを越えて、4階に向かう階段へ。
「逃げられると――」
「ミラージュスクリーン!」
当然アシュレイは追おうとするが、そこに被せるようにロッタが魔術を発動。
反射的に防御体勢を取るアシュレイだが、一瞬遅れて攻撃魔術ではないことに気付き舌打ちをする。
ロッタが放ったのは幻惑系の魔術。水の膜で光を屈折させ、アシュレイの視界を掻き回したのだ。
咄嗟に目を瞑り、精霊の知覚に切り替えると、上の方からアリア達の霊子力の反応があった。
裏を掻くようなことはなく、あのまま素直に階段を登ったらしい。
アシュレイは一旦胸を撫で下ろすも、非常階段や別の階段から降りることは可能だ。
黒鎖で水の膜を薙ぎ払い、速やかに追撃体制に入るアシュレイ。
「いいわ……鬼ごっこをしましょう」
人と化物、2つの目がギラリと光った。
◆◆
「これからっ、どうすんのっ!?」
4階の廊下を、アリア達3人が走る。
一旦逃げ出せはしたものの、アリア達が上に行ったことは、アシュレイにも見られているはずだ。
次の手を打たなければ、結局すぐに捕まってしまう。
「今はっ、時間をっ、稼ごうっ、はぁっ、はぁっ! アリアにっ、意識がっ、行きがちだけどっ、ぜぇっ、ひぃっ! さいあくっ、なのはっ、リーザとグレンがっ、に、にたいっ、いちでぇ……っ」
「わかった! わかったから無理しないでっ!」
話しているうちに死にそうな顔になってたロッタを、エルナが慌てて止める。
元々運動が苦手な上、フィールドでさらに能力低下しているのだ。
走りながら喋るのはキツいだろう。
ロッタが言いたいのは、つまりこうゆうことだ。
『怪人と戦闘中のリーザ、グレンのところに行かれ、2対1で撃破されるのが最悪のケースだから、アリアを囮に追いかけっこで時間を稼ごう』、と。
「でも、これ逃げ切れんの!?」
全力で動けるアシュレイと、自分達の速度差は圧倒的だ。
まともに追いかけっこをしていては、一瞬で捕まってしまう。
「それは――っ!? 一旦入って! あと、魔力も引っ込めて!」
早くもアシュレイが階段を上がってきた。
ロッタの指示で、全員ですぐ横の教室に飛び込み、魔力を体内に押し留める。
「こんなことしても――」
「それについては後で」
『アシュレイの精霊の目で見つかってしまう』
そう言いかけたアリアを、ロッタが制する。
「アイツが入ってきたら、私とエルナで足止めするから、アリアは逃げて」
「なっ!? 何を言って――」
「言っておくけど、1番危ないのはアリアだからね? 私達も適当なところで逃げるし。そうしたら狙われるのはアリアだよ」
ロッタの言うことは、確かにその通りだ。
獲物としての執着と、右目の恨み。アシュレイの意識は、常にアリアに注がれている。
だからこそ、ノーマークのロッタが魔術による不意打ちもできたのだ。
「ここを出たら、アリアはとにかく、見つからないように校舎中を逃げ回る。いいね?」
「精霊の目は?」
「ある程度は問題ないよ」
エルナの問いに、ロッタが自身ありげに答える。
「さっき目眩しをした時、彼女が目を瞑ったのが見えた。多分、視覚と併用ができないくらい、精霊の目……霊子力の知覚に慣れてないんだ」
精霊の霊子知覚は強力だが、使いこなすにはかなりの鍛錬がいる。
ロッタはあの一瞬で、アシュレイの霊子知覚が大したレベルではないと見抜いたのだ。
尚、アシュレイが精霊としての目を鍛えていなかったのは、調教用の影魔術に多く時間を割きすぎたからだが、もちろんそんなことは彼女達の知るところではない。
「あれじゃ、知覚できる範囲は広くない。これだけ会話をする時間があるのも、彼女が私達を見つけられていないからだ」
広域索敵ができない限り、アシュレイは全てに注意を払うしかない。
教室は一つ一つ確認する必要があるし、非常口や階段の反対側も無視できない。
残念ながら、アシュレイはアリア達の方に向かってきてはいるが、そのせいでかなり進みは遅くなっている。
これなら、アリアを逃した後も、精霊の目で即発見とはならないだろう。
それよりも問題は――
「……しばらくトイレ我慢させちゃうけど、大丈夫?」
こっちだ。アリアは結局、トイレに行けずじまい。
走っている間も、アリアが無言だったことにロッタは気付いていた。
振動が膀胱に響いて、会話どころではなかったのだろう。
今も、仕切りに脚を擦り合わせている。
「だ、大丈夫……我慢……できるわ……っ」
言葉とは裏腹に、アリアの胸中は不安でいっぱいだった。
上がり続けた尿意は、そろそろ我慢が厳しいレベルだ。
今すぐトイレに駆け込みたいところだが、水音など響かせてしまったら、『ここにいます』と伝えているようなものだ。
しかも、放尿中という最も無防備な瞬間に。
(我慢……するしか……! あぁっ、でも……もし、逃げてる間に……我慢できなくなってしまったら――)
「ここにいたのね?」
「はっ!?」
アリアが不安に囚われている間に、とうとう3人のいる教室にアシュレイが辿り着いた。
その目は――今は7割尿意でだが――ブルブルと震えるアリアしか捕らえていない。
「じゃあ、手筈通りいくよ……」
「がってん……!」
「え、えぇ……っ」
もう泣き言を言っている時間はない。アリアは全力で下半身を引き締め直す。
覚悟を決めて開いた目が、アシュレイの左右非対称の相貌とぶつかった。
「今! ミラージュスクリーン!」
ロッタの魔術発動に合わせ、全員が一斉に動き出す。
1番反応が早かったのは――アシュレイ。
「シャドウチェーン」
二度と同じ手は食わないとばかりに、影の鎖で即座に水の膜を破壊する。
ただの目眩しでしかないそれらは、鎖が当たると呆気なく水の飛沫になった。
アシュレイの視界が塞がれたのは、ほんの一瞬。
開いた視界に映るのは、扉に向けて駆け出すアリアと――眼前に迫ったエルナ。
「次は貴女ね」
「くっ!」
一瞬でアシュレイとの距離を詰めたエルナだが、やはり弱体化の影響が大きい。
速度が足りず、不意打ちとなる前にアシュレイに捕捉されてしまった。
アシュレイは、慌てずその顔面に鎖を放とうとして――
――エルナの後頭部から飛び出した、黒いゴツゴツした球体を視界に収めた。
「っ!?」
アシュレイが両腕で目を庇ったのは、殆ど無意識によるものだった。