第7話 おしっこする夢を見た後ってメチャクチャ焦るよね
「あぁああぁああぁぁっっっ!!!」
助けを求めて伸ばした手が、空を切る。
バタバタともがく手の向こうの景色は、いつの間にか変わっていた。
昼間の学園から、真っ暗で静かな自室に。
「はぁっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ……ゆ、夢……?」
夢とは思えないほど、全てが鮮明だった。
お腹を押し込む手の圧力、暴力的なまでの尿意、クラスメイト達の嘲笑う声、尿道を蹂躙する激流の感触。
こうして、無事目が覚めた今でも、まだ、あれは現実だったのではないかと思ってしまう。
実際、現実になりかけた。
あの時、シェリアが両手に渾身の力を込めたところで、グレン君が来てくれなかったら、私はあのまま膀胱を奥まで押し込まれて、今の夢の通りに、廊下でお漏らしをしてしまっていただろう。
現実になりかけた、あってはならない大失態。
私は過去に、似たような状況で、似たような夢を見たことがある。
一年ほど前だろうか。
ある生徒総会の日、私はイライザの一派にトイレに行くことを邪魔され、壇上でおしっこが漏れそうになってしまったのだ。
みんなの視線が集まる壇上で、みっともなく脚をもじつかせながら、それでも何とか我慢し切った私を待っていのは、講堂のトイレの故障という無慈悲な現実だった。
ショックのあまり、その場で失禁しそうになっていた私を、エルナとロッタがなんとか外まで連れ出してくれたのだけど、もう校舎のトイレまでは間に合わない。
2人に支えられるまま、講堂裏の茂みを目指した私は、その手前、まだ石畳の道の上だというのに、限界を超え、その場で下着を穿いたまま、おしっこが止められなくなってしまった。
何とか下着を脱げたのは、エルナとロッタのおかげだ。
私1人では覚悟が出来ず、そのままお漏らしになっていただろう。
その夜のことだ……私は、夢を見た。
何故か1人だけ体育着姿で壇上に上がり、よりによって自分が事務連絡を読み上げている最中に、全校生徒の視線が集まる中でおしっこを漏らすという、最悪の夢を。
あの時も今と同じ、視線、ざわめき、ブルマがお腹を締め付ける苦しさ、視界が歪む程の尿意、下半身の全てがびしょ濡れになる不快感……全てが、夢とは思えない程に鮮明だった。
もしかするとあれは、助からなかった別の世界の自分の記憶が、流れ込んできたのではないか……。
馬鹿らしいとは思うけど、私はその考えが捨てられずにいる。
そう言えば、あの夜は大変だった。
あまりに鮮明な夢だったせいか、夢の中で漏らした私は、現実でもおね――
「はっ!? …………ふぅ……」
慌てて下半身を確認したが、今回は無事だったようだ。
汗でかなり濡れてはいるが、全身満遍なくと言った感じだ。
「よかった…………ん゛あ゛ぁっ!?」
『出てない』ということは、『中にある』ということだ。
私は、トイレに駆け込んだ。
――ザァーーーーーーーーーー!
「あ……危なかった……っ」
ギリギリで間に合ったが、下着を脱ぐより先に、おしっこが尿道を駆け下っていた。
あと1秒遅れていたら、私は明日、洗濯かごに黄色く染まった下着があるところを、エルナに見られるところだった。
「……私……どうなっちゃうの……」
シャイニーティアの起動不能、前兆無しで襲いかかる猛烈な尿意。
黒鎖のアシュレイに責め抜かれたあの日から、私の体はおかしくなってしまった。
このまま私が戦えなければ、グレン君やリーザに負担をかけ続けることになるし、怪人にされた人にも辛い思いをさせてしまう。
それに、尿意も……今のところ、自由に動ける時だったから、何とか助かった。
でも、もし授業中に来たら、どうしても『トイレに行かせて下さい』が言えない私は、どうすればいいのか。
卒業した後も治らなくて、もし皇族としての公務の最中にこれが来て、我慢ができなくなってしまったら……。
ダメだ……どんどん気持ちが落ち込んでいく。
体育で、グレン君が話をおかしな方向に持っていってくれたおかげで――不本意ながら――ちょっと気持ちが晴れたのに。
その後の尿意のせいで、より深く沈んでしまった。
「うっ……ぐずっ……」
目から涙が溢れる。
手が自然とスタンドライトを点けて、棚の引き出しの1番上を開けた。
引き出しの中には、8通の飾り気のない手紙。
私は、その1番上の1通を手に取った。
『親愛なる猫娘ちゃんへ』
冒頭の一文は――とても失礼ながら、意外にも――綺麗な字で書かれていた。
優美ではない、ちょっと角張っているけれど、丁寧に書いてくれたことが伝わる字だ。
2年と少し前、イーヴリス大陸連合軍が邪神との決戦に勝利した後、私と『銀の魔人』グレン・グリフィス・アルザード――グレン様との文通が始まった。
決戦に参加した私の近衛が、グレン様に私のことを伝えてくれたらしい。
これは、その記念すべき一通目だ。
『猫娘ちゃん』は、化物から助けてくれたとき、私のことを知らなかったグレン様が私を呼んだ時の呼び方だ。
私はこの、色んな肩書きを下ろして、ただの女の子になれた気がする呼び方が、結構好きだった。
……辛いことがあると、私はよく、グレン様からもらった手紙を読み返す。
励ましてくれるような内容の手紙は一つもないのだけれど、何だか守られているような気がして安心するのだ。
グレン様はさすがというか、とんでもなく忙しい人だった。しかも、ワールドワイドに。
邪神の脅威が去ったことで、各国は大陸の外に目を向け始めた。
でも、大陸外は殆ど未開の地。
いきなり要人を送り込むわけにはいかないと、先遣隊の派遣をギルドに依頼。
さらにギルドから統合軍に協力要請が飛び、グレン様が派遣されることになった。
一年の殆どを大陸外で過ごすことになったグレン様だったけれど、数ヶ月置きに帰ってきては、私の手紙に返事をくれた。
内容は、見たこともない大陸の外の話だ。
7割が海洋で締められる、海軍と海賊の人域エルドラン。
イーヴリスを遥かに超える魔導技術を持ち、人域全てを一つの国が支配する、ガイラストラード統一帝国。
砂の人域アルバーナの、不思議なランプの話。
ヤクモの話の時は、凄く興奮したであろうことが伝わってきた。グレン様は、忍者が大好きらしい。
そして、小さな魔法の国で起こった、偽物の神様との大激戦。
たった8通しかない、私の大切な宝物だ。
まだ読んでいないのに、思い出すだけで気持ちが楽になってきた。
そういえば最後の手紙には、今度は大陸内で潜入任務をするって書いてあった。
さすがに詳細は書いていなかったけれど、なんでも凶悪な大量殺人犯を追っているんだとか。
心配だけど、グレン様なら大丈夫だよね?
因みにグレン様の話……『グレン君』にもしてしまった。
彼には最初、名前が同じというだけで必要以上に酷いことを言ってしまったので、理由を説明して、ちゃんと謝りたかったのだ。
そしたらグレン君は、何か浮かない顔をして黙り込んでしまったんだっけ。
その顔に、私はやっぱり理不尽なことをしてしまったと、申し訳なく思ったんだけど――
『つまり、魔人大尉よりイイ男になれば、アリアの膝枕は俺のもの! ってことだな?』
無駄に真剣な顔をして、そんなことを言い出した。
グレン君は、こうゆう本気とも冗談ともつかないことを言うから、困る。
多分、その場のノリと勢いで、適当なことを言っているんだろうけれど。グレン君、この方面は私以上にお子ちゃまだし。
なのに思い出すと顔が熱くなるから、本当に困る。
困って、困って、沈んでいたことを忘れてしまうから、もっと困る。
手紙を見る。8通。何度見ても増えはしない。
グレン様、あんまり、放っておかないで下さい。
――私もう、そんなに待てないみたいですよ?