プロローグ 騒乱の気配は隠れ家的酒場から
ノイングラート帝国の中心、帝都エルグラート。
大通りから離れ、複雑な路地を抜けた先には、なんの変哲もない数件の小屋が立ち並ぶ。
だが、ここが入り口なのだ。
そのうちの1軒を選び、裏の勝手口から中に入ると、目に飛び込んでくるのは淡い明かりが浮かび上がらせる降り階段。
階段を降り、黒いヤマネコの看板が打ちつけられた扉を開けば、雰囲気のいい内装を、これまた程よい暗さの照明で照らした、静かな酒場が顔を見せる。
『ダイニングバー・クーガー』
知る人ぞ知る、帝都の隠れ家的飲食店だ。
店内で寛ぐ客は千差万別。
初老の紳士から、いかにも遊んでいそうな若い男。
どこぞの貴族のご令嬢にしか見えない女性や、怪しげな占い師風の女まで。
共通しているのは、酒に酔って騒ぎ出す輩がいないということ。
――そして、客の7割がスパイということだ。
紳士もチャラ男も令嬢も占い師も、実のところみんなスパイ。
ここまできたら勿論、店主もスパイだ。
隠れ家的ダイニングバー・クーガーは、帝国諜報部が経営する、スパイ達の簡易情報交換場所なのだ。
メニューも、テーブルの上の小物も、流れている音楽も、全てが暗号として機能する。
スパイ達は、ただ食事を楽しむ演技をしながら、今日も正体を隠し、秘密の情報を伝え合っていた。
自らがスパイだと悟られるような行動をする者は、1人もいない。
いな、かった。
「うわあぁああぁぁあぁっっ!!?」
静かな店内に、多分に恐怖の色を含んだ悲鳴が響き渡った。
声を上げたのはバイトの青年……一般人だ。
尻餅をつき、あわあわと震えながら指を向けた先には、スパイ達すら息を飲む異形の存在。
4本の腕に、3本の爬虫類系の尻尾を持ち、顔の半分を爛れさせ、頭から虫のような触覚を生やしたその男は、今の帝国では『怪人』に分類される存在だった。
突然の招かれざる客に、店内のスパイ達が急速に頭を回転させる。
怪人の目的は? 戦闘能力は? 話に聞く弱体化フィールドは展開されるのか? 何故ここがわかった?
一般人はバイトを含めて4人。正体を隠したまま、彼らを無事に逃す方法があるのか?
最悪のケースと最良のケースを同時に考えるスパイ達。
だが、その中の何人かが、怪人の様子がどこかおかしいことに気付いた。
先ほどから、入り口付近を動こうとせず、つま先でタンタンと床を鳴らしているのだ。
注意深く耳を傾けると、どうやらそれは、一定のリズムを繰り返していることがわかった。
――タンッ、タタンッ、タンタンッ、タタタンッ……。
やがて、そのリズムの意味に気付いた4人のスパイが、懐から、ポケットから、髪の中から、鋭い針のようなものを取り出し、手首のスナップで投げつける。
標的は当然怪人――ではなく、4人の一般人。
彼等は、自分が何をされたかもわからずにバタバタと倒れ、やがてすやすやと寝息を立て始めた。
立っているのは、スパイと怪人だけ。
いや――
「ルイス……なのか……?」
「へへっ……すいません、課長。ちょいと、しくじっちまいました」
怪人含めて、全員スパイだ。
怪人――ルイスと呼ばれた男は、1年以上前からとあるテロ組織への潜入任務に就いていた。
だが潜入開始から今日まで、彼を含めたスパイ全員から連絡が途絶えていたため、諜報部では彼らは全滅したものとして扱われていた。
だが、このルイスだけは生き残り、人の体を失いながらも、知り得たものを伝えるため、この酒場に現れたのだ。
先ほど爪先で繰り返していたリズムは、『急を要する報告あり』の暗号文。
目立つ行為なので敬遠されてはいるが、本当に緊急の案件がある際には、伝わりやすさから迷わず選択される暗号だ。
先ほどの4人はそれに気付き、一般人を眠らせることで、強引に直接報告の場を用意したのだ。
「がふっ!」
「ルイスっ!」
ルイスが、口から真っ黒い血を吐いて崩れ落ちる。
駆け寄った課長に抱き止められ、床に倒れることは避けられたが、その指や尻尾の先は、真っ黒な炭になって崩れ出していた。
「ルイス、お前……っ」
「全身弄り回されて、このザマです。中でちょっとばかし動きがあって、その隙に逃げ出したんですが……まぁ、あんまし時間もなさそうかな、って」
自分の命のリミットを、こともなげに語るルイス。
敵地で死体を晒すことを許されない諜報員として、ホームに戻ってこれたことに安堵しているのだろうか。
課長は表情を変えず、何も言わず、ただルイスの次の言葉を待つ。
「聞いて下さい、俺の最後の報告――」
――俺が見てきた、秘密結社アールヴァイスの全てを。
◆◆
「――以上です」
「ご苦労だった、ルイス。お前の働きは帝国の……いや、このイーヴリス大陸1億1,000万の命を救うことになるだろう」
「そいつは……大袈裟ってやつですよ……」
ボロボロと崩れていくルイスの体。
本人が満足してしまったせいか、そのペースは急速に上がっている。
「じゃあ……そろそろ……休み、もらいますわ。有給……山ほど残ってるんで……」
「あぁ……好きなだけ使うといい。足りないなら、傷病休暇も出してやる」
「ははっ……うちって……そんなに……ホワイトでしたっけ……?」
痛みはないのだろうか。
四肢が完全に崩れ落ちても、ルイスは苦しむ素振りも見せず、人生最後の長期休暇を前に笑顔を見せる。
「んじゃ……お言葉に甘えて……給料も余ってるし……ちっと贅沢でも……してきますわ……ウィスタリカの……リゾートで……綺麗な姉ちゃん囲って……豪……遊………」
腹から下も炭になったが、それでもまだ目が見えるのか、ルイスがふと、課長から視線を外す。
そして、何が楽しいのか、口の端をニヤリと吊り上げ、ゆっくりとその目を閉じた。
「……………」
「ルイス?」
最後の言葉は届かなかった。
ルイスは楽しげな顔まま、炭になって店の床に散らばった。
「……存分に休め。今度は、休暇中の呼び出しも無しだ」
ゆっくりと課長が立ち上がる。
その表情は、普段と一切変わらない。眉間に皺を寄せた、何とも話しかけづらい、厳しい顔つきだ。
「部長に連絡を。軍にも動いてもらう必要がある。ギルドにも協力要請が必要だ。状況は想定以上に悪い。時間もない。ルイスが持ってきたものを無駄にするな」
店に集まったスパイ達は、無言で、だが力のこもった目で頷き、ぞろぞろと店を出て行った。
「目に感情を込めすぎだ、未熟者共が」
そう言う課長は、誰も見たとこがないような、満足そうな笑みを浮かべていた。
このルイスですが、作者の別作品
『この『目』と『耳』は誤魔化せない~女幹部『氷華』のイングリッド様が決起集会中に漏れそうになっていることを俺だけが知っている』
https://ncode.syosetu.com/n2769hq/
で、イングリッドさんをお漏らしに追い込んだ変態スパイ男です。
捕まった後、ドクター・ヘイゼルに色々やられました。
ちなみに死ぬ間際の意味ありげな描写には、何も重要な伏線とかは含まれていません。
貴族令嬢に扮した女スパイの膀胱の中身をチラ見して『89%……』って言ってるだけです。
スパイさん達の出番はこれだけ。次回からはアリア達の話に戻ります。