83.いつまでも
気がつくと、わたしは見慣れた通学路に座り込んでいた。
サークルの練習帰りに使う近道。レンガ塀の通りを抜けると、すぐ先に駅がある。
腕の中には、テニスラケットがあった。ただし、異世界で不思議な輝きを放っていたガット部分は、何の変哲もない元のナイロンに戻っていた。
異世界に召喚された時に落としてしまったカバンも、そのままの状態であった。
わたしは呆然とその場に座り込んでいたが、道路を行き交う人達の邪魔をしていることに気づき、よろよろと立ち上がって道の端に寄った。
平日の夕刻とあって、道行く人達はみな家路を急いでいるように見える。
信じられない。
何もかも元通りだ。何一つ、変わったことなどない。
ついさっきまで魔女の城にいたなんて、信じられない。何もかもすべてが、夢のようだ。
帰ってきた。帰ってきたんだ。元の世界。わたしの世界に。
震える手でカバンを探り、スマホを取り出した。
何件か連絡が入っていた。明日ご飯食べに行こ、バイト決まったんだ、明日の一限目休みだってよ。懐かしい日常がいちどきに襲ってくる。
スマホの画面が歪み、わたしは自分が泣いていることに気づいた。
急いで目元をぬぐい、深呼吸をくり返す。
なんで泣いてるんだろう。
帰りたかった世界。懐かしい日常に、やっと戻ってこれたのに。
誰かの人生の責任を負うこともない。元通り、すべて望んだ通りの結末だ。
それなのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
わたしはレンガ塀に背を押し付け、ずるずるとその場に座り込んだ。
認めたくない後悔が胸に押し寄せ、涙が止まらなかった。
わたしはバカだ。
あの時、ためらってしまった。一度だけのチャンスを、掴もうとしなかった。
もう会えない。エスターにも、ラインハルトにも……。
せめて一言くらい、ちゃんとお別れを言いたかった。ありがとうって、伝えたかった。
こんな急に別れがやってくるなんて、思いもしなかった。
彼らは大丈夫だろうか。
亡霊も魔女も、あの時、消えかかっていた。
結果的に魔女の復活を防ぐことが出来たのだから、危険はないかもしれない。エスターの呪いも解けただろう。
「……エスター」
名前を呼ぶと、涙があふれた。
いつの間にか大好きになっていた。礼儀正しく優しい騎士様。もう二度と会えない……。
もっと優しくすればよかった。彼がわたしにしてくれたように、もっと優しく、大切にしてあげればよかった。ケンカなんか、しなければよかった。
彼に投げつけた酷い言葉ばかりが思い出され、胸が痛くてたまらなかった。
ごめんなさい、とわたしは心の中で呟いた。
どうかエスターもラインハルトも、幸せになりますように。アリーやルーファス、皆の願いが叶い、幸せに、無事に過ごせますように。
わたしにはもう、祈ることしかできない。二度と会えない、彼らの為に。
声を殺して泣き続け、しばらくしてからわたしはようやく立ち上がった。
帰らなくちゃ。部屋に帰って、夕飯を食べて、明日の準備をして……。
そう思うのに、どうしても歩き出せなかった。自分の失ったもの、見ないようにしていた願望を思い知らされ、動くことができなかった。
エスターに、ここにいて欲しかった。彼が後悔してもかまわない。戻れない世界へ連れてきたことをなじられ、責められてもいい。
どうしてわたしはあの時、ためらってしまったんだろう……。
その時、俯くわたしの足元に、カシャン、と何か金属が落ちてきた。
「……え?」
それは、通学路には似つかわしくない、やけに派手な装飾の施された短剣だった。
わたしは恐る恐る背を屈め、それに手を伸ばした。異世界でわたしを助けてくれた……こともあったけど、立ち位置が魔物寄りの、ちょっと物騒な短剣。どうしてこちらの世界に……。
手に持つと、短剣の柄頭に埋め込まれた緑色の宝石が、一瞬、赤く光ったような気がした。
「ぅわっ」
思わず怯み、短剣を取り落とすと、
「ニギャッ」
野太い猫の鳴き声がした。
驚いて見ると、地面に落ちた短剣目がけて小さな黒猫が飛びかかり、しゅたっと前脚で押さえ込んでいた。
「え……」
まさか。この短剣と黒猫。まさか……。
コツ、コツと自分に近づいてくる硬い靴音に、わたしは俯いたまま、目を上げられずにいた。幻だったら辛すぎる。
この足音は、王城で何度も聞いた。長い革靴の、硬い靴底がたてる音だ。
「ユリ様」
優しい声がした。わたしは視線を上げられぬまま、声の主に駆け寄り、勢いよく抱き着いた。
「ユリ様……」
すぐさま抱きしめ返され、その逞しい腕の感触に、わたしは泣きながら顔を上げた。
「申し訳ありません。ユリ様と同じ時刻にこちらに着くよう、願ったのですが……」
「エスター」
見上げると、歪んだ視界に翡翠のように美しい瞳が映った。見慣れた端正なその面立ちに、胸が締めつけられるような気がした。
「エスター……」
夢だろうか。夢でもいい。エスターがいるなら、夢でも現実でもどっちでもいい。
「泣かないでください」
エスターの顔が近づき、額やまぶた、涙のあふれる目尻を唇が這った。首筋を支えるように手を回されたかと思うと、少し強引に口づけられた。
熱い唇の感触に、わたしは目を閉じ、エスターの背中に回した腕の力を強くした。
何度も角度を変えて唇を貪られ、呼吸が苦しくなるほどだった。
「エスター、ほんとに? 本物……?」
口づけの合間に、わたしは喘ぐように尋ねた。
自分の腕で抱きしめ、相手に抱き返されても信じられない。どうやってこちらの世界にやって来たんだろう。
「ユリ様」
もう一度わたしに口づけようとして通行人とぶつかったエスターは、相手に謝ってからわたしを抱きかかえるようにして道の端に寄った。
通行人が驚いたようにエスターを二度見している。改めてエスターを見ると、魔女の城にいた時と同じ格好をしていた。荷物袋を背負い、白いシャツ、黒いズボンに革のロングブーツ。それだけならさして目を引くものではないが、長いマントやゴツめの肩当、手の甲まで覆う籠手などが明らかに周囲から浮いている。またエスターが俳優ばりのイケメンであることから、余計に衆目を集めてしまっているようだ。
エスターはレンガ塀にわたしの体を押し付け、腕で囲い込むようにした。
「……何やら皆がユリ様を注視しているようです。武器は持っていないようですが……」
周囲を警戒するように見回すエスターに、わたしは思わず吹き出した。
自分がイケメンだから注目されてるなんて、考えもしないところがエスターらしいと思う。
「ユリ様?」
不思議そうにわたしを見つめるエスターに、ああ本物なんだ、とわたしはようやく安心できた。
本当に、本物のエスターだ。夢じゃない。エスターが、わたしの世界に来てくれたんだ。
「……エスター、こっちの世界にどうやって来たんですか?」
わたしの質問に、ああ、とエスターが思い出したように頷いた。
「あなたが消えた後、私達にも祝福の力が流れ込んできたのです」
エスターが簡単に説明したところによると、わたしが元の世界に戻った後、亡霊と魔女も消え、城にはエスターとラインハルトだけが取り残されたのだそうだ。二人は動揺し、わたしの後を追おうと異世界へ渡る魔法陣を起動させようとした。
その時、二人に祝福の力が流れ込んだのだという。
「……それで、ユリ様が私達のために祈ってくださったのがわかりました」
エスターはわたしを抱きしめ、言った。
「私はその力を使い、ユリ様の後を追いました。何故か短剣と魔女の使い魔も、一緒にこちらの世界へ来てしまったようなのですが……」
エスターは、短剣にじゃれつく黒猫をちらりと見て、ため息をついた。まあ、今は正真正銘、猫の姿をしているし、こちらの世界にいても問題なさそう、と思っていると、
「……それから、ラインハルト様なのですが」
言いづらそうなエスターの様子に、わたしは緊張した。
え、まさかラインハルトに何かあったとかじゃ、ないよね。大丈夫だよね?
「殿下からの伝言です。『己の力のみでおまえを守れるようになったら、そちらの世界へ行く。待っていろ』とのことです。……念のため申し添えておきますが、この言葉に何ら拘束力はなく、待つ必要など一切ありません」
少し憮然とした様子のエスターに、わたしは思わず笑ってしまった。
「ユリ様」
エスターが懇願するように言った。
「殿下を待つなどとは、おっしゃらないで下さい。どうか私を選んで下さい」
きつく抱きしめられ、わたしは笑いながらエスターの背中を叩いた。
「とりあえず、帰りましょう。……わたしの部屋、すごく狭いんで、びっくりしないで下さいね」
わたしの言葉に、そう言えば、とエスターは思い出したように荷物袋を背から下ろして言った。
「こちらの世界へ着く直前、私にも神託の成就が告げられました。おまえは信じた道を迷いなく進んだ、その祝福として、世界を渡ってもおまえの持っているものと相応のものを贈ろう、と」
わたしは首を傾げた。
向こうの世界で、エスターの持っていたもの。それと相応のものって、なんだろう。身分とか? たしかに無戸籍だといろいろ困るだろうな、と思っていると、エスターが何かを荷物袋から取り出した。
「……これは何でしょうか? ずいぶん精巧な肖像画ですね」
エスターが感心したように小さなプラスチックカードを見て言った。そ、それは……。
「それ、うちの大学の学生証です! え、待って史学科……、エスター、史学科の生徒になってる……」
わたしのしどろもどろの説明に、ユリ様と同じ学び舎に通えるのですか? とエスターは嬉しそうだ。
そ、そうか、エスターってわたしと同じ歳だったから、こっちの世界では大学生なんだ。史学科なのは、ひょっとしてお祖父さんと遺跡巡りしてたから?
「エスター、これと同じようなカードって他にないですか?」
学生証があるなら、住所が記載された身分証もあるはずだ。
……いったい住所はどこになってるんだろう。わたしのアパートだったりして。
「これは……、似たような形状をしていますが、これが身分証なのでしょうか? 帳簿のような小さな冊子もついておりますが」
エスターの差し出したカードに、わたしはちょっと笑った。
「それ、銀行のカードと通帳ですね。神様、親切ですねー。向こうの財産もこっちに移して……」
言いかけたわたしは、通帳の数字を見てうっと怯んだ。
え……、なにこの数字。十桁の数字が印字された通帳なんて、初めて見た。
エスター、向こうの世界ではセレブだったんだ……。お祖父さんがお金持ちそうな感じだったし、貴族街に家もあったしな……。
「ああ、身分証とはこれでしょうか。同じ肖像画があります」
エスターの差し出したカードを受け取り、裏面を見ると、ちゃんと住所が記載されていた。スマホでその住所を調べてみると、
「え、ここ……?」
身分証の住所は、いま現在、わたし達が立っている場所だった。どういうこと。
どこかに入口は、とレンガ塀に沿って少し歩くと、角を曲がった先に、古風な鉄製の門扉が見えた。
「これは……」
門を見たエスターが驚いたように言った。
「この門は、祖父の……、あちらの世界にある、祖父の家と同じものです。何故ここに……」
エスターが触れると、センサーが反応して門が開いた。
すると、エスターより先に何かがサッと門の中に入った。それを追いかけるように黒猫も中に跳び込む。ニギャギャッと鳴きながら、右に左にと楽しげに動く短剣の後ろを、黒猫がついてゆく。
エスターに手を取られ、わたしもエスターと一緒に門の中に足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、いつか訪れたエスターの家の庭と同じ景色だった。いまを盛りと様々なバラが咲き乱れ、夢のような美しさだ。奥に見える屋敷もまったく同じで、まるでこの一画をそのままそっくり異世界から運んできたように見える。
「……こちらの世界に魔力はないはずなのに、ここは……、まるで向こうの世界そのままです」
エスターは呟くように言い、腰に差していた魔法の杖を手に取った。
「……不思議ですね。こちらの世界に来た時、わたしは剣を失っていたのに、魔法の杖だけは残されていました。もう魔力もないはずなのですが……」
こちらの世界に来た時、剣がなくなっていたということは、もうここでは剣を使って戦うことはないということなのだろう。でも、魔法の杖は残されたということは……。
「ここだけは別なんですよ、きっと。魔法も使えるんじゃないでしょうか」
期待を込めてわたしが言うと、エスターは微笑んで杖を構えた。
『花の雨』
軽くエスターが杖を振ると、はたして空からひらひらと花びらが降ってきた。
あの時と同じ。初めてエスターが魔法を使ってみせてくれた時のように、花吹雪に包まれる。
「やっぱり! すごい!」
わたしが手を叩いて喜ぶと、エスターは杖を下ろしてわたしを抱き寄せた。
「エスター」
「ユリ様……」
エスターはわたしの髪に顔を埋め、ささやくように言った。
「あの時、あなたは今と同じように私の魔法を喜んでくださった。花の雨が降る中、私に笑いかけてくださった。あの時、私はあなたに心を奪われました。あの時からずっと、私にはあなただけです。……どうかユリ様、私があなたの傍にいることをお許し下さい」
「エスター」
わたしは何度も頷き、エスターを抱きしめ返した。
「傍にいて。ずっと、ずっといて。……もしエスターが世界を渡るなら、今度は、わたしがついて行くから」
「ユリ様」
エスターの顔が近づき、キスされた。何度もキスをくり返され、わたしからもエスターに口づける。
「ユリ様、お慕いしております」
口づけの合間にささやかれ、痛いほどの力で抱きしめられた。
わたしも好き。大好き。
エスター。異世界の呪われた騎士。
そして今は呪いも解け、わたしだけの騎士になってくれた。
もう離れない。いつまでもずっと、わたしの傍にいてほしい。
わたしは目を閉じ、満たされた思いでエスターの胸に顔をうずめた。




