76.炎に焼かれて
「エスター、やめて!」
わたしは叫び、夢中で手に持ったラケットを振った。
『風の――』
だが、何故かラケットに魔力が伝わらず、防御魔法を放てない。
見ると、わたしが持っていたのは牢内で拾ったラケットで、わたしのものではなかった。
こんな時に!
わたしは自分の迂闊さに血の気が引く思いがした。
どうしよう、わたしのせいだ。
もしエスターに何かあったら、わたしの……。
「やめて!」
わたしは絶叫し、無意識にテニスラケットを銀色の炎に向けてかざした。
ぎゅっと目をつぶり、泣きたい気持ちで強く願う。
もしエスターが死ぬなら、わたしも一緒に死んでしまいたい。
守られて自分だけ生き延びるより、エスターと一緒に死んだほうがいい。
目を閉じ、襲いかかる炎になす術もなく立ちすくんでいると、
ドン!! と凄まじい衝撃が右手に走った。
「ぅあっ!」
わたしは思わず声を上げ、体を弓なりに反らせた。
ビリビリとした痺れが、右手から体中を走り抜ける。
「あ、あ……っ」
痛みに目を開けると、右手がラケットごと銀色の炎に包まれていた。
「ユリ様!」
エスターが叫び、わたしの右手を抱き込むように握りしめた。
だが、何故か炎は消えず、エスターの手や服に燃え移りもしなかった。
「何故、こんな……、どうして!」
「エスタ……」
かすれた声で呼びかけると、エスターが泣きそうな表情でわたしを見下ろした。
「ユリ様」
エスターは無事だ。
良かった、と思った途端、神経が焼き切れるような痛みが全身を襲った。
「う……」
わたしは呻き、たまらず目を閉じた。
「ユリ様!」
『炎の槍!』
ラインハルトが攻撃魔法を放っている。
だが、無駄だ、と冷たい声が頭に響いた。
目を閉じていても、銀色の炎がチリチリとわたしの肌を焼くのがわかった。
いや違う、炎は既にわたしの中にある。体中をめぐり、心臓をも焼き尽くそうとしている。
「ユリ様!」
エスターが悲鳴のようにわたしの名を呼んだ。
わたしを抱きしめ、名前を呼んでいるはずなのに、その声はどこか遠い。
「ユリ様、目を開けてください!」
ユリ様、と呼ぶ声が遠くへ消えてゆく。
代わりに、まばゆくきらめく銀色の光がわたしを包み込んだ。
《こっちだ》
やさしく導く声がする。
知らない声だ。でも、とても心地よく、やさしい声だった。
誰なのかわからない。わからないはずなのに、その声を聞くと、何故か浮き立つように幸せな気持ちになった。
《ほら、こっち。……どうだ? 気に入ったか?》
うながされ、目を開ける。
え? とわたしは驚き、声を上げた。
目の前に広がっていたのは、惑いの泉だった。あの無残に焼け焦げ、枯れた泉ではなく、初めて見た時のように花が咲き乱れ、清らかな水で満たされた泉がそこにあった。
「ここは……」
あれ、とわたしは喉に手を当てた。なんだろう、声が変だ。
低くて、わたしの声じゃないみたい。
「気に入らないか?」
不安そうに聞かれ、反射的に首を振った。
「そんなことない。とても綺麗で、驚いたよ」
考える間もなく、するすると口をついて言葉が出てくる。低くやさしい声だ。……これがわたしの声? そんなはずはない。ない、はずだ。
……わからない。なんだろう、頭がクラクラする。
「そうか、良かった」
ほっとしたように笑う気配がした。
誰だろう、と隣を見たが、光がまぶしくてよく見えない。長い黒髪の……、恐らくは女性だ。
こんな知り合いいたっけ、とわたしは首をひねった。頭に霧がかかっているようにぼんやりとして、何も考えられない。
「……この場所は、誰も知らない。ここで落ち合って、一緒に逃げよう。おまえが一緒なら、何も怖くない」
言うなり、ぎゅっと抱きつかれた。わたしも彼女を抱きしめ返す。
え、いや……、ちょっと待って。なんでわたし、知らない女性と抱き合ってんの?




