7.魔獣
わたしとエスターは馬に乗り、王城から市街地に出た。
いや、うん、正確にはエスターが馬に乗り、その前に座ったわたしを、エスターが落ちないように腰に腕を回し、抱えてくれた。
「すみません、お手数おかけします……」
わたしは後ろのエスターに小さく謝った。
体験学習で一度だけ馬に乗ったことはあるが、こっちの馬って、なんか気のせいか、かなり大きいような……。わたしのことなんか、簡単に振り落とせそうなパワーを感じる。とても一人で乗るのは無理だ。
「お気になさらず。怪我人を抱えて移動することもありますから、慣れております。それに、これは軍馬ですから、ユリ様にはなかなか難しいでしょう。もしよろしければ、気性の穏やかな馬を見つくろって……」
エスターは言いかけ、苦笑した。
「いいえ、それより先に、ユリ様を元の世界にお戻ししなければなりませんね。本来なら、もうユリ様は元の世界に戻られていたはずなのですから」
馬に揺られながらだと視線が定まらないけど、それでも異世界の街の様子は気になる。わたしはエスターに抱えられたまま、きょろきょろと周囲を眺めた。
ぱっと見、元の世界の青空市場と同じような露天商が立ち並ぶ石畳の通りを、エスターはゆっくりと馬を進めていく。通りの幅は広く、荷馬車がすれ違っても余裕があった。けっこうな賑わいで、一人で立ち働く女性の姿も目につく。魔女との戦いで兵士の数が足りないような話も聞いたけど、治安はよさそうだ。
ただ、道行く人達の格好は、やはり元の世界とは異なっている。
女性はみな踝まで隠れる長さのワンピースに、前掛けをしている。男性はシャツにズボン、ベストに革の長靴という格好が多かったが、ただ、そのほとんどがフツーに短剣や斧を腰に下げて歩いているのだ。露天商の中には、明らかに装飾用ではない、実用とおぼしき武器や防具を扱っているお店もあった。うーん、異世界……。
ちなみにわたしも、今日は魔法使い御用達のフード付き黒いローブを着用している。下に着ているシャツにズボンも、一式まるごと王宮支給という形でいただいてしまった。ありがとうラインハルト様!
エスターは昨日見たのと同じような白いシャツに黒いズボン、革のロングブーツにマントという格好をしていた。腰にはいつもの長剣を剣帯で吊るしている。他の人達と似たような服装だし、ダークブロンドに緑の瞳という色合いもさして珍しくないのに、その端正な顔立ちのせいか人目を引いていた。道行く女性達が、頬を赤らめてエスターを見、なにか囁きあっている。騎士さま、という言葉も聞こえた。エスターは有名人なのかもしれない。
「ここが結界です」
エスターが先に馬を下り、その後でわたしを下ろしてくれた。
結界といわれても、低い木の柵が巡らせてあるだけで、特に変わった様子はない。
ただ、まるで線で引かれたように、結界の周囲には何の建物もなく、人通りも途絶えている。ほんの数メートル先には賑やかな通りがあるのに、ここは不自然なほど静かだった。
エスターは木の柵の内側に馬をつないだ。
「ユリ様、ここから二刻ほど歩いた先に、ハティスの森があります。今日は森には入りませんが、十分注意なさってください。決して私の前には出ず、いざとなれば、走って逃げるとお約束ください」
よろしいですか? と聞かれ、わたしはコクコクと頷いた。
なんか一気に緊張してきた。言われなくても、魔獣との戦いで付け焼刃の魔法が役に立つとか、これっぽっちも思っていない。わたしは戦いにおいては素人もいいとこなんだから、まずはエスターの言う通り、身を守ることが最優先だ。
わたしはローブの中で、ラケットをぎゅっと握りしめ、エスターの後をついていった。
結界の先は、舗装されていない赤土の細道がうねうねと続いている。周囲にはまばらに灌木が生えているだけで、立ち枯れた草木がわびしく地面にへばりついていた。そのずっと先に、霧で半ば隠された黒い森があった。あれがハティスの森だろう。
ふとエスターが何かに気づいたように立ち止まった。黙ったまま、左手で下がるように指示される。その通り二、三歩後ろに下がった、その瞬間だった。
シャアアアア! と空気を切り裂くような威嚇音とともに、何か黒いものがこちらに飛びかかってきた。エスターが、目にもとまらぬ速さで剣を横なぎに払う。
びしゃっ、と何とも言いがたい音をたて、黒く長いものが地面に落ちた。
わたしは地面に落ちたそれを目にし、あやうく悲鳴を上げそうになった。
わたしの身長の半分くらいの長さの黒っぽい蛇が、真っ二つに切断された状態で、激しくのたうっていたのだ。
周囲には赤黒い血が飛び散り、生臭い匂いがした。エスターは蛇に近づくと、再度剣を振りかぶった。
見ていられず、わたしは思わず目を逸らした。ぶしゃっ、と気持ちの悪い音に、吐き気がこみ上げる。
「……ユリ様、終わりました」
エスターの言葉に、恐る恐る目を向けると、蛇の姿は消えていた。代わりに黒っぽい靄のようなものがただよい、こちらに向かってまるで触手のように這いよってくる。
「えっ、なに、やだ。気持ちわるっ」
わたしは思わず、手にしたテニスラケットで、しっしっと黒い空気を払った。
黒い空気はラケットに払われると、チチッと黒っぽい火花を散らし、消えてしまった。
「なんと」
エスターは驚いたように目を見開き、わたしを見た。
「ユリ様は、瘴気も祓えるのですか……」
なんの事かわからず、わたしは首を傾げた。
「しょうき? っていったい……いえ、それよりさっきの蛇は? ここに、その……、蛇の死骸がありましたよね?」
「……あれは、魔獣です」
エスターは目を伏せ、淡々と答えた。
「魔獣は、首を刎ねるか心臓を突き刺すかすれば、あのように、瘴気と呼ばれる黒い靄となって消えます。そして、その瘴気がたまり、固まって新たな魔獣となるのですが……」
エスターは言葉を切り、わたしを見た。
「ユリ様は、呪いを解除できるだけでなく、瘴気自体も消してしまえるのでしょうか。少なくとも、先ほどの魔獣の気配は、きれいに消えていますが……」
エスターの言葉に、わたしはハッとした。
そうだ、エスターの呪い! 忘れてた!
わたしは慌ててラケットで、エスターの肩や背中をぱたぱたと叩いた。
ふわっと淡いピンクの靄がたち、すぐに金色の火花とともに消えてゆく。
あれ、なんかこの間に比べて靄も薄いし、火花もほとんど出ない。大丈夫なのか、これ。
わたしがあせっていると、
「ユリ様、大丈夫です」
エスターがラケットをそっと押さえ、言った。
「大した魔獣でもありませんでしたし、これくらいなら呪いの発動もありません」
「あ、ああ、そう……、そうですか……」
よかった、と安心したら、全身から力が抜けてしまった。
怖かった。魔獣か何かわからないけど、剣で切り裂かれた死体とか、グロくて無理。
真っ二つに切り裂かれた蛇を思い出し、わたしはその死骸があった場から二、三歩後ずさった。その拍子に小石か何か踏みつけたのか、バランスを崩してフラついてしまった。
「ユリ様!」
エスターに抱きとめられ、あやうく倒れずに済んだ。
「大丈夫ですか」
心配そうに聞かれ、わたしは慌てて頷いた。
あっぶなー。いくら靄になって消えたとは言え、あのグロい蛇の死骸があったところに倒れるとか、絶対イヤだ。
エスターにお礼を言おうと顔を上げると、
「……申し訳ありません、ユリ様」
どこか苦しそうな顔をしたエスターと目があい、わたしはびっくりした。
え、なんでエスターが謝るんですか。
魔獣から守ってくれた上、倒れそうになったところを支えてくれた。謝らなきゃいけないことなんて、エスターは何一つしていない。
どちらかと言うと、役立たずなわたしのほうが謝るべきだと思うんですが。
「今日は、もう、戻りましょう」
エスターに言われ、わたしは戸惑いながらも来た道を引き返すことにした。
なんだろう、なんかエスターがすごく落ち込んでるみたいなんだけど、さっぱり原因がわからない。何が問題だったんだ?




