43.魔の森の夜
その日は誰も負傷することなく、ハティスの森に入って初めての日を無事に終えることができた。
まだ日も高かったが、慣れないわたしを気遣ってくれたのか、早めに野営の準備をすることになった。二人とも慣れた様子で一人用の簡易テントを設置している。手間取るわたしを見かねて、エスターが手伝ってくれた。
「ありがとう……」
お礼を言いながら、わたしは少し凹んでいた。なんか今日は二人の足を引っ張るばかりで、何の役にも立ってない気がする。
「今日は疲れたでしょう。どうぞ、身を清めた後はお休みになって下さい」
初日はエスターが見張りをするという。周囲にゆるく結界を張ってはいるが、魔獣の侵入を防げるのは一度までだ。火を絶やさなければ、通常の獣と同じく火を忌避する魔獣は寄ってこないだろうが、万一のためにも見張りは必要だ。
見張りはエスターとラインハルトの交代制で、わたしにもできるかどうかは、状況次第で判断する、とラインハルトに言われた。
「わかっているだろうが、今のおまえに見張りは任せられん。寝こけて魔獣に殺されるのがオチだ」
ごもっともです……。
簡易結界でシャワーを浴びると、ちょっとスッキリした。本当はお風呂に入りたいけど、身体を清潔に保てるだけでもありがたい。
「お休みなさいませ、ユリ様」
「早く休め。寝坊するなよ」
シャワーを終えて簡易結界を解くと、エスターとラインハルトが声をかけてきた。
二人は焚火にあたりながら、これからの行程を話し合っているらしい。地面に何か図を描いている。
わたしも二人に挨拶を返すと、テントに入って目を閉じた。
明日に備えて早く寝なきゃと思うものの、目が冴えてしまって眠れない。
頭に浮かぶのは、昼間、ラインハルトに言われた言葉だ。
――もし失敗すれば、取返しがつかぬ。
時間も場所も遠く隔てられ、誰も知る人のない異世界へエスターを一人放り出すなんて、絶対にできない。そんな危険をエスターに負わせるわけにはいかない。
それなのに、わたしは同時にエスターの告白を思い出していた。
わたしを愛している、とエスターは言った。離れたくないと。
その時のエスターの腕の力や息遣いまで思い出し、わたしはテントの中でじたばたした。
あの夜、エスターにキスされた。馬上で抱きしめられ、後ろから覆いかぶさるようにして……。
わたしはむくりと起き上がった。ダメだ。とても眠れない。
明日の装備の確認でもしよう、とテントの中でゴソゴソしていると、
「ユリ様?」
エスターの声が聞こえ、わたしはテントからそっと顔を出した。
「エスター? どうかしましたか?」
「いえ。……その、ユリ様が起きている気配がしたので、どうかなさったのかと」
わたしはテントから出て、焚火のそばに座っているエスターに近づいた。
すると、
「夜は冷えます。こちらへ」
エスターにぐいと腕を引かれた。そのまま、エスターの足の間に座るような体勢にさせられ、後ろから抱き込まれた。
「エ、エスター……」
身じろぎするのを押さえるように、ふわりとマントを後ろから掛けられた。
「こうすれば寒くないでしょう?」
耳元でささやかれ、心臓が跳ねる。
寒くないどころか、顔から火が出そうだ。
ちょ……、ちょっと何これ。この体勢、恋人同士がよくやるヤツじゃないですか。恥ずかしいぃいいい!!
真っ赤になってうつむいていると、
「昼間、何かあったのですか?」
エスターの言葉に、わたしははっとした。
黙り込むわたしを、エスターがきつく抱きしめた。
「……ラインハルト殿下と、何かあったのですか?」
わたしは驚いて振り返ろうとしたが、エスターの力が強くて身動きができない。
「ちが、違います。ラインハルト様とは何もありません」
「……では、何を気に病んでいらっしゃるのですか?」
エスターの言葉に体が強張った。
わたしってそんなにわかりやすいんだろうか。いつも通りに振る舞ってたつもりなんだけど。
かすかにエスターの笑う気配がした。
「いつもあなたを見ているから、わかります。あなたが気になって、目を離せない。いつもあなたのことばかり考えてしまう」
甘い声に、胸が痛んだ。
この声が聞けるのも、あと少しの間だけだ。円にたどり着けば、もう二度と会うことはできない。
わたしは泣きたい気持ちをこらえて、口を開いた。
「……エスターを、わたしの世界に連れていくことはできません」




